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第20話 駅に残るシミ

翌日、光輝は仕事までの時間を、ある駅の前で立ちつくしていた。 ポケットから名刺を取りだし、裏のメモを見てひっくり返し、じっと美奈の名前を見る。 たった今、彼女から冷司のことで当時の新聞や雑誌を見せて貰ってきたのだ。 『ここよ、この場所が事件現場。行ってみなさい、すぐにわかるわ』 彼女の声を思い出しながら、もう一度名刺の裏を見て、息を飲む。 そこには、何度見返してもこの駅の名と西口改札と書いてある。 名刺をグシャリと握りしめ、一つ溜息をついてポケットに入れる。 Tシャツのすそをめくり上げ、かがみ込んで顔の汗を拭いた。 暑いのに、寒い。 奇妙な感覚に襲われながら、案内板にある西口の名を見上げ、改札口を目指した。 うつむいて歩いていると、シミだらけのコンクリートの床がいやでも目にはいる。光輝もたまに利用する改札だが、それを別段気にすることもなかった。 顔を上げ目指す改札口の前に来た時、ちょうど電車が到着した直後でドッと人がこちらへと押し寄せて来る。 光輝は人の波に押されながら、ドキドキと恐怖に震える心臓を押さえた。 やがて電車が去り、人の行き来も減って行く。 ようやく空いた改札の前、光輝は目を閉じ、そして大きく深呼吸して足元を見た。 コンクリートにうっすらと、いくつもの大きく残るシミ。 そのシミは、まるで床にポッカリ空いた落とし穴のようだ。 光輝はザッと血が下がる感じを覚え、たまらず両手で顔を覆った。 それは、同級生から受けた殺人未遂事件だった。 発端はイジメだ。 冷司はその頃、クラスの1人がグループのSNSで深刻なイジメを受けていることに同情し、唯一味方に立って先生に相談した。 だが、先生は対応してくれず、それをきっかけにイジメはエスカレートしてしまった。 守っていた冷司もクラスで陰湿なイジメに遭うようになり、思い悩む彼に被害を受けていた生徒は責任を感じ、とうとう学校で屋上から飛び降り、自殺未遂を起こしてしまった。 雄一の弟だ。 彼の弟は、命は落とさなかったものの、下半身不随。 車いす生活になって、世の同情を引いた。 しかもその彼が残したメモでイジメがマスコミに露呈した為に、主導した加害生徒は決まっていた大学の推薦入学が取り消されてしまった。 その、逆恨みを冷司は受けたのだ。 なんてことだろう。 彼の正義感が裏目に出るなんて。 今の冷司に、そんな熱い物は感じない。 ひたすらおびえ、影で震えている。そんなイメージに包まれていた。 まわりの音が消え去り、そして頭の中で、冷司がその場にいた時の、その様子が容易に思い浮かぶ。 逃げたい衝動を抑えて、もう一度ジッとそのシミを見つめる。 そこに、血だらけで横たわる学生服の冷司の姿が、そして助けを求めて手を差し伸べる、彼の姿が想像された。 痛みと恐怖が、まるで自分のことのように身体の中に沸き立ち、鳥肌を立てながら小さく震えそうになる。 執拗な攻撃は、まわりに沢山いたであろう人々がまるで無人であったかのようにただ1人彼に向けられ、加害者は冷司が死んだと思い込み、逃げる時更に2人刺して1人女性が亡くなった。 ああ、冷司、冷司、冷司………… 頭の中をたくさんの読んできた記事がグルグル巡り、身体ばかりでなく心まで傷つけられた彼の気持ちを思うと涙が浮かぶ。 出血多量で死にかけた彼はPTSDを起こし、進学も出来ず電車にも乗れなくなってしまった。 しかも、誤解からだろう、あの雄一からも執拗に嫌がらせを受けている。 家に帰れば、ヒステリックな母親に追い詰められていた。 構内をアナウンスが響き、また電車が着いた。 ドッと一斉に降りた乗客が、改札を通ってくる。 誰もがそのシミの事など忘れたように、踏みつけて通り抜けては、邪魔な様子で光輝を避けて行く。 なあ冷司……その時………… お前を誰か、助けてくれたんだろうか。 お前は誰かに、救われたんだろうか。 助けてと、叫ぶ声が耳に響いたような気がする。 光輝はシミを踏む人々の足が、冷司自身さえも踏みつけているようで、胸が痛み、知らず涙がこぼれた。 それから光輝は、店に行く前に冷司の見舞いに行くことが毎日の日課になった。 ICUに入っている間は家族しか会えないのだが、冷司の兄が強く希望してくれたので、特別に入れてもらえた。 ガウン着て、帽子かぶってマスクして、アルコールをスプレーして中に入る。 冷司のベッドに来て、そっと見下ろす。 沢山のチューブに繋がれた姿が痛々しくて、最初泣けてきたけど、意識が戻った頃には慣れてきた。 冷司に涙は見せたくない。 俺はこいつを守ると決めた。 冷司は3日目に意識が戻っても幻覚を見ているようで、酷くおびえて光輝がわからない様子だった。 それでも、毎日光輝は通ってくる。 手を握るだけで、次第に落ち着きを取り戻していくのが目で見てわかる。 やっと、光輝を見て笑うようになってきた。 ベッドサイドに立っていると、眠っていた冷司がふと目を開けた。 光輝に気がつき、うっすらと微笑む。 「……仕事……い…の?」 かすれた声で、力無く囁く。 点滴してある手を握って、何度もうなずいた。 「これから仕事、お前の顔見なきゃ心配で仕事にならねえよ。 な、食事始まった?」 「ま、だ」 「早く始まればいいな。お前の好きなの買ってくるのに。」 何故か、冷司の目から涙があふれる。 横にあるティッシュとって、涙を拭いてあげた。 「泣くな、これからずっと一緒にいるから」 「駄目、だよ……僕……きっ…、すぐ、死…じゃ…」 「大丈夫だ、俺に任せろ。 俺がお前を長生きさせてやる。な? 一緒に赤いちゃんちゃんこ着ようぜ!」 クスクス笑った。 やっと、笑った。 でもすぐに、悲しい顔になってしまう。 「す……ぞくか……チケッ……、もう、無い、んだ」 「ああ……そっか、捨てられちゃったか。 大丈夫だ、ほら、それなら俺も持ってる。また行こう、な。 図書館で待ち合わせして、そして水族館に行こう。 デートのやり直しだ」 「うん……うん」 頭を撫でると、目を閉じる。 キョロキョロして、人がいないの見て、マスクずらして額にチュッとキスした。 あ、と嬉しそうな顔をして、ウフフと笑う。 急いでマスクして、何ごとも無かったように頭を撫でる。 「おこ、られる、よ」 「怒られとくよ。元気になるおまじないな」 「うん」 「じゃ、また明日来る」 「寝て、たら、起こし、……て、ね」 「わかった、お前の寝顔、満喫してから起こす」 ウフフッと笑って、手を動かす。手を上げる元気がまだ無い。 ギュッと手を握って、さよならは絶対言わない。 また明日。 俺はあの日、タクシーに乗ったお前に、さよならの手を振ったことさえ後悔していた。 明日、また明日。 図書館は、お前の大切な逃げ場だったんだ。

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