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十八 僕はあなたの人形

 「――開いてるよ」  壮史さまの穏やかな声が、扉の向こうからそっと届いた。  僕は扉の前で一度、胸に手を当てる。ほんの少しだけ、鼓動が速くなる。昨日のことが、じりじりと頭に焼き付いて離れなかった。  扉を静かに押し開けると、部屋の中には朝の光がやわらかく差し込み、カーテンの裾を揺らしている。  壮史さまは革張りの椅子に腰を下ろし、本に目を落としていた。顔を上げることもせず、静かにページをめくっている。その横顔は静謐で、まるでなにも起きていない朝のようだった。  僕は扉の前から一歩も動けなかった。奥へは入らず、そっと後ろ手で扉を閉める。手が、わずかに震えていた。 「に、学術院の試験は欠席、と電報を打っておいたよ。安心して」  当たり前のように告げられたその一言に、胸が強く脈を打つ。彼は、今日僕がここに来ると知っていた。 「壮史さま……なぜ、母へ送ったはずの手紙をあなたが持っているんですか。……母は、ご無事なのですか」  やっとの思いで声を絞り出すと、彼はようやく顔を上げた。やわらかな眼差しが、まっすぐ僕を射抜く。 「君のお母上は、病院に移っていただいたよ。その方が君にとっても安心だろう」  静まり返った室内に、小さく時計の音だけが響く。 「咲君の帰る場所はなくなってしまったけれど――そうだ、ずっとここに居ればいい。今の部屋が手狭なら、もっといい部屋にしよう。歓迎するよ」  その柔らかな声は、優しさというよりも、命令に近い響きを孕んでいた。 「ああ、それと市橋君が贈ったという“甘草”だが……あれは、君のお母上には毒になりかねなかった。水腫だろう。逆効果だ。処分させてもらったよ」  そう言って、彼は胸元に手を当て、芝居がかった仕草で目を細めた。 「危なかった……本当に」  ごくり、と喉が鳴った。空気が、少し重たくなる。 「そうだ。茯苓、防已、当帰……知っているだろう、お母上に必要な薬だ。これらが急に統制下薬品になってしまってね。でも、安心して。僕なら手配できる。」  それは、従属の誘いだった。  指先までも冷たくなっていくのを感じた。  彼は飾り台に置かれたビスクドールに手を伸ばす。繊細なドレスを纏い、淡く紅を差した唇で微笑む、磁器の少女。  その人形の髪を撫でる仕草はあまりにも親密で、僕は息を呑んだ。 「咲君のお母上もね、すっかり僕のことを……信頼してくれているよ」  指先が、ビスクドールの巻き毛を梳くように撫ではじめる。指は、やがて一房の髪をそっと摘み上げ、耳にかける。  露わになった白磁の耳に、僕の目が引き寄せられた。  ――そこに、小さなほくろがあった。 『……咲君。知ってる?――ここに、小さなほくろがあるんだ』  昨日、耳元で囁かれた言葉を思い出す。  背筋に、冷たいものが走った。  次の瞬間、壮史さまはその耳へと唇を近づけ――人形に、やわらかな口付けを落とした。  ゾクリ、と肌が粟立つ。  冷たい指先でなぞられたわけでもないのに、首筋から背中へ、じんと痺れるような感覚が走る。  それは確かに、自分の耳に触れられた時と、同じ感覚だった。  僕は思わず視線を逸らす。  鼓動を感じながら視線を移すと、窓際のサイドテーブルの上に、昨日壮史さまに取り上げられた、あの香袋が置かれていた。中身は引き裂かれたように、ばらばらと広げられていた。  思わず、目を見開いた。喉の奥で何かが詰まる。  その動揺を、壮史さまは視線でなぞる。僕の反応を観察するように。 「僕の部屋の花瓶も……なくなっていました」  声が震えるのを、止められなかった。 「壮史さま。どうして……どうして、僕から、大切なものを全部、奪ってしまうのですか」  僕の問いに、彼は微笑む。 「君にとって市橋君は――大切な人?」  僕が熱を出したときの、誠さんの優しい手。咲ちゃんと呼びかけてくれる元気な声。誠さんの温かさが次々と瞼に浮かんでくる。 「……大切に、決まっています」  その言葉に、彼はまなざしをゆっくり逸らし、目の奥に何かを沈める。 「市橋さん、しばらく休んでいるって……聞きました。彼は、どうしたんですか。ご無事なんですか」  僕の焦った問いに、彼はあくまで穏やかに、事もなげに答えた。 「さあ。ご実家で、何かご不幸があったのかもしれないね」  『うちはな、代々みんな身体だけが取り柄でな。ばあちゃんもじいちゃんも、ピンピンしてる――』  誠さんの言葉がふいに思い出される。嫌な予感に、胸が騒いだ。 「壮史さま。僕が……書生として、何か……何か気に障ることを……」  言いかけた瞬間、指先が、かたかたと震え出した。 「したよ」  低く、優しい声だった。  彼は静かにビスクドールを置き、立ち上がる。そして僕に向かって、ゆっくり歩を進める。 「君は、僕の気も知らないで、他の人に笑顔を向けて」  一歩、また一歩。 「僕の気も知らないで、ここから出ていこうとする」  気づけば、背中には扉があった。逃げ道は、どこにもない。 「……こんなに愛してしまったのに」  彼は僕を囲い込むように近づき、僕の背後に手を伸ばす。僕の後ろで、がちゃり、と音を立てて鍵が回った。  壮史さまは屈んで僕の顔を覗き込み、僕の瞳を捉えたまま、静かに問いを落とした。 「それで――」  冷たい熱を孕んだ眼差しに、逃げ場を奪われる。  僕は、すべてを理解した。  手が震えている。  視界が、揺れている。  そして――  屈みこんだ彼の唇に、僕は自分から……唇を重ねた。

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