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8-4 sideシルヴィオ 拝啓いなくなった君へ

「……? ここは……」  ふと気付くと、私はエルフの郷の自室に立っていた。膨大な書物を収めた本棚、そこから溢れた書籍や石板、石造りの机とテーブル。そして大きな寝台だけのそこは、私がまだ次期当主と父から認められる前の部屋のようだった。  大きく開いた窓から外を見れば、薄明かりのエルフ郷には人間の学者たちの姿がある。  ああ、これはラゼルと出会った頃の思い出だ。学者たちは熱心にエルフの全てを記録しようとペンを走らせ、エルフたちは穏やかに微笑み彼らを見守っている。あまりに一瞬の、儚くも尊い時間だった。  淡く懐かしい、しかし震えるほど怖い夢だ。何故なら、私がこの夢を見る時、必ずラゼルは私を厭い、私の元から去って行くのだから。 「シルヴィオ」  声をかけられ、身が震える。もう何百回、何千回別れを告げられただろうか。あの男たちは私にまたも悪夢を見せるつもりなのだろうか。私は深く呼吸を繰り返し、やっとの思いで振り返る。  彼が、あの日のままの彼がそこにいた。  色素の濃い肌、白く短い髪。優しい顔立ちに赤い瞳の男は、エルフに渡された質素な服さえ着崩している。戦士たる証のしなやかな筋肉が、エルフから見ても美しい。 「ラゼル……」  喉から出た声が震えている。長い長い時間、彼を待った。彼を想って、時には彼を呪った。それでも彼を憎みきれず、忘れることもできなかった。胸が苦しいほど、身が引き裂かれそうなほどの想いをひた隠し、私はただ次期当主として相応しい立ち居振る舞いを続け、この荒ぶる感情を紛らわせることしかできなかったのだ。  それでも、悪夢は見続けた。私に冷たい言葉を投げかける彼だけに、出会い続けていたのだ。 「シルヴィオ、ごめんな。随分待たせて」  けれど、今は違う。彼は……ラゼルは、優しい微笑みをたたえながらも、申し訳なさそうに私を見つめているのだ。 「お前にちゃんと説明をして、それから出発できなかったこと。悔やんでも悔やみきれねぇよ」 「…………」  私は、言葉を返せなかった。  これが夢なのはわかっている。今、私はよく知らない者達の手で、都合の良い夢を見せられているのだ。私を説得するために、偽りの映像を見せているのではないだろうか?  けれど、あの人間は事実を伝えるとも言っていた。ならラゼルは、本当に無念の内に亡くなったのだろうか。それとも、これは私の願望の投影なのだろうか。わからない。  わからないけれど。私は今……どうしようもない胸の苦しみを感じている。抗いがたい再会の喜びを、嘘でもいいからラゼルともう一度話したいという欲求が、私を駆り立てていた。 「……ラゼル、君はどうして……私の前から去った」  長い長い間、心に救っていた問いは、ごく自然に溢れ出ていた。 「俺の雇い主とその取り巻きが、突然帰国すると言い出したんだ。残してきた家族が危篤だと説明されたよ。俺たちガリア人にとって血の繋がりは何より重んじられるものだ。俺もそういう事情ならと、すぐ出立した。国の家族を見送ったら、またエルフ郷へ帰るんだろうとばかり思ってたよ。だけど……そいつの家族が危篤なんて嘘だったし、連中はエルフの郷から盗んだ物を売り捌いてたんだ」  ラゼルは苦い表情で、そう語った。  雇い主には従う義務がある。しかし、雇い主が嘘をついているなら話は別だ。ラゼルは逃げた雇い主とその取り巻きを追いかけ、打ちのめして裁きを法に任せた。そして売られた盗品を調べ上げ、ついに全てを取り返したのだという。それらを返し、謝罪しに行くという学者たちに着いていくこともできたが、ラゼルはその時、帰ることを選ばなかった。 「お前には、きちんと……全部終わらせてから、会いたかったから」 「全部、終わらせる、とは……」  ラゼルは一度言葉を詰まらせてから、「子作りだよ」と率直に打ち明ける。 「俺たちガリア族は、恋愛と子孫の繁栄を別に考えるからな。一定の年齢になると問答無用で配偶者と関係を結ぶし、最低3人は子を作る。じゃないと死んでも死にきれねえ。安心しろ、ちゃんと相手の女にも、俺はいずれエルフ郷へ行って帰らないつもりだって説明して、合意の上で子供も作ったからよ」 「エルフ郷へ行って、帰らないつもりで……? それは……つまり……」  どういうことなのか、予想はついている。信じるのが恐ろしいだけだ。都合の良い夢を見せられているだけかもしれないし、私が勝手にそう思っているだけなのかもしれない。そんな私にラゼルは囁く。 「俺はお前の想いを受け取った。だから俺も、ちゃんと応えるつもりだったんだ。まぁ、実際は果たせなかったわけだが……」 「では……それでは、私を厭うたのでもなく、全てが嘘だったわけでもなく……君も私を、想っていてくれた、と……?」 「もちろん、そうだ。そうに決まってるだろ。好きでもないのに男を抱けるかよ」 「──……」  絶句する私に、ラゼルは苦い笑いを浮かべる。 「お前は俺の話をいくらでも聞いてくれたろ。その楽しそうな様子が、心から愛おしかった。お前から求愛を受けた時には正直戸惑ったが、……俺もお前のそばにいたかったんだよ。ま、あそこのメシは食えたもんじゃねえがな」 「……ラゼル……」  これがラゼルの、本音だったのなら。そう考えると胸が苦しい。私が彼を待ち焦がれた気持ちは、過ちではなかった。彼を憎み忘れることもできず、何故と問い続けたあの焼けるような苦しみの日々は消えることのない痛みだけれど。  それでも、私の想いは無駄ではなかったのだ。  目頭が熱くなる。四百年も生きたエルフが、情けない。私はそれを隠すように、さらに問いかける。 「だが君は帰って来なかった。その後、何があった?」 「戦だよ。あの頃はまだ、世界中そう仲良くもなかったろ。恐れ知らずの戦士の一族は、総出で戦いに赴いた。俺も例外じゃない。そして俺は……27年の人生に幕を閉じ、お前のところに帰ることができなくなった。……ごめんな」  27年。  それは、エルフにとってあまりに短い人生だ。そしてラゼルが私の元から消えてほんの数年で、この世からいなくなっていた事実。その時間に思いを馳せると、呼吸が苦しくなるほどだった。  まだ若く、愚かな恋する私には想像がついていなかったのだ。エルフ以外の存在が、あっけなくいなくなってしまうことが。私はラゼルが帰ってくるのを、少なくとも80年は待っていたというのに。たったの数年で、もう叶うはずのない願いになっていただなんて。 「……っ」  愛おしさで、苦しさでどうにかなりそうだった。私はそれが幻だとわかっていて、ラゼルに駆け寄るとその身を抱きしめる。もういない男の身体は温かく、まるでこの場に彼自身がいるように錯覚する。彼の香り、彼の逞しい身体。全て全て、あの日のままで。  私は涙を堪えられなくなった。 「ラゼル、ラゼル……っ。君に、君とどれだけ会いたかったか……!」 「うん、うん。ごめんな、辛い思いをさせて」  今だけは、そばにいてやれるから。たくさん話をしよう。あの日みたいに。  ラゼルの声は、優しい。あの頃、私に多くのことを語り聞かせてくれた時と同じだ。もう一度顔を見たくて腕を放すと、彼の手のひらが私の頬を包む。  その手は、あの日のようにマメだらけではなく、滑らかだった。それでも優しさだけは変わらない。私はそっと目を閉じ、ただただ自分の数百年の想いを胸に感じる。  今は、ただ。愛しさばかりがそこにある。恨み言も悲しみも、後悔も全て押し流して、今だけはラゼルの亡霊を愛したい。  そんな私の唇に優しく彼の唇が重なった。あの日と同じ温もりに、私はただ、涙を零した。

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