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十五 僕をほどく
「っ壮史さま――」
まるで金縛りにあったかのように、僕は後ろを振り返ることが出来なかった。
前を見据えたまま、喉の奥から声を絞り出す。
「西園寺さまとの、ご縁談のお話は……」
「――ああ、西園寺さん。あれからすぐにお帰りになられたよ」
首筋に、壮史さまの温かな吐息。
先程の、沈香の残り香が香る。
「急に椿さんが体調を崩されてね……残念だ」
吐息の気配は、首筋から、今度は耳元に。
まるで、僕の匂いを確かめているかのようだ。
「――あの、壮史さま……」
重ねられた壮史さまの大きな手が、僕の右手を掬い取る。骨ばったその指が、ひどく丁寧に、まるで宝石でも触るように僕の手を撫でた。
「あの雨の日――君のこの手に……桜の花びらが舞い降りたんだ」
その言葉は、まるで夢の続きを語るようだった。
僕の右手はゆっくりと壮史さまの頬へと導かれ、追うように見上げると、彼は愛おしそうに僕の手を感じている。
いつの間に洋装にお召変えになったのか、白いシャツが風に靡いていた。
「ねぇ……この香り、誰にもらったの?」
低く湿った声。指の腹で僕の手のひらを撫でるように確かめたあと、そこにひとつ口づけを落とす。
僕の呼吸が、次第に自分のものではなくなっていった。
「っ、誠さんが、香袋を――」
「――誰?」
声を被せ、今度は大きな手で優しく僕の頬を包み、そのまま壮史様の方へと顔を向けさせた。
「……市橋さんが、街で――」
はっとして苗字で言い直す。
次の瞬間、僕の唇に、壮史さまの唇が重ねられた。
僕は混乱し、目を開いたまま、息もできない。
ただ、心臓だけが煩く跳ねていた。
壮史さまは重ねた唇で僕の唇をゆっくりとなぞり、何度も形を確かめるように啄む。
「口、開けて」
そう言うと、僕の背中に回された右手がするりと降り、腰元を這った。
「……っ」
その瞬間、わずかに解けた唇の隙間に、彼の舌が生き物のように入り込んできた。
ぬるりとした感触が、歯列をこじ開け、舌の裏を、奥の方を、容赦なく探っていく。
頭が真っ白になり、ただただ迫りくる熱でいっぱいになった。
「ふ、っん…………」
自分のものと思えない声が漏れる。
僕は必死に、壮史さまの白いシャツのボタンを握った。
腰を這う指先が帯の結び目のあたりを、ゆっくりと、確かめるようになぞる。
そしてじわじわと、帯の下をくぐるように、手が滑り込んできた。
帯の脇に潜った指が、腰骨に沿って這う。
「……っ、ぅ…………」
同時に奥歯の根元を舌でなぞられ、息が出来ない。
僕は無我夢中で壮史さまの胸を押した。
抵抗も虚しく、壮史さまは指先で僕の脇の帯を少し崩すと、そのまま帯の内側、奥深くにゆっくりと指を差し入れた。
そして――指先に絡め取ったものを、静かに引き抜く。
「……見つけた」
壮史さまの指には、香袋。
帯の内側に入れていた、誠さんからの香袋だった。
「……はっ、……ぁ…」
解放された僕は口で必死に息を吸う。
胸が、苦しい。
「これ、いい香りだけど……咲君には似合わない。僕が、預かるね」
そう言って香袋をしまい込むと、僕の頭を優しく抱え、再び口づけを重ねた。
今度は最初から舌が入り込んで、僕の口腔をくちゅ、くちゅと這う。何が起きているのか分からない。抗うことも出来ないまま、僕は壮史さまの舌をただ受け入れた。
艶めいた水音と零れた吐息が、静かなベランダに響く。
執拗に角度を変えては僕の唾液を啜り、そして壮史さまの熱をたっぷりと口の奥に流し込まれ、混ざり合い――やがて溢れ、唇の端から伝った。
「咲君、飲んで」
「……っ、…………」
「飲みなさい」
命令のようなその低い声に、喉が反射で動いてしまう。
僕は、壮史さまの温度と香りを、喉の奥へと流し込んだ。
「……はっ………、ぅ」
身体の奥が熱い。
壮史さまは僕を支えながら、僕の唇を親指で優しく拭う。そして乱れた髪をやさしく梳き、僕の左耳の輪郭を指先でなぞった。
「……咲君。知ってる?――ここに、小さなほくろがあるんだ」
そして、そのまま耳元でそっと囁く。
「……明日の朝、書斎にきて。整理のつづきをしよう」
言葉の意味が脳に届くまでに、数秒の時がかかった。
「……明日は、試験が――」
そう言いかけたとき、壮史さまはシャツの下からするりと一通の封筒を取り出した。
それは先月、誠さんが買ってくれた薬草とともに、母に宛てて送ったはずの手紙だった。
「っどうして、その手紙を壮史さまが――」
嫌な予感に、手が震える。先程の口づけのせいか、混乱のせいか、呼吸の仕方が分からない。
「ああ……そういえばね」
壮史さまはその封筒に指を添え、目を細めた。
「咲君の御母上のご病気の薬。急に統制下薬品になってしまったみたいだよ」
目の前が真っ暗になる。
「手に入れるには、それなりの名と地位、それから……適切な口利きが必要らしい。おまけに、値もずいぶんと育ったとか」
すう、と心臓に刃が差し込まれるようだった。
「咲君。君が選ぶといい――じゃあ明日。書斎で待ってるよ」
そう言うと、名残惜しそうに指先で僕の頬を撫で、去っていった。
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