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八
この広い館で、今日も無意識に君を探し、彷徨っている。
ふと聞こえた楽しげな声に胸がざわつき、ベランダから庭を覗く。桜がゆるやかに舞う中、君が市橋と語らい、彼の顔にふれるのを見た。
そして、笑みを浮かべながら、艶やかに髪をかき上げる。その仕草に、羽織の裾が揺れ、白磁のような君の腕がのぞく。
――それは、残酷なほどに眩しく、美しかった。
咄嗟に、声がこぼれた。
「咲君」
君のその瞳が、ようやく僕を映す。
「君は……書斎の整理をお願いできるかな」
とってつけた口実だった。だが、あの美しい姿を、これ以上市橋の目に触れさせたくなかった。視線一つさえ、嫉妬に変わる。僕は君を、隠してしまいたかった。
やがて、咲が廊下の向こうに姿を現す。
「ごめんね。急ぎなんだ」
「いいえ。勉強になりますし、お役に立てれば嬉しいです」
その声が、春の陽に溶けるように柔らかくて、胸が軋んだ。
「ロンドンで仕入れた本や新聞で、書斎が少々散らかっていてね。
これを機に、書棚の本を全て分類ごとに並び変えたくて。地質、植物、哲学、美術――帰国してから、ひとつでも混ざるとなんだか眠れなくなるんだ」
僕は役者にでもなれるのではないかと思うほど、たった今思いついた台詞を流暢に話しながら、自室の扉を開けた。
奥には深い藍色のカバーがかけられたベッドがひとつ。枕元には小さなランプと、その脇には、革張りの椅子がある。窓には重厚なカーテンがかかり、部屋全体が落ち着いた空気を帯びていた。
書斎はこの私室の奥に隣接しており、そこへ入るには必然的にこの部屋を通り抜ける必要がある。使用人も近づかない、完全に僕の私的な空間だった。
「分かりました」
咲は軽く頷き、足を踏み入れる。
奥の書斎の扉に手をかけた時、一瞬だけ、彼の視線がベッドに向いた気がした。見間違いかもしれない。けれど、それが妙に嬉しかった。
書斎の扉を開けると、革とインクの匂いが鼻をかすめる。
壁三面すべてが本で覆われ、古書や洋書、図鑑の数々が天井近くまでぎっしりと並んでいた。
「……すごい。本が、こんなに」
咲はため息のように言う。その声があまりにも素直で、僕は思わず頬を緩めた。
「興味のあるものがあったら、貸し出すよ。――じゃあ、僕はこの机で仕事をしているから。分からないことがあったら、いつでも声をかけて」
時計の秒針がカチカチと時を刻む音と、ページをめくるかすかな音だけが、部屋の中で静かに響く。
僕は書き物をするふりをしながら咲を見つめた。
本のページを追う白魚のような指、考え込むときにその指をぽんと柔らかそうな紅い唇に触れる癖。繊細なまつ毛の影、耳のきわにある小さなほくろ――
僕はそのすべてを記憶するように目を細め、視線をそらすことなく、静けさの中でただ彼を見ていた。
「ごめんね。急ぎじゃないから、ゆっくりで大丈夫」
囁くような声が部屋に溶ける。つい先程「急ぎだ」と言った言葉との矛盾が、密やかな意味を持っていた。
書斎は僕の個人的な聖域だった。僕は、咲が初めて僕の“テリトリー”に足を踏み入れたことに、胸の奥で言いようのない昂ぶりを覚えていた。
「ゆっくりでいい」と繰り返した声の奥に潜ませた、静かな命令。
――君は今、僕の世界に包まれている。
*
週に二度か三度、咲が書斎の整理に訪れることとなり、陽が傾く頃に彼は静かに部屋を辞した。
僕はひとり残された静寂の中で、棚の奥に隠すように仕舞い込んでいたビスクドールを取り出す。
白い肌に、紅の唇……咲は、どこか異国的な色を持っていた。彼の面影を宿すその磁器の人形に、まるで生きているかのように愛おしさが溢れ出す。
ベッドの縁に腰を下ろすと、僕はその人形の耳のきわ――咲のほくろと同じ場所に、細いペンで黒い印を描き足した。
それから、その硬く冷たい唇をそっとなぞる。あの柔らかそうな唇を、何度も思い返しながら。
「咲――君は、どんな体温を持っているの?」
問いかけに、返る声はない。
咲が一度視線を落としただけのこのベッドで、僕はその眼差しを幾度も思い返し、その幻影に身を委ねては、己の熱にひたすらに溺れた。
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