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十七

 厳しい父だった。  仕事に明け暮れ、愛された記憶はない。  父は官僚として忠勤を尽くし、その功績によって伯爵の爵位を授けられた。  「将来は父のように」  幼いころから、幾度となくそう教え込まれた。  国家への忠誠、家名への誇り。華族としての矜持。それらを叩き込まれ、僕はただ懸命にそれに応えようとしていた。  けれど――七年前、君に出会った。  君の家には爵位こそなかったが、その所作の端々に宿る気品、澄んだ瞳の奥にひそむ静かな誇りは、まぎれもなく「本物」だった。  千年の歴史を背に持つ公家の血。それは、装いでも功績でも手に入らない、生まれながらにして纏う光だった。  そして花瓶を割ったあの瞬間、僕は知ってしまったのだ。  我が家は、ただ時代の勝ち馬に乗ったにすぎない。塗り固められた虚飾の上に成り立つ、薄い栄光だったと。  これまで積み上げてきた努力が、ひとりの少年によって音もなく崩れ去った。  君を憎めたなら、どれほど楽だったろう。  けれど咲。  君は、なおも僕の心を離してはくれなかった。  どうして、美しく育ったんだ。  どうして、そんなふうに、無垢で居続けるんだ。  昨日、僕は“君の右手”に触れた。  その瞬間、僕は喜んで“神の啓示”に逆らい、己の欲に手を染めたのだ。  初めて僕に乱され、困惑したように涙ぐんだ君。  それでも、君は――今日、必ずここへ来る。 「――壮史さま。咲です」  扉が控えめに叩かれる音と、柔らかい声。  僕は椅子に座り、開いた本から視線を外さぬまま、応えた。 「――開いてるよ」  扉が、ゆっくりと開く音。  咲の足音は、静かだった。

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