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六
咲の部屋を窺うのは、これで幾度目であったろうか。
いや、正確には、窺うふりをして、その扉の前に佇むだけだった。「咲の翻訳の勉強になる」と無理やり理由をつくり、英国で購入した洋書をわざとらしく手にした僕は、二階の東廊下を歩いていた。
書生部屋は、旧主寝室のあたりを改装した一角にある。陽当たりのよい南窓に面し、花壇を見下ろす静かな一室だ。家族の私室とは遠く離れているが、それがかえって僕を安心させた。
咲の部屋の前まで来ると、そこに人気はなく、鍵もかかっていない様子だった。逡巡していると、廊下を掃除していた女中が顔を上げ、「咲さんは、いま市橋さんとお庭でお掃除を」と一言。奥の部屋へと去っていった。
……今なら、誰にも気付かれずに入れる。
そう思ってしまった自分を叱る間も惜しむように、僕はそっと扉を開けた。
咲の気配が残る、清潔な空間。
深呼吸をすると、僕の身体中がすべて咲で満たされるようだった。
机の上には、硯と筆と、西洋製の万年筆とが揃えて置かれている。木製の本棚には分厚い辞典と、読み込みすぎて背の割れた和綴じの書籍。
そして――窓辺には、螺鈿の花瓶。
七年前、僕が落として壊した、桐の花瓶。
咲が幼い指でなぞっていたあの割れ目には、いまでは美しく金継ぎが施されており、それは桐の花の誇りを失うことなく、なおも悠然とそこに輝いていた。
その姿に、胸の奥から渦巻くような感情が湧き上がるのを感じた。
僕は知っている。
【Für S. Kamikura, à l'amitié éternelle】
永遠の友情を込めて――神蔵Sへ
この花瓶の底に刻まれた、愛を。
一体、どこの誰が咲に桐の花を重ね、その想いを刻み込み、花瓶を贈ったのか。
そして、咲はなぜ修理をしてまで後生大事にしているのか。そこまで……特別な人なのか。
見えない誰かと咲に、例えようのない怒りの気持ちが込み上げ、僕は口を押さえた。
そして僕は、机上の帳面に目を留めた。革表紙のそれには、一頁一頁に、日付と、整った筆致の文字。細やかに記された勉学の記録。
その字は、あまりにも端正で、美しく、まるで薄墨で描かれた花のように品があった。
僕は、思わず指先で筆の跡をなぞっていた。
咲の指が触れていたこの紙面に、僕の指が重なる。後ろめたさを覚えながらも、離れがたかった。
やがて足音が聞こえ、僕は慌てて部屋を辞した。
階段を降り切ると、応接室の窓越しに庭の景色が目に入る。春の光の中、箒を手にした咲と、市橋が笑い合っていた。
咲。
――君は、そんなふうに笑うのか。
僕は、咲の笑顔を知らなかった。
有馬家長男として、彼の礼儀として磨かれた笑顔は見たことがあるが、心のうちからふと漏れるような、あの花のような笑顔を、僕は知らなかった。
――何を、そんなに、楽しげに。
僕は、胸の奥が掴まれるような痛みを覚えた。
夕刻、咲が僕のもとへ現れた。「少し、外出して参ります」と丁寧に頭を下げる。
いつもなら行き先を告げるはずなのに、この日、咲はそれを言わなかった。
僕は、喉まで言葉を押し上げておきながら、結局、なにも聞けなかった。
咲の背が玄関へと消えたあと、僕は重たく沈んだ応接室に、ひとり残された。
思い出すのは、彼の花のような笑顔。
そして、気付いてしまった。
咲のいないこの屋敷が、どれほど、空虚かということに。
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