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二十六 皮肉
「っ、ん……はぁっ」
熱っぽい吐息と濡れた音が、静かな書斎に響く。
「……咲君」
上唇を吸われたと思えば、今度は舌を絡め取られ、名残惜しげに啜られる。
「……っは、……ぁ……」
息が喉奥で擦れて、僕はただ、腕の中で小さくなるしかなかった。
そのまま、壮史さまの手が背を撫る。
けれど、そこまでだ。
――いつも、そうだ。
深い口付けのあと、壮史さまは必ず僕の体から手を離し、まるで何事もなかったかのように席へ戻る。
「――じゃあ、今日もよろしくね」
そう言って、柔らかく微笑む。
僕は、浅く息を吐いて、黙って頷いた。
*
――あれから、毎日のように、僕は壮史さまの部屋へと通っている。
私室と書斎を隔てる扉をまたぐと、必ず彼は立ち上がって、僕を抱き締めてくれる。そして、唇を重ねる。
それは決して軽いものではなく、まるで何かを埋めようとするような、深く濃い口付けだった。
だけど、それ以上は――ない。
壮史さまは、すぐに書斎の机に戻って公文書や書簡に目を通し、合間に僕がやってきた課題を見てくれる。
その間、僕はその隣で勉学に励んだり、書棚の整理をしたりして過ごす。
その繰り返し。
それがお決まりになっていた。
こんな日々のなかで、僕にも少しずつ分かってきたことがある。
机に向かう壮史様の横顔には、時折、言葉にできないほどの真剣さが宿る。
まるで書面の奥にある世界を見通すような瞳――それは、僕を映してなどいないのに、なぜか胸の奥をざわつかせた。
僕の書いた文字の揺らぎひとつで、「今日は気が逸れているのだね」と見抜かれる。
たとえば縦画がいつもより浅いとか、余白がわずかに広いとか。
僕自身すら気づかぬことを、壮史さまは見逃さない。
思索に沈むときの眼差しは冷たく澄んでいて、それでいて、たまに僕が咳をすると、ふいに和らぐ。
叱るときの声は静かで低く、決して語気を荒らげることはないが、それがかえって胸を締めつける。
読み書きに没頭しているときの、息を詰めるような静けさ。
思いがけず笑ったときに滲む、少年のような柔らかい声。
そういったすべてが、少しずつ、僕のなかに積もっていった。
*
僕は書棚の奥から古い書簡を取り出し、背筋を伸ばして埃を払いながら、ふと考える。
――なぜ、壮史さまは口付け以上を求めてこないのだろう。
あの日、僕の裸を見たから満足したのか。
それとも……
僕が……子供すぎた?
そう思うたびに、なぜか胸の奥に小さな針が刺さったように痛んだ。
書棚を整理しながらも、さっきの口付けがどうしようもなく頭から離れない。
喉の奥にまだ唾液の甘さが残っていて、それを思い出すだけで身体の下のほうが熱を帯びてくる。
(少しだけ……)
意識しないようにしていた疼きが、どうしようもなくなっていた。
僕はそっと、扉の向こうを見やる。
私室の方で、壮史さまが何かを探している音がかすかに聞こえる。
(声……出さなければ、きっと――)
指先を腹の上に滑らせた瞬間。
「咲君」
背後から声がして、心臓が跳ね上がった。
「翻訳の、ここの一文なんだけど――」
「――はい」
僕は手早く帳面を取り出し、咳払いをひとつしてごまかすように机に向き直った。
「この“in such a manner as to be inconsistent with the proprieties”って一文、どう訳す?」
壮史さまは腰を屈め、僕のノートを覗き込んでいる。
「えっと……“礼儀に反するような態度で”……ですか」
「うん、悪くはない。でも“proprieties”は“礼儀”よりももう少し社会的な規範を含む言葉だよ。
たとえば貴族社会の中での“らしさ”や“相応しさ”という意味合いもある」
「――つまり、“社会的に望ましくない振る舞いで”……?」
「そう。それか“品位に欠けた様子で”としたほうが、文の文脈には合うかもしれないね。
ちなみに、ここでは“彼女”がその振る舞いをする、という皮肉を含ませてるから、若干婉曲に訳すと面白くなる」
「皮肉、ですか」
「うん。この著者は女性解放に理解があるけれど、だからこそ女主人公に厳しくなる。
翻訳っていうのは、文法をなぞるだけじゃなく、書き手の皮膚感覚に触ることでもあるんだよ」
――その声音が、少しだけ近い。
顔を向ければ、彼の睫毛がかすかに揺れている。
「大丈夫?なんだか顔、赤いけど……。無理しないで、今日は部屋に戻っても――」
目が合った瞬間、僕は息を呑んだ。
(見られた?)
でも、壮史さまの瞳はいつも通り優しいまま――それがかえって、僕の胸を締めつけた。
「……いえ、大丈夫です」
声がかすかに震えていた。
何かがおかしい。
自分でも驚くほど、息が上がっていた。
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