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九
満開だった桜も、あっという間に風に攫われ、今は薄桃の花びらが静かに庭を舞っている。
桜が終われば、じきに桐の花が咲く頃だ。
昔、この庭にも一本、桐の木があったのだと石垣が言っていた。僕はその姿を見た記憶がない。
ただ、季節が移ろうたびに、庭のどこかにぽっかりと空いた場所があるような気がしていた。
僕は庭を眺めながら、一冊の植物図鑑を抱えてゆっくりと歩いていた。こないだ書斎で咲が興味深げに頁を繰っていたものだ。
『英国温帯植物誌』。濃紺の布張りの表紙には、色褪せた金箔で妖艶な花が静かに描かれている。
これを贈ったら、咲はどんな顔をするだろうか――
ふと緩んだ口元を隠す間もなく、ふいに僕を呼び止める声が背後からかかった。
「壮史様、旦那様がお呼びです」
振り返ると、石垣が背筋を伸ばして立っていた。
「……父上が?」
呼ばれたのは、洋館の一角にある、硝子張りのサンルームだった。鋳鉄の枠に支えられた窓がずらりと並び、外の庭がまるで壁画のように広がって見える。
そこは父の私的な空間で、このように改まって呼び出されるのは初めての場所だった。嫌な予感に、胸が騒ぐ。
僕が到着すると、父は籐編みの白い肘掛け椅子に静かに腰を下ろし、硝子の向こうの桜を眺めていた。儚げに散っている桜の影が、床に落ちている。
「……お入り」
その声には、いつになく重みがあった。僕が椅子に腰を下ろすと、父は灰皿に煙草を押しつけ、振り返った。
「壮史。……お前も、もういい歳だ。そろそろ家のことを真剣に考えてくれねばならん」
僕は黙って耳を傾ける。父の言葉は続いた。
「来月、西園寺家のお嬢さんがこの屋敷に来られる。結婚の打診だ。……考えておけ」
西園寺椿――僕は、帰朝祝賀会での、彼女の濃い香水の香りを思い出した。
「……椿さんと、結婚をしろというのですね」
「――そろそろ後継ぎのことも考えねばなるまい。伯爵家の名を継ぐ者として、お前には相応の務めがある」
しばしの沈黙の後、父がふいに声の調子を変えた。
「それと……咲くんのことだがね」
僕の胸が、ひとつ高く鼓動した。
「あの子には、もう話してある。彼を、帝都学術院に入れることにした。有馬の名で、私から正式に推薦状を出してな。……咲くんは優秀だ。だから、もっと広い場所で、知識と技術を磨いてほしい」
「……父上が、推薦を?」
「そうだ。試験に合格すれば、夏には彼はこの家から旅立つことになるだろう」
言葉のすべてが、冷えた空気のように僕の内に流れ込んだ。
咲が、いなくなる。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていくのを感じながら、それをどう表せばいいのか、僕にはわからなかった。
「……そうですか」
そう答えるのがやっとだった。
ふと父は懐中時計を開き、ひとつ頷いて立ち上がった。
「さて……この後旧友たちと約束があってな。石垣、留守を頼む」
入り口に控えていた石垣に声を掛け、外套を羽織ると、父は何事もなかったかのようにサンルームを後にした。
僕はただその場に取り残され、さっきまで輝いて見えたはずの植物図鑑の表紙を、ただぼんやりと見つめていた。
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