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十四 重なる手
静かな廊下を進み、床の間脇の襖の前で一度、足を止めた。
十時を告げる鐘の音が、母屋の柱時計から低く響いてくる。
僕は胸元の合わせを整え、ひとつ息を吐く。
稔さまに言いつけられていた通り、客間に顔を出す時刻だ。中からは、談笑の気配。
襖の脇には、家令の石垣さまが控えている。彼は軽く会釈し、静かに声をかけた。
「神蔵さま、お通しします」
石垣さまの手によって音もなく襖が引かれると、ふわりと沈香の香が流れ出した。
その気配とともに、凛とした張り詰めた空気が、まるで水面の波紋のように廊下へと広がっていく。
客間には、西園寺椿さまとその御父君。黒漆の座卓を挟み、対座するのは壮史さまと稔さまだ。
卓の上には、青白磁の器に盛られた季節の菓子と、銀瓶で淹れた玉露が静かに並べられている。
日頃は洋装を好まれる壮史様だが、今日は珍しく、鈍色の和装に身を包んでおられた。
渋い鉄紺の羽織に、しっかりと結ばれた角帯。襟元には僅かに銀糸を織り込んだ羽二重の長襦袢が覗き、伝統に則った装いのなかにも、西洋趣味を思わせるきらめきがある。
髪はいつもより丁寧に撫でつけられ、和装に寄せた静かな風格をまとっていた。
そして、変わらぬ、穏やかな笑み。
その視線が、まっすぐ僕に注がれた。
……お元気そうで、よかった。
この一ヶ月、ご多忙であられただろう壮史さまのお姿にほっとする。
そしてこの風雅な和装姿を誠さんが見たら……惚れ惚れするに違いない、と頬が緩んだ。
僕の姿に気づくと、稔様が穏やかに顎を引いてみせる。
「こちらは神蔵咲くん。書生として、うちで学んでおってね。
咲の父・雅聡とは、若い頃の学友でな……少しばかり、懐かしい縁がある。
咲くんは大変優秀で、明日は帝都学術院の試験を控えているんだ」
「ほぉ……学術院とは、あそこは確か中島博士が理事をなさっていたかと。よくぞその道を目指された」
椿さまの父上の低く響く声が、部屋に穏やかな重みをもたらす。
「……神蔵咲と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
僕は深く、丁寧に頭を下げた。
「ご無事でお済ませになりますように」
椿さまの声に、顔を上げる。
その瞬間、僕は呼吸を忘れた。
――どこかで、見たことのあるような顔。
眉の曲線、伏し目の睫毛、柔らかく笑う唇のかたち。そして、まとめた上げ髪から覗くうなじ。
……四月のあの夜が、音もなく頭に蘇る。
瞬間、頬が、じわりと熱を帯びた。
こんなところで思い出すなんて――僕は、愚かだ。
「さて、咲くんは明日の試験に備えねばなりません。長居はさせませんので――」
稔さまがそう切り出したとき、僕はようやく現実に戻された。
「……はい。では、これにて、失礼いたします」
もう一度、丁寧に頭を下げる。
そのときも、壮史さまは変わらぬ笑みをたたえたまま、じっと僕を見つめていた。
*
僕は、逃げるようにしてベランダへ出た。
白い列柱が並ぶ広いベランダは、庭に向かって大きく張り出し、足元には滑らかな石畳が続いている。
繊細な飾りの欄干越しに見下ろせば、桜はすっかり青葉を茂らせ、初夏の陽を反射して静かに揺れていた。
風に当たれば熱も引くと思ったのに、しばらく経った今でも指先までじんじんと火照ったまま、胸の奥は落ち着かない。
欄干に片手をかけ、小さく息を吐く。頬をかすめた風は、静かに季節の変わり目を感じさせた。
「――久しぶりに会ったら、なんだか、いい香りがするんだね」
ふいに耳元へ落ちた声に、肩が跳ねる。
振り向く間もなく、壮史さまの気配を背中に感じた。
欄干に置いた僕の右手に、壮史さまの右手がそっと重ねられる。
そして反対側から回された左手が、静かに欄干を押さえた。まるで優しく、逃げ道を塞ぐように。
触れられた手の甲は二人の体温が混ざり合い、じわりと熱を帯びてくる。
息が詰まり、まるで蛇に睨まれた蛙のように――僕は動けなくなった。
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