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十二 唇
闇、闇、闇。
辺り一面、暗闇に覆われていた。
僕はその孤独の中で、ただひとりぽつりと立っていた。
伸ばした手が、虚空をかく。ここが暑いのか寒いのかさえも分からなかった。
「咲……お父さまにお別れを」
ふいに懐かしい声が響く。振り向くと、そこに母がいた。肩を震わせ、顔を覆って泣いている。
「……おとうさま」
その細く小さな声にはっとして振り返ると、今度は幼い僕が立っていた。まだ三つか、四つか。
「尋、尋………お願いだ。まだ……連れて行かないでくれ」
今度は斜めから声が聞こえる。
嗚咽混じりの声で縋っていた。
そして次の瞬間――僕は息を呑んだ。……壮史さま?
いや、違う。あれは――
突如風が吹き抜け、満開の桐の花が視界を覆う。
ひらひらと降りしきる薄紫が、誰の姿もかき消して、やがて全てを暗闇の渦へと引きずり込んだ。
お父さま……待って、行かないで。
走っても、叫んでも、届かない。
胸が締め付けられ、息が詰まりそうになった。
そのとき――
ふいに、誰かの指先が僕の唇に触れた。
下唇を、まるで何かを伝えるように、ゆっくりと丁寧になぞっていく。
ふくらみを一度も逃さず、記憶に刻むかのように。
「っ…………!」
息を呑み目を覚ますと、そこは見慣れた書生部屋だった。机の上の帳面が、風にあおられてぱらぱらと音を立てている。
「夢……」
心臓が、まだ強く鼓動を打っている。枕元には氷水と、絞った手拭い。浴衣が汗で濡れていた。
僕は働きの鈍い頭をもどかしく思いながら、記憶の端を手繰る。
――そうだ。あの日、熱に浮かされて、誠さんの胸に倒れこんだのだ。
試験を控えて少し無理を重ねたところに、あの雨で冷えたのだろう。
桜の下で、じっと雨に打たれていた壮史さまの背を、ふと思い出す。
……壮史さまは、お風邪など召されていなければ良いのだけれど。
ひとつ呼吸を整え瞼を閉じる。すると、先程の暗闇が浮かんできた。
あれは、遠い日――父が亡くなった時の、微かな残像だった。
父は、僕の記憶がまだ朧気な頃に事故で亡くなった。それでも、父の、優しくてあたたかな手はよく覚えている。
そう……あの頃から、母は床につくことが多くなっていった。
そして、寂しげな壮史さまのお背中によく似た、あのお姿はきっと――
ふと吹き込んだ風に誘われ窓辺を見ると、金継ぎを施したあの花瓶に、白い花が挿してあった。
ひとつの茎から、ふたつの可憐な白い花が咲いている。見落としそうなほどに小さく、それでも、寄り添うように揃って花開いていた。
二輪草……この屋敷の裏手にも春には咲くのだと、有馬家に来たばかりの頃、案内の方が話していた。
しかし、一体誰が?
疑問に思ったその時、扉がそっと開いて、菊さんが顔をのぞかせた。
「良かった、目が覚めましたか。少しは楽になりました?」
僕はまだぼんやりと霞んだ頭で声を返す。
「……あの、今日って……何日でしょう」
「十八日です。丸二日、熱にうなされておいででしたよ」
十八日――
「菊さん、この花……」
「あら。少し前に来た時は、お花ありませんでしたけどねぇ」
そう言って菊さんは薬湯の茶碗を差し出した。
「どなたかが、お見舞いにいらしたんでしょうね。咲坊、ほら、可愛らしいから……みなさん心配していましたよ」
そう言うと、菊さんは何かを思い出したようにふふ、と笑った。
自分の頬が少し染まるのを感じる。
「――おかげさまで大分楽になりました。ありがとうございます、菊さん」
ご無理もほどほどに、と笑うと、菊さんは扉の向こうへと消えていった。
……十八日。
誰にも言っていないはずの、僕の、生まれた日。
ふと、唇をなぞった指の感触を思い出し、手でそっと触れる。
窓辺に寄り添うふたつの花は、何も語らず、ただ静かに咲いていた。
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