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第28話
それからしばらくして、伊織くんの帰りが遅くなった。
最初は仕事に慣れてきて、残業が増えたのかな?と思ったけれど、どうやら接待ってやつらしい。
「技術職になるじゃないの?」って訊いたら、
「会社からの強い押しで営業になりそう」
って疲れた顔で言われた。
自分が営業だからあまり言いづらいけど、それは規約違反じゃ…
要項や希望と違う部署にされるのは労基的にOKなんだろうか。
「大丈夫?」
「うん…、とにかくめっちゃ頑張って実力つけたら、希望の部署に行けるようにお願いしてみる」
そう言った彼の顔は、やっぱりどこか疲れているように見えた。
でも、俺に伊織くんの会社のことは分からないし、恋人に仕事のことであれこれ言われるのは嫌だろうと思って、口出しをしなかった。
接待がない日はいつものように夕食を作って待っていてくれるが、
接待があった日は、いつも酒を飲まされるのかリビングでぐったりしている。
「ごめん、文くん。
ご飯また作れなかった」
と悲しそうに言う。
「いや、接待って聞いてたし全然大丈夫。
色々買ってきたけど、伊織くんはいらない?」
俺がコンビニの袋を掲げると、伊織くんは申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんね。
接待で食べてきたから要らない」
疲れている様子なのに、俺が飯を食べているのをじっと眺めている。
あるいは、隣に座って俺にもたれかかったりもする。
その時に、強い女性ものの香水の香りがする。
これ…、青野さんのとはまた違う匂いだ。
心がじくりと痛む。
また、女性なのかな…
接待って本当なのだろうか?
デートではない?
そう考えてしまうものの、伊織くんの疲れ具合や表情を見るとなかなか言い出せなかった。
そんな日々が1か月くらい続いて、伊織くんは同棲して初めて…、帰ってこなかった。
日付を超える前に『どうしたの?』や『何かあった?』とメッセージを送ったが、返事はおろか既読すら付かなかった。
こんなこと、今まではなかった。
不安な気持ちで朝まで眠れず、ぼんやりと朝食代わりのコーヒーを飲んでいると、携帯が震えた。
『文くん、ごめん。
昨日、接待で酔いつぶれちゃったみたい。
今日はこのまま出社するけどちゃんと帰るから』
もやっとしたものの、とりあえずは事件や事故に巻き込まれたわけではなくて安心した。
それにしても…、伊織くんは簡単に酔いつぶれるような人じゃないし、若いけどちゃんとペースを考えられると思う。
そんな彼が酔いつぶれるほど、平日から飲ませる接待っていったい何?
別に…、伊織くんに他に好きな人が出来たっていうなら、俺はいつだって身を引く覚悟はできてる…、多分。
考えたくもないけど。
でも、伊織くんが嫌嫌やらされていることなら、恋人として見過ごすことは出来ない。
帰ったらちゃんと話そう。
ショックやらなんやらで、ぼやけていた頭に喝を入れる。
俺自身もちゃんと早く帰らなきゃな。
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なんとか仕事を終えて家に帰ると、伊織くんはキッチンにいた。
「ただいま」と声をかけると伊織くんは驚いた顔で俺を見た。
「おかえり。早いね」
「うん、まあ、終わらせるの頑張った」
「そっか。えっと…、昨日はごめんね」
伊織くんがたちまち暗い表情で謝る。
やっぱり、浮気とかそういう類には見えないんだよなぁ…
「あのさ、そのことで話があるんだ。
だから、夕食が終わったら…」と俺が言いかけたところで、カランと何かが落ちる音がして目を向ける。
伊織くんが持っていた菜箸を床に落としたらしい。
そこから伊織くんの顔に視線を戻すと、彼は血相を変えていた。
「や、やだ…!
俺が好きなのは文くんだけだよ。
だからお願い…、捨てないで。
もっとちゃんと家事もするし、二度と無断外泊なんてしないから」
俺に走り寄り、痛いくらいに腕を掴んでいる。
伊織くんは今にも泣きだしそうだ。
「ちょ、伊織くん、落ち着いて。
別れようって話じゃないから!」
伊織くんと目がかち合う。
彼は怯えた顔をしていたけれど、俺が強く見つめ返すと、納得したように俺の腕を離した。
すこし指の跡が残っている。
「強く掴んじゃってごめん」
掴んだのは彼なのに、伊織くんの方が泣きそうだ。
心臓がぎゅっと痛んだ。
「俺だって男だし、このくらいなんてことないよ。
伊織くん、疲れてるなら俺が飯作ろうか?」
「ううん、俺が作る」
そう言ってはいるが、立っているのも辛そう。
「じゃあ、手伝うよ。
あまり役に立たないかもしれないけど」
と俺が笑うと「助かる。ありがとう」と伊織くんがやっと表情を緩めた。
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