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第1章③“好き”の正体、知りたいだけ

「……朝倉、ちょっといいかな」 ボイストレーナーの真島さんに声をかけられたのは、レッスンの終盤だった。 デビュー曲の仮録音を済ませた後、他のメンバーが小休憩をとるなかで、俺はスタジオの隅に呼ばれていた。 「“君に触れたい”のところ、……ちょっとだけ“甘さ”が足りないんだよね」 “甘さ” また、その言葉か。 「たとえば、“君の手に触れたい”の“君”に、もうちょっと感情がのるといいかも」 「……"手"じゃなくて、“君”の方に、ですか……?」 「うん。手に触れて、近づいた“その先”の感情って、あると思わない?」 “その先”。 考えたこともなかった。 わからなかった。 ―――――― その夜、LUALAハウスはいつもと変わらぬ生活音に包まれていた。 リビングでは高さんが大きな欠伸をしながら「明日のスケジュール、9時集合ってマジか……」と嘆いている。 奏ちゃんはそれに対して「遅い方だよ」と笑いながら、ソファの端でストレッチをしていた。 「陽くん、アイス食べる?」 瞬の声がした。冷凍庫を漁っていた彼が、嬉しそうにアイスバーを片手にこちらに振り返る。 「……ありがとう。今は、大丈夫……かな」 そう返して、俺はそのまま部屋へ戻った。 今日のレッスンで言われた言葉が、まだ頭の中に残っていた。 ―――――― ノートを開く。 歌詞カードのコピーを貼り付けたページは、すでに何度もペンが走っていて、余白が少なくなっていた。 『“触れたい”って、どういうこと?』 『“触れる”と“安心”する?』 『“触れたい”ときって、どんな気持ち?』 書いても、書いても、わからなかった。 でも、書いていると、少しずつ──ほんとうに少しずつ、言葉の輪郭が浮かんでくる気がする。 「……陽」 ふと、後ろから声をかけられて振り返ると、風呂あがりのしのが、髪をタオルで拭きながら立っていた。 Tシャツの裾が水を含んで、少しだけ肩に張り付いている。 「そんなに真剣に、何考えてんの?」 「……歌詞、のこと……かな」 ペンを置いて、少しだけためらってから、ノートをしのに差し出した。 「“感情をもっと入れて”って言われたんだけど……“触れたい”って、どういう気持ちか、いまいち……掴めなくて」 しのは机の横のベッドに腰かけて、ノートを覗き込んだ。 「“会いたい”とか“寂しい”って、たぶん、誰かのことを考えるから出てくる言葉なんだろうな」 「……誰か、って?」 「大事な人。……それって、必ずしも恋愛とは限らないと思うけどさ」 その言葉に、俺はしばらく黙った。 わかるような、わからないような……でも、否定はされなかった。 「俺、こんなんで、ほんとに歌えるようになるのかな……」 ぽつりとこぼした声に、しのはすぐに返してくれた。 「陽が納得するまで、俺は付き合うよ」 その声は、やっぱりあたたかくて、強かった。 「……ありがと、しの」 自分の声が少しだけ震えていた気がして、照れくさくなって目を逸らした。 「どういたしまして」 そしてまた、ノートに目を戻す。 「……“触れたい”ってさ」 「たとえば、誰かが泣いてたら、黙って肩に触れる……みたいな。そういうの……ある、だろ?」 「それって、“好き”ってこと?」 「“好き”の中のひとつ、かもな。……“守りたい”とか、“そばにいたい”とか、そういうのも」 「……そっか」 しのの声は、やっぱりやさしかった。 言い切らない。でも、ちゃんと隣にいてくれる。 そういうのが、たぶん── “安心する”って、ことなのかもしれない。 ―――――― 時計の針が、日付をまたいでも、俺たちはまだノートに向き合っていた。 「“ありがとう”の先にある言葉って、何?」 最後にそう書き足して、ノートをそっと閉じた。 となりで、しのが小さく笑った気がした。 ……安心させるみたいな、そんな笑い方だった。 俺の“わからない”を、笑ったんじゃなくて。 それごと、受け取ってくれたみたいに。 感情はまだ、全部名前がつけられない。 でも、いま一緒にいる誰かと、それを見つけようとしている時間は、確かに“優しい”と思った。 ……そしてしのは、きっと、俺よりも先に、それを知ってる。 それがなんだか、ちょっと、あったかくて、くすぐったかった。

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