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第1章④ありがとうの先にあるもの

レコーディング当日の朝は、思ったより静かだった。 窓の外では鳥が鳴いていて、LUALAハウスのリビングには、パンが焼ける匂いと、瞬がこぼす「お腹すいた……」の声だけが漂っていた。 「陽くん、食欲ある?」 奏ちゃんがそう聞いてくれたけど、俺は首を振った。 「……ちょっとだけ……緊張してるのかも」 「うん、顔に書いてある」 「書いてる……?」 「でっかく“どきどき”って感じ」 「……そっか」 思わず笑ってしまった。そういうところ、奏ちゃんってほんとすごい。和ませるのが、上手い。 「ほら陽、バナナ半分だけでも食べとけ」 高さんが横からフォークを差し出してくる。断れなくて、ひとくち、口に運んだ。 甘くて、柔らかかった。 ……ちょっと、涙腺にきた。 ―――――― スタジオまでの道のり、車の窓から見える景色は、いつもより遠く感じた。 誰かが話してる。笑ってる。スタッフさんが機材の説明をしている。全部が、少しだけ遠かった。 自分の心だけ、置いてきぼりになってるみたいだった。 「大丈夫?」 隣から、しのの声がした。 「……うん」 それしか言えなかったけど、その声は、確かに今の俺を、ここに戻してくれた気がした。 ―――――― レコーディングブースに立ったとき、手のひらが汗ばんでいた。 ヘッドフォン越しに流れる音。マイクの先に広がる、透明な空間。 そのなかに、自分の声を落とす。 「君の手に、触れたい——」 音が止まる。 指示が飛ぶ。「はい、OKです。もう一回いこう」 何度か繰り返すうちに、ふと、昨日のことを思い出した。 “誰かが泣いてたら、黙って肩に触れる……みたいな。そういうの……ある、だろ?” ……そっか。そういうのが、あるんだ。 「触れたい」って、温度なんだ。 “そばにいたい”って、願いなんだ。 次のテイクで、ほんの少しだけ、息を強く吐いた。 「君の手に、触れたい」 ―――――― 終わったあとは、放心していた。 スタジオの外のベンチに座って、ぼうっと空を見上げていた。 「お疲れ」 しのが隣に座った。 「……しのがいてくれて、よかった。ほんとに、ありがとう」 「俺、なにもしてないよ」 「そういうふうに言ってくれることが、たぶん……すごく大事なんだと思う」 しのはそれ以上、何も言わなかった。ただ、隣にいてくれた。 しずかな沈黙。心が落ち着いていく、透明な時間。 (……そういうの、ちゃんと“伝えたい”って思った) ―――――― 夜、家に帰ってから、俺はノートを開いた。 今日のページには、こう書いた。 『“ありがとう”のあとに、つづく言葉が、まだわからない』 その下に、もう一行。 『でも、その言葉を探してる時間は、少しあたたかい』 書いてみたけど、しっくりくる答えはまだ見つからなかった。 でも、“ありがとう”で終わらせたくないって、ちゃんとそう思った。 ノートを閉じると、部屋の空気がやさしく揺れた。 隣のベッドでは、すでにしのが小さな寝息を立てていた。 しのは、優しい人だ。 自分には特別優しくしてくれているような……なんて、ちょっと自意識過剰な気もするけど。 けど、もしかしたら。 俺が「ありがとう」の先を知りたいって思うのは、 それを、しのに言いたいから……かもしれない。 「……ありがとう、しの。……ほんとは、もっと、伝えたいんだけどな」 声に出したその言葉は、静かに空気に溶けていった。

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