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第95話 ハイリの夜這い

 その晩、ぼくは与えられた一室のベッドに横になり毛布を深く被っていた。外の空気は涼しく、毛布だけでは少し肌寒いくらいだ。寝衣は薄くてこの寒さでは心もとない。  こんなとき、ゾフがいたらなあ。  スウェロニア家のお屋敷で水難救助犬として飼われていたもふもふな大型犬。すばしこくて、毎回捕まえるのに一苦労していた。  ゾフと一緒にお屋敷のお庭を散歩したり、かけっこしたり。元気にしてるかな? ぼくがいなくてももう平気? そうだよね。ゾフは賢くてやさしいわんこだからきっと大丈夫。  うとうとし始めた頃、扉がギイと小さな音を立てて開くのを聞いて身を竦めた。心臓が嫌なくらいばくばくと高鳴る。  誰だろう? 寝ぼけて部屋を間違えてしまったのかな?  ぼくはとりあえず、そのまま頭に毛布を被ったまま待機することにした。なのに、部屋に入ってきた人は容赦なくぼくの毛布を剥ぎ取る。ひゅうっと冷たい空気にあてられた肌に鳥肌が立つ。  そこには切なげな表情を浮かべるハイリがいた。ベッドに腰掛けると無言でぼくの顔を見つめ、よしよしと大きくて無骨な手で頬を撫でられた。  どうしちゃったんだろう? 「にいさま?」  ハイリと2人きりのときは、つい「にいさま」と呼んでしまう癖がある。皆の前では極力「ハイリ」と呼んだほうがいいのかな? これから鍛錬する中でも互いの名前は呼び合うだろうし。  ぼくはさっそくそれをハイリに聞いてみようとした。だけど、ハイリはゆっくりぼくに覆い被さるとそのまま毛布を持ち上げてぼくにかけてくれた。 「この部屋は冷えるな。寒くないか?」 「あ、の……少し寒いです。こんなとき、ゾフがいたらなあと思っていたところです」 「ゾフか。懐かしいな」 「きっと立派な水難救助犬になっているはずです」 「そうだな」  っていうか、ハイリが覆い被さってくるから身動きが取れない。けど、あったかい。ハイリの体温ってこんなに高いんだ。寝衣は薄手だから、互いの体温が重なって溶けてしまうみたいで。触れたところが硬いのは、ハイリの鍛えられた身体が目の前にあるから。上腕二頭筋も胸板も硬くてしっかりしてる。  ぼくも少しは鍛えて身体が大きくなったと喜んでたのに、これじゃあまだまだだ。 「オズ。さっきの話の続きをしておきたかった」 「さっきの話?」 「ああ。俺とシス王子の関係性だ。お前に聞いてもらいたい」 「わかりました」  先程までの眠気はどこへやら。ぼくはハイリとシス王子の関係性に興味津々だった。2人はどんな関係性なのかこの1日ずっと気になって仕方なかったのだ。 「シス王子とは、幼少期から面識がある。スウェロニア家が代々王家直属の近衛兵団であるのは知っているな?」 「はい。現当主のウィル様が近衛兵団の騎士団長ですよね」  ハイリと似て強く逞しいウィル様。どこか遠く、雲の上の存在だと思っていた。さっき、頭を撫でられるまでは。あんなにやさしい人だったんだとその時初めて知ったのが恥ずかしいくらいだった。ウィル様はぼくの見えないところで色々な支援をしてくれていたらしい。  ハイリの話によると、あの日雪の降る炭鉱の街からぼくを連れ帰りスウェロニア家の使用人として雇うのを許可してくれたのはウィル様だったのだという。  ぼくのお気に入りの場所。スウェロニア家の図書館にたくさんの本を寄贈してくれたのもウィル様だったらしい。まだ文字書きが得意でないぼくのために、子供向けの本を買い与えてくれていたのだと。その話を聞いて感激して目頭が熱くなった。  見ていてくれたんだ。遠くから、ずっと。ぼくのこと。  それからハイリはシス王子との出逢いについて語り始めた。 「シス王子とは幼馴染とでも言えばいいか……。とにかくあんな性格だ。自由気ままな生き方をしている。仮にも王族ゆえこちらは畏まって命令を聞かなくてはならない。だが本音では、20歳といえどもお子ちゃまだ。精神的に幼い。そしてそれは、シス王子だけの責任ではない。あの人は、ズニ国王から溺愛され育った。シス王子のお母様、つまり王妃は王子が産まれてすぐに流行病で亡くなった。10年以上待ち望んで産まれてきたのがシス王子だ。もう子供は諦めるしかないと思っていた矢先の出来事だと聞いている」  シス王子の生い立ちにはどこか寂しげな空気があった。 「やっと授かった一人っ子の王子だ。周囲も甘やかしすぎた。シス王子の言うことは全て聞いた。それが良くなかったのだろう。兄弟もいないまますくすく育ち、暴君のように振る舞う。流石に普段温和なズニ国王も手を焼いていてな。俺が弟役として選ばれ王宮に何度か足を運び兄弟ごっこをしていた」 「にいさまがシス王子の弟役?」  くすりと忍び笑いを洩らしたぼくの顎をハイリはこちょこちょと遊んでくる。身を捩らせると、逃げ腰を掴まれて毛布の中に沈められた。  あったかい。ここは唯一安心できる場所。 「最初は戸惑うシス王子だったが、俺も王族の手前他の者と同じように躊躇いがあった。タメ口で話せと命令されて、渋々そうしたがやはり心のどこかで罪悪感があった。以降、俺は王子の命令だとしてもタメ口にはしていない。境界線を引いている。シス王子が人を疑うようになったのには理由がある」 「それはどんな?」 「シス王子が10歳の誕生日を迎えた時に、誘拐されかけたことがある。近衛兵が気づきすぐに救出したため未遂に終わったが、その暗殺者はシス王子を赤子の頃から世話してきた若い男だった。驚いただろう。年の離れた信頼できる大人はその男しかいないと、シス王子は常々俺に洩らしていた。信じた者に裏切られ、拉致されそうになる。その恐怖を10歳の子どもが感じたんだ。言葉にしなくても、悲惨な結末なのはわかるだろう」 「そんな……辛い過去があったんですね。だからあのように人を疑うことが基本軸になっている……」 「だから許してやってくれ、と言うつもりはないが今日のバナナの1件は俺は許し難い」  ハイリがやけに真剣な顔つきで言うものだから、ぼくはくすくす笑ってしまった。翡翠色の瞳が深い情を投げかけているのが伝わってきたから。 「ぼくは大丈夫です。あんなのへっちゃらです。バナナに罪はありません」 「……オズ」  ハイリを少し目を見開いてから、そっと瞼を閉じた。口端が上がっている。ぼくの答えに満足した様子だ。  不意に、ぎゅっと腰を引き寄せられ抱きしめられた。ぼくの小さな身体はハイリの胸の中にすっぽりとおさまる。 「お前、あの時シス王子に口周りのバナナを舐められていただろう」 「はい……」 「許せない」 「……んと?」  ぼくの背中にまわされる腕に力が入りさらにハイリと密着してしまう。  ハイリの身体熱くなってる。怒ってるのかな?  でも、あったかい湯たんぽみたいで気持ちいい。 「眠いのか」 「……はい、にいさまの身体あったかいから」 「……そうか」  それきりハイリは黙ってしまった。ぼくはうとうとしながら、安心する匂いに包まれて眠りにつく。  金木犀の匂いみたい。ずっとくんくんしたくなる。甘い匂い。  2人だけの内緒の時間。  いつまでも続けばいいのに。  ぼくの願いがハイリに届くといいな。 「にいさま……すきです。だいすきです」  ぼくの寝言、変なこと言ってないかな?  むにゃむにゃしながら、もう目が開けられないくらい眠くてそのまま意識を手放してしまった。  毛布に包まれたぬくいゆりかごに揺られるようにして。

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