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七 花散らす静かな声
「咲ちゃーん!おーい、起きとるかー?」
机に向かい、辞書を繰る手を止めたのは、階下から聞こえてきた大きな声だった。
市橋さんの声。どこか軽やかで、いつもこの声を聞くとほっとする。窓を開けて返事をすると、彼は手をひらひら振った。
「ちょっと町まで買い出しに行くんやけど、付き合わへん?」
市橋さんはあっけらかんとしているようで、その実いろいろなことに気が付く人だ。どうやら、僕の慣れない東京暮らしを案じての誘いらしい。断る理由もなく、僕はすぐに返事をした。
サンルームで新聞を広げていた稔さまに挨拶をして、羽織をはおって庭に出る。
笑顔で手を振る市橋さんの方へ目を向けると、桜が今まさに盛りと咲き誇っていた。風に乗って、ひらひらと花びらが舞い落ちる。
「咲ちゃんのおかん、調子悪いんやろ?身体にええもん買うて送ったら、元気出ると思うで」
こうして、さりげなく話したことを覚えていてくれる。市橋さんの気さくな優しさに、僕の気持ちはまた温かくなった。
「って……あ、咲ちゃん。俺、なんかついてへん?」
市橋さんが鼻を指差し、ぎこちなく目をしばたいた。見ると、桜の花びらが一枚、ぴたりと鼻の頭に貼りついていた。
「動かないで」
僕はそっと指先でそれを摘み取った。彼の目が、小動物みたいにまんまるになる。
「……くすっ」
声にならない笑みが漏れると、市橋さんは一瞬真顔になった後、耳までみるみる赤く染まった。
「え、笑った?なあ今、笑ったやろ?いや、それより――」
口ごもる彼を見て、少し悪戯心が湧いた。
「頭にも、ひとひら」
そう言って指差すと、彼は慌てて髪を撫で回した。どうやら冗談が通じなかったらしい。
「な、なにそれ、ずる……っ。あ!今度は咲ちゃんの髪んとこにも、ついてるやん!」
そう言われて、僕は目を伏せて髪をかきあげる。すると、風に流された花びらがふわりと宙を舞った。
「おま……人形みたいな顔して、そんな仕草するんやな。調子狂うわ、ほんま……」
「おかしな、誠さん」
「おま、年上からかったらアカンで!」
ますます赤くなり、慌てる彼の様子が可笑しくて、僕は笑いながら歩き出した。
「ほな、行こか」
市橋さんも気を取り直して前を向き――そのときだった。
「――咲君」
静かな声に、僕らは振り返る。
2階のベランダから、壮史さまが頬杖をついてこちらを見下ろしていた。白いシャツの襟が、柔らかな風に靡いている。
「君は……書斎の整理をお願いできるかな」
その穏やかな声と笑顔の奥に、触れられない何かがあった。
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