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「有馬様、ご帰朝おめでとうございます。異国の空気はいかがでございました?」 「あの小さかった坊やが、ご立派になられて………引く手あまたでしょう。そろそろお身のまわりも落ち着けては?」   「これからが勝負どころでしょうな。有馬伯のご子息となれば、政界からの目も…………ところで、うちの文子も、ようやく年頃になりまして――」    僕は、辟易としていた。    帰朝から一週間。シャンデリアが燦然と輝き、ワルツの調べがゆったりと空気を撫でる。華やかに開かれた帰朝祝賀会は、夜のはじまりと共に熱を帯びていた。  わざとらしい挨拶に、仄めかすような縁談の申し出。同じような会話の繰り返しに疲れ切り、絹の蝶ネクタイで喉が締め付けられるようであった。思わず首元に手を当て、小さくため息をつく。と、その時。   「壮史」   聞き慣れた父の声が背後から届いた。    振り返ると、父のそばに一人の男が立っていた。銀縁の眼鏡をかけ、涼しげな目をしたその男が、軽く頭を下げる。 「西園寺だ。外務次官。かつて私の友人でな」 父の言葉にうなずきながら、僕はその傍らに立つ女性を見た。  椿――西園寺家の一人娘。社交界においてひときわ名の知れた令嬢である。  真紅の帯を締めた華やかな振袖。女学校式に緩く巻かれた髪をリボンで束ね、西洋を意識した流行りの香水が香る。  一歩下がって、物静かに笑うその顔は確かに整っていた。けれど僕の心は、不思議なほど、波立たなかった。 「このたびはご帰朝、まことにおめでとうございます。有馬伯、お変わりなく――」  父たちが旧交を温める横で、僕の目は自然と会場の片隅へ滑っていく。   廊下の向こう、控えの間の食器を運ぶひとりの影。黒い袴、伸びた背筋。蝶のように人波を縫って働く、書生の咲だった。  爪の先まで神経が通ったような立ち居振る舞い。些か緊張している様子だが、無駄のない所作に、僕の目が吸い寄せられていた。  咲が振り返ることはない。けれど、その背中には、凛とした気品が滲んでいた。  ……誰よりも整っている。  思って、すぐにその思考を振り払う。  香水の甘さよりも、彼の、涼し気で清潔な気配が心地良い――それはきっと、祝賀会の熱気にあてられたせいだろう。 「椿は、洋の文化にも関心があるようで。ピアノにも少し心得がありましてな。貴方様とお話が合えばと思いまして」  椿の父はそう言って微笑む。  父もまた、穏やかに頷く。    僕はそれを、社交界の影と感じながら、グラスを口元に運んだ。舌を転がるワインの苦味と居心地の悪さに眉を潜める。無理もない、帰朝したばかりで疲れが出たのだろう。    そっと瞳を閉じると、一週間前、咲と再会した瞬間が思い出される。それは、以来ずっと僕に纏わりつき、幾度となく瞼に浮かんでは消えていった、桐の花の姿であった。    

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