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一週間前、横浜港。  朝霞のなか、長い船旅を終えて、僕は二年ぶりに日本の土を踏んだ。  迎えの馬車に揺られながら窓の外を眺めていると、潮の匂いは次第に薄れ、代わりに懐かしい木の香りが鼻をくすぐった。  ハイド・パークやケンジントン・ガーデンズ……ロンドンでも四季折々の彩りに癒されたが、それとはまた趣の異なる、懐かしい、澄み切った母国の香りだ。  今か今かと開花の時を待ちわびている桜の蕾に、ああ帰国したのだと実感する。  父は、母は、変わりないだろうか。  そして、咲――  あれから、背丈はどれほど伸びたのだろうか。  七年前のことを、覚えているだろうか。  大切な花瓶を落とした僕を……憎んでいるだろうか。  やがて、木立の奥に、なじみの洋館が輪郭を現した。  淡いベージュの石造りの外壁に、縦長の窓が規則正しく並び、欄間には繊細な彫刻が施されている。屋根の上には尖塔がそびえ、重厚なひさしが玄関ポーチを包み込むように張り出していた。  英国で数多の壮麗な建築を目にしてきたが、それでも有馬邸は変わらぬ威厳を湛えてそこに在った。  門を抜けると、見知った顔――家令の石垣が僕を迎えてくれた。 「お帰りなさいませ」 その懐かしい声に、帰国してはじめて肩の力が抜けた気がした。  挨拶を交わし、大理石敷きの床を確かめるように一歩ずつ踏みしめる。高い天井とシャンデリアが静けさを抱え込むように広がる玄関ホール。その奥、吹き抜けの柱のもとに、咲が立っていた――  黒無地の羽織に、深い灰の袴。  右手を静かに胸元に添え、丁寧に一礼する所作には、古風な趣と、凛とした気品が漂っていた。  柱の間から射し込む陽光が、彼の肩と、すらりと伸びた白い首筋に落ちている。黒い髪は丁寧に整えられ、髪筋が艶を帯びて滑らかに流れていた。 「おかえりなさいませ、壮史さま」  まだ少年らしさの残る声。けれど声音は落ち着いていて、妙に大人びて聞こえた。  返す言葉を探しながらホールの一歩内へと足を踏み入れると、彼は顔を上げ、澄んだ瞳が真っ直ぐに僕を見据える。ふと風が吹き込み、彼の羽織の袖口を撫でた。静謐な美しさが僕を支配した。  咲は、咲いていた。  あの遠い日の小さな桐の蕾は、艶やかに、美しく、開花したのだ。  有馬家の名に恥じぬよう、勉学も、社交も、留学も、全てを完璧にこなしてきた僕の人生で、七年前、たった一度の恥を僕に刻み込んだ、咲。  穢れを知らない、聡明な瞳に見透かされるような焦燥。本能で、どう足掻こうと彼の前には敵わないと悟った。  当時、九つも歳下の幼い彼よりも、自身がずっと小さく愚かに感じられた屈辱と、眼前の彼の開花した姿。相反する感情が渾然となって僕の胸を掻き乱した。  春の光が彼の柔らかな輪郭を淡く縁取る。  疲れている、僕は、疲れているんだ。  そう自分自身に言い聞かせ、ただ、見つめることしか出来なかった。 ――――――――――― 「では、壮史君――また後日」  名前を呼ばれてはっと現実に引き戻される。  目の前には、銀縁眼鏡の西園寺さんと、笑みを含んだ口元でじっと僕を見つめる椿さんがいた。  ――この縁談も、きっと、成立することはないだろう。  僕はそう思いながら、「ええ」と穏やかに微笑んだ。

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