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第29話
"食べ終えたら話そう"と言ったものの、伊織くんの箸は全然進んでいなかった。
見た目も、スペックも、何もかも俺が劣っているというのに、伊織くんは俺に振られることに怯えてるなんて不思議だ。
俺より上の人間なんて、いくらでもいるのに。
終始、青ざめた顔をしている伊織くんが可哀想になり、俺は口を開いた。
「あのさ…、先に話そうか?」
伊織くんはびくりと肩を揺らし、少し悩んだ後「うん、今が良い」と力なく頷いた。
俺は姿勢を正してから、話し始めた。
「伊織くん、悩んでいるよね?
多分、仕事の事で。
嫌だったらさ、辞めて良いと思う」
伊織くんは俺の言葉に目を見開いている。
「でも、そしたら、俺の収入が無くなっちゃうし、
俺は文くんを支えて、ブラック企業から早く転職させてあげたくて…」
「うん、気持ちはありがたいんだけどさ、
今のところ伊織くんの方が限界そうに見える」
「それは…」
「初めの頃は順調そうだったよね?
何があったの?」
今まで聞けなかったことを口にする。
緊張で口が乾いた。
「大したことじゃないんだ。
俺自身の弱さの問題と言うか…」
「大したことあるでしょ。
伊織くん、最近本当に顔色が悪いよ?
パワハラ?嫌がらせ?異動も、誰かの悪意のせいなの?」
俺がそう言うと、伊織くんは首を横に振った。
「違う。職場の人は皆いい人だよ」
「じゃあ、なに?教えてよ。
俺たちは結婚できないんだから、せめて…、色んな事を共有してほしい」
俺がそう言うと、伊織くんは目に涙を湛 えた。
ぽつぽつと伊織くんが話したことに、俺は眉を顰める。
先日の泊りがけの研修に、社長の娘さんも新入社員として参加していたそうで、グループ研修なんかで話すうちに見初められてしまったとのこと。
確かに、同じ会社にこんな将来有望なイケメンがいたら惚れてしまう気持ちもわかる。
それから、彼女の猛アピールが始まり、それを知った社長が会社まで使ってくっつけようと躍起になっているらしい。
”同棲している恋人がいる”と言っても、「学生からの恋なんて続かない」だの「私よりも条件が良い相手なわけがない」だのと、まったく引いてくれないらしい。
伊織くんは俺以外と付き合うなんて絶対に嫌だけど、振れば今の会社に居辛くなってしまうのが怖くて、どっちつかずでいたら、昨夜のお泊り騒動が起きたとのこと。
接待中にご令嬢に「具合が悪いから送ってほしい」と家まで付き添いをお願いされ、「送りだけなら」とついていったら、自宅でも介抱をさせられた。
そのうちに終電を逃してしまい、タクシーで帰るにも自宅まではかなり離れていたので、近場のネカフェで休んで、電車で出社したとのこと。
伊織くんを営業に移動させたのも、”接待”という名目で飲みの場に引っ張り出せるかららしい。
そんなの、職権乱用だし、何らかのハラスメントに該当しそうだ。
「こんなの毎回やってたら、伊織くんの身体が崩れるよ。
労基でもなんでもちゃんと相談しに行こう」
俺がそう言うが、伊織くんは「うん」とは言わない。
「俺の躱 し方が悪いだけだし、大事 にしたくない」
「俺にとっては十分大事 だけどね。
まあ、先に直属の上司にでも言ってみたら?
それで辞めることになっても俺は良いと思う。
伊織くんがずっと入りたかった会社だから、辞めたくないなら戦うしかない」
しばらく伊織くんは黙っていたが「分かった。相談してみる」と頷いた。
「そうとなれば、腹が減っては戦は出来ぬだよ。
作ったのはほぼ伊織くんだけど…、たんとお食べ」
と俺が言うと、伊織くんがやっと笑ってくれた。
「解決はしてないけど、気持ちが軽くなったよ。
文くんに言ってよかった。
さすが、猪熊文之助だね」
「フルネームで呼ぶなよ」
伊織くんは、本当に少し気分が良くなったみたいで、ちゃんと夕食を食べきっていた。
どうか…、この問題が彼にとっていい方向に解決しますように、と祈りながら眠りについた。
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