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十一 やさしい手
「格物致知、誠意正心、修身斉家――」
小声で素読の節を読みながら、僕はそっと石畳を辿った。
昨日の雨が嘘のように青空が広がっている。桜の花びらはすっかり散り、青々とした若葉が風に揺れていた。
僕は素読を続けながら、春の風に髪をすくわれるままに庭の奥へと向かう。
裏手の物干し場の脇、古い荷車の影に腰を下ろし、僕はそっと喉を押さえた。細い咳が、何度も喉を擦り抜けてゆく。
ふと、足音が駆け寄ってくる。
「咲ちゃん!最近ちーっとも見かけへんかったさかい、心配してたんやで」
裏手から声が跳ねて、僕は顔を上げた。
作業着姿の誠さんが、肩に縄をかけて、荷を積んだ台車を押しながら歩いてくる。
たぶん、物置小屋の整理か何かの手伝いを任されていたんだろう。
「誠さん」
口にした自分の声が、かすれていた。喉の奥が熱い。
「部屋に籠もって勉強していたら、頭が重くて……気分転換に歩きながら素読してました」
誠さんはじっと僕の顔を見て、眉をひそめた。
「なんや、顔赤いで。まさか風邪ちゃうやろな?」
誠さんの手が僕の額に触れる。
冷たい。少しだけ、気持ちがいい。
僕は思わず目を細めた。
「昨日、ちょっと雨に降られてしまって」
僕は答えながら、視線を落とす。
脳裏に浮かぶのは、桜の下で、傘も差さずに佇んでいた壮史さまの姿。
誠さんはあの人を「完璧にかっこええ」と言うけれど、僕には、いつもどこか寂しげに見える気がした。
「あかんな、そんな顔して勉強してても頭入らへんやろ。ほな、台所の菊さんに言うとくわ。薬の一つも持って行ってもらわなな……と、その前に。ちょい待っててな」
そう言って一度引っ込んだ誠さんが、風呂敷を手に戻ってきた。
「ほら、咲ちゃん。これ、ずっと渡したかってん」
誠さんが風呂敷をほどくと、丁寧に包まれた紙袋が現れる。懐かしい香りのする薬草の束が、そっと顔を覗かせていた。
「このあいだの町のお使いや。咲ちゃん、壮史さまに呼ばれて一緒に行けへんかったやろ?
これはな……咲ちゃんのおかんに。干した甘草やて。おかん、調子が悪い言うてたやろ。煎じて飲んだら、ちょっとは楽になるかもしれへん」
「誠さん……」
「うちはな、代々みんな身体だけが取り柄でな。ばあちゃんもじいちゃんも、ピンピンしてる。せやけど……咲はなんや、こう……触れたら消えてまいそうで。……いろいろと、心配やねん」
その言葉に、僕は息を詰めた。
誰にも言われたことのない想いが、胸にやわらかく触れる。
「……実は、来月、学術院の試験を受けさせてもらえることになりました」
静かに告げると、誠は目をまるくした。
「——あの学術院に!?すごいやん咲ちゃん!あそこ受けるなんて、ほんまにすごいことやで!」
喜びが一瞬弾けて、そのあと、少しだけ影が落ちる。
「……でも、急やなぁ。まだ、有馬家に来て、そんなに経ってへんやん。そないに、早う……」
ぽつりと落とした声に、僕は小さくうなずいた。
自分でも、まだ実感が追いついていない。
「けど、咲ちゃん優秀やし、当然や。……なんや、弟みたいやと思てたからさ。咲ちゃん来てから、毎日おもろうて……もっと一緒におれるんかと思てたんやけどなぁ……」
寂しさを悟られまいと、誠はわざと明るく笑ってみせる。
「ほな、これは試験、頑張れってことでな!」
そう言って渡されたもう一つの包み。
「こっちは、咲ちゃんに。……照れくさいから、部屋で開けてや」
「……ありがとう、誠さん」
そのとき、不意に視界が揺れた。
熱が押し寄せ、額から汗がにじむ。
咳き込んで、肩が揺れた瞬間——
「咲ちゃん!?おい、大丈夫か!?顔、真っ赤やで……!」
遠くなる意識の中で、誠さんの声が響く。
優しくて、あたたかくて、どこか泣きそうな声。
僕の身体は、そっと崩れるように彼の胸へと倒れ込んだ。
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