27 / 31
二十五 閉ざされた午後
机に凭れたまま、僕は動けずにいた。
いつもそこにあった花瓶が、もうない。
市橋さんの姿もない。
帰る家も、将来も――何もかも、ない。
やがて、静かな気配とともに石垣さまが部屋へと入ってきたが、僕は顔を上げることが出来なかった。
コト、と机の端に置かれた湯呑から、ふわりと香ばしい香りが立ち上る。
「――これから先、お屋敷の外へは出られませんように」
石垣さまは僕の目を見ずにそう言った。
「……学び舎にも?学び舎にも行ってはならないというのですか。僕はこれまで一度も勉学を疎かにしたことはありません。あんまりです」
喉の奥がひりついた。
「椿さまの件を、口外させたくないからですか?有馬家の名を穢さぬために、……すべて力で、塗り潰してしまうおつもりですか」
言葉に棘を込めたのは、自分でもわかっていた。
「自分の道を歩けって、石垣さまは言ってくださったじゃありませんか」
声が震えるのが、自分でも分かった。
けれど、彼はただ一度、瞼を伏せてから、静かに告げた。
「――今後は、壮史さまが、直接お勉強を見てくださるそうです」
『近代国際法概論』『帝国憲法講義録』『西洋思想原論』『外務省実務演習要綱』――
手渡されたのは、国際法や憲政の仕組み、遥か彼方の国々との交信にまつわる書物数冊と、分厚い資料の束だった。
難解な語彙、知らぬ地名、英語の条文。
知らぬ単語ばかりが並ぶページの向こうに、自分とは違う世界が広がっている気がした。
あいだに挟まれた英字新聞の切り抜き、速記帳、びっしりと書き込みのあるノート。
どれも、誰かが本気で何かを目指していた証のようだった。
「……っ」
僕の手が震えた。紙束の角を掴みかけて、そっと離す。
僕は現実感をなくしたまま、ただ宙を漂っているようだった。
――コン、コン。
扉が控えめに叩かれ、僕ははっとする。
気がつけば、窓の外はすでに夕闇に包まれていた。
「咲さま。……お食事のご用意が整いました」
侍女の澄さんの声だった。
わざわざこうして呼びに来るなんて、何かがおかしい。
「……咲さまは、今後、壮史さまとご一緒にお食事を取るように、とのお達しにございます」
「……どうしてですか? これまで通り、みんなと一緒に、台所で……。それではいけないのですか?」
声がわずかに上ずった。訴えるように澄さんを見たけれど、彼女はそっと目を伏せた。
「ご命令にございます」
その言葉が、胸にずしりと落ちた。
澄さんは、丁寧に頭を下げたまま動かない。
「やめてください。僕はただの書生です。それじゃあ、まるで――」
続く言葉を失う。
僕の声は、ひどく小さくて、今にも消え入りそうだった。
「……すみません。体調がまだ優れなくて。今日は、食べられません」
廊下の足音が遠ざかると、再び部屋には沈黙が降りた。
誰もいない部屋で、僕はもう、泣かなかった。
涙はとうに尽きてしまったから。
視界の端、石垣さまが持ってきてくれた湯呑みは、もうすっかり冷えきっているだろう。僕は、結局ひとくちも口をつけなかった。
ともだちにシェアしよう!

