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二十七 想いはいまだ名を持たず
カチャ、カチャ。
銀のナイフが、白磁の皿に当たって小さく鳴る。
仔牛のクリーム煮を飲み込みながら、僕は目の前の人を盗み見た。
……この人は、どうしてこんなに近くて、遠いのだろう。
書斎の、地球儀が置かれた重厚なマホガニーの机。その机の引き出しには、何か秘密がある。
僕が書斎を訪ねる時、壮史さまはごく自然に、だが確かにその引き出しに手を伸ばし、静かに鍵をかけるのだ。
そして、その鍵を壮史さまは肌身はなさず持っている。そう、例えば、あのシャツの内側に――
僕を暴こうとしたくせに触れてこず、僕を傍に置きながら彼の内面には触れさせない。それが、なぜか僕を苛立たせた。
「咲君、何か苦手なもの、あった?」
ふと差し出された声に、我に返る。
「いえ、大丈夫です」
テーブルの中央には葡萄の葉を象った銀の燭台が置かれ、ろうそくの火が細く揺れている。
「そうだ。明日から、またしばらく家をあけるから。課題をやっておいてね」
ナイフの先が、皿の上で少し滑った。
「……そうですか」
また、どこへ?
つい先日も“公務”だと言って二日ばかり家を空けたばかりだった。
「ははっ、寂しがってくれないの」
壮史さまは、なぜかとても嬉しそうに笑った。
その声音に、また、何かを見透かされたようで、僕は視線を落とした。
*
翌朝、「館からは出ないようにね」と僕の髪に口づけを落とし、壮史さまは外出した。
外は、すっかり夏。
蝉の声すら聴こえぬほど、窓の外はただ、光の粒が眩しく舞っている。
本当だったら――
本当だったら、僕は、今ごろ……学術院で、新しい生活が始まっていたのかもしれない。
あるいは、変わらずに学び舎の皆と、笑い合っていたかもしれない。
……皆は、元気にしているだろうか。
机の上には、壮史さまが置いていった課題の山。
それはまるで世界の輪郭をなぞるような、重たく静かな課題だった。息苦しいほどに現実的な問いが、そこに並んでいた。
分厚い英和辞典が三冊、静かに積まれ、その上に壮史さまの手による英文が流れるように綴られている。
内容は、国際会議の議事録――各国の思惑が交錯する外交文書の下訳と分析。
加えて、仏蘭西詩の原文精読と、ヴィクトリア朝における社交礼儀の古典的文献、確率論と統計的推論を扱う洋書が、静かに並べられていた。
これらは全て壮史さまが通ってきた道なのだろう。これに触れたら、少しは彼の内側を――覗けるのだろうか?
本をめくる指先を止めたのは、昨日教えてもらった「in such a manner as to be inconsistent with the proprieties」という一節の傍に、壮史さまの新しい書き込みを見つけたからだった。
Saku ate in such a manner as to be inconsistent with the proprieties.
《咲は、品位を欠いた仕草で食事をしていた》
――昨夜、僕はそんなに態度が悪かった?
一瞬むっとしながらも、僕はその下にそっとペンを走らせる。
And yet, someone kept watching me as though he found it charming.
《それでも、誰かさんはずっと見ていて、どこか嬉しそうだったけれど》
ペンを置き、背中を緩やかに伸ばす。窓の向こうでは、白く瞬く陽の光が、そっと風に揺れていた。
僕は、積み上げられた課題の重みに、なぜか心を弾ませていた。
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