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第84話 ハイリの悪戯

「ハイリ様。ただいま参りました」  その直後、空気が変わった。ぼくは片膝をつき、ハイリの前で右手を左胸に添えて座り込んだのだ。  自分が気づいた時には既に遅く。ハイリが深く息を吸ったのが伝わってきて、ぼくはやってしまったとその場で即座に立ち上がった。この従属の姿勢はスウェロニア家のしきたりで、使用人の時にハイリに呼ばれた時に見せる姿勢だったからだ。  さっきの呼び掛けに、主人としてのハイリを強く感じて本能的に跪いてしまったのだ。ぼくはひたすらにハイリに謝った。 「すっ、すみません。失礼しました」  するとハイリは頭を垂れるぼくを見下ろしてから、そっとぼくの肩に手を置いて呟いた。 「もういい。シャルメーニュには使用人育ちの者もいると聞いている。その癖が出てしまったのだろう。先程のわたしはそんなにお前の主人らしかったか?」 「っ……!」  テーブルに肘をつき頬を手で支える姿勢のまま、そんなことを言われた。無表情のまま、翡翠色の瞳が問いかけてくる。  なんかぼく、にいさまにいじられてる、のかな?  ハイリは真顔なので何を考えてそんなことを問うてきたのかぼくにはわからない。この状況を見ているのは後ろにいるレフさんだけだけど、あくまでもハイリはぼくとの繋がりを見せたくないみたいだ。ぼくも呼応させるような形で、芝居を演じるように困り眉で苦笑する。 「はい。ぼくのご主人様と雰囲気が似ている気がして、その頃の癖が出てしまいました」  するとハイリはふっと軽く息を吐いた。ぼくは申し訳なさでいっぱいの胸を抱えるようにしてハイリの隣の椅子に腰掛けた。  ぼくらのやり取りを見ていたレフさんは、ジト目でぼくを見てくる。その視線に耐えられそうになくてつま先を動かしていると、テーブルの下でハイリに軽くブーツの先端を足先でこづかれた。  ぼくは幼い頃から、不安になるとつま先を揺らしてしまう癖があるのだ。それを知っているのはハイリだけだった。顔を見なくてもわかる。たぶん、今ぼくは躾られてる。主人に従う犬のように。  ぼくはつま先を揺らさないように意識を足に集中させた。レフさんはテーブルの下で起きていることに気づいていないようで、ぼくとは反対側のハイリの隣の椅子に腰掛けた。何か言いたげに口をきゅっと閉じている。  なんか、少しむっとしてる? さっきまでご機嫌でるんるんだったのに、なんでだろ?  ぼくは普段と様子の違うレフさんに意識を取られ、再度またつま先が揺れていたようだ。テーブルの下で、ハイリの足がぼくの足を絡めとるように引き寄せる。こつん、と革の黒いブーツが擦れる感覚にはっとしてまた意識を足先に集中していると、ハイリの爪先がぼくのふくらはぎをつーっと下から上になぞるようにしてすりつけられて、くすぐったい。なんだか、猫が足をすりすりしてくるような不思議な気持ちになってしまったから。 「……」  ぼくはちらり、と視線だけをハイリに向けた。無言の何を考えているのかわからない表情のまま、足先だけはぼくを翻弄してくる。  にいさまのこういった悪戯好きなところは、幼い頃から変わらないな。  そんなふうに胸の温まる思いをしてから、ぼくはむすっとした表情を浮かべるレフさんに向き直る。 「レフさ……っ」  ぼくが勇気をだして呼びかけた瞬間だった。 「ぐーぎゅるるっ」  と、ぼくの腹ぺこのお腹が鳴り響いてしまったのは。その大きな音に2人ともびっくりしたように目を丸めている。猫の目みたいにまん丸で瞳孔が開いている。  ぼくは恥ずかしさといたたまれなさで顔を手で覆って懺悔する。 「すっ、すみません。お腹鳴っちゃいました……」  数秒の無言の間のあとで、ぷくく、という笑い声が聞こえてきてそっと両手を顔から離す。目を垂らして、身体を揺らして笑うレフさんがいて、少しほっとした。さっきまですごく怖い顔をしていたから。 「もう、仕方ないなあ。色々と話したいことはあるけど、まずはお昼ご飯食べようか。今持ってくるから待っててね」  そう言うとまだ笑いを堪えたまま肩を揺らしてレフさんがキッチンへ姿を消した。  不意に、ぼくはハイリの反応が気になってレフさんがいないことを確認してからこっそり隣の様子を伺った。 「……!」 「?」  すると、ぱちりと目が合ってしまった。ハイリはすん、とすぐに視線を逸らしてしまう。  なんか悲しい。  肩を落としてしょげていると、そんなぼくに同情してくれたのかハイリが重い口を開いた。 「ほんとうにお前というやつは……」  その先の言葉に期待してしまう自分がいた。馬鹿にされてもいい、注意されてもいい。ただ、昔みたいな雰囲気のハイリから洩れる言葉に耳をすませた。 「甘やかさずにもう少し厳しく躾けたほうが良かったか」  ため息と共に呆れたような微笑みを見て、確信した。  ぼくとハイリの心の距離はあの日を境に縮まっている、と。あの日、ぼくがハイリの盾となった日から全てが変わった。とても良い方向へと。希望の灯る日々をやっとにいさまと過ごせることへの安堵。  ぼくを忘れていなかった、というハイリの言葉に救われたのは、初めて会った雪の日よりも嬉しい出来事だった。  そうして、驚くべきことにハイリは突如ぼくのシャツの襟を引き寄せると耳たぶに唇が触れるくらいの距離で、静かに囁いたのだ。 「父上が今のお前を見たら、スウェロニア家の駄犬と呼ばれかねない」  その言葉には一種の含み笑いが滲んでいるのを、ぼくははっきりと認識できた。突然訪れた近距離に驚く暇もなく、ハイリは瞬時にぼくの身体から離れた。  それに寂しさを感じてしまうのは、まだ兄離れができてないぼくの未熟さだと思った。耳打ちされた側の耳たぶを上からそっと押す。  ──ここに今、にいさまの唇が……。  そう思ったらなんだか急に恥じらいを覚えてしまう。ぼく、汗くさくなかったかな?  ピシャランテ騎士団寮は男の巣だから、汗の匂いには慣れていくものだけど、レフさんやハイリからは男の汗くささを感じたことはない。むしろ、香水をまとっているかのように甘くて芳醇な匂いすらするのだ。同室者のウルクなんてすっごく男くさいのに。

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