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第2話 誰も知らない
自分の通うフルコンタクト(実戦)空手の道場の試合を正宏に見学させたことを、雪也は後悔していた。
5年生になったばかりの雪也が自分より体格の大きな中学生を倒すのを見て、自分もやりたいと言い出したのだ。
雪也が空手の道場に通い始めたのは、この町に越して来てすぐの1年生の時だった。今の正宏と同じ歳。
本来なら、一緒に武術を学べることを喜んであげるべきなのだろう。
短くて真っ直ぐな固めの直毛は黒髪のなかにところどころ金髪に近い色の髪の毛が混じっているせいで光の加減で茶色く見える。母親の智絵によく似た髪質だ。
切れ上がった一重の吊り目は父親譲り。三角形に近い形をした印象的な目は、けれど尖った感じがない。正宏のおっとりした性格が顔に表れているためだろう。
「絶対ダメ。」
雪也の言葉に驚いて、正宏は息を飲んだ。すでに両親の了承はとりつけてあり、喜んでくれるものと思って嬉しくて急いで報告に来た正宏に、雪也は静かに言った。
「どうしても空手がしたいなら、僕と違う道場にして。」
真っ直ぐに正宏の目を見据え、
「まーくんは何のために空手がしたいの?」
「……」
喜んでもらえるとばかり思っていた正宏は、冷え冷えとした雪也の様子に目を潤ませる。
「僕はね、強くならなきゃいけないから。自分や家族や大切な人達を守れるようになるため。」
自室のベッドに腰掛け背筋を真っ直ぐに伸ばし、小さな黒いテーブルを間に挟んでラグマットにちょこんと体育座りをした正宏を見下ろした。
「……ぉれ、ゆきにぃちゃんといっしょがいい……」
泣きそうな声でボソボソと言う正宏に更に追い討ちをかける。
「どうして?僕と一緒じゃないと出来ない理由なんてないよね?」
「だって……」
「甘えが出るよ。そんなお遊び気分でできるものじゃない。」
強い口調で言われ、確かにお稽古ごとを一緒にしたいくらいの気持ちでしかなかった正宏は、肩を竦めて俯き、唇を噛み締めた。
その肩が小刻みに震え出したのを見るや、雪也は満足そうに柔らかく微笑む。
「まーくん、おいで」
先ほどまでとは打って変わった優しい声色で名を呼ぶと、正宏はソロソロと顔を上げ、ベッドの横まで這って行って雪也に広げた両手を伸ばした。
ふぃーと喉を鳴らして泣き出した正宏を上から覆い被さるように抱き締めると、
「それにね、僕が一番嫌なのは、試合の組み手や稽古でまーくんが誰かに蹴られたり突き入れられたりするのを見なきゃいけないこと。それを考えるとどうしてもガマン出来ないんだ。……ごめんね。」
苦しそうに『ごめんね』と言い、涙に濡れた頬を指で拭って頭を撫でてやると、正宏は小さく首を横に振った。
「もし怪我なんかしたら、まーくんに怪我させた相手に僕何するか分かんないよ。」
まだ涙の浮かんだ瞳が、驚いたように雪也を見上げる。
「……ごめんなさいっ。ぉれのこと……しんぱいだから?」
その瞳をじっと見つめたまま、雪也は真剣な表情で、
「当たり前でしょ。僕はまーくんの『お兄ちゃん』だもの。」
言いながら正宏を強く抱き締めた。
トクトクと正宏の動悸が早くなって行くのが聞こえる。真っ赤になった耳朶と頬が見えた。
「……ゆきにぃちゃん、ワガママ言ってごめんなさい……。おれ、ゆきにぃちゃんのこといっしょうけんめいおうえんするからっ。」
「まーくん?」
「ゆきにぃちゃんがもっと強くなれるようにおうえんする!じゃましちゃいけないから、いっしょの道場には行けないけど……。」
雪也の言葉に誘導され、とうとう自分から諦めてしまった正宏には、その真意になど気付くことは出来なかった。
「可愛い。まーくんはイイ子だね……。」
とても操り易い純粋さ、生真面目さ、いつも一生懸命で人を疑うことも知らない、まっさらな心。
こんなに清い(きれい)な人間を、他に知らない。
雪也が本当に嫌だったのは、『正宏が怪我をするかもしれない』ことだけでは無かった。正宏の母、智絵の身長が170センチ弱。父親の正人の身長が187センチ。
今は小さな正宏も当然長身に育つだろう。
両親とも背が小さく、加えて筋肉の付きにくい体質の雪也は、これまでも他の人間の何倍もの努力をして身体をつくり、鍛練を重ねて来た。
けれど、体格に恵まれた相手には、どんなに努力してもどうしても敵わない部分がある。試合の度、稽古で行う組み手の度、何度も思い知った現実。
まーくんの実直な性格も、手抜きをすることを知らない不器用なところも、きっと空手をするのに向いている。
きっと、最後には僕を超えて強くなる。
簡単に想像出来た未来は、雪也を不安にさせた。
『弟』である正宏に自分を超えて行かれるのは、当然面白くない。しかしそれだけが理由では無く。
正宏と出会って、雪也は安らぐことを覚えた。
常に張り詰め緊張している精神がほっと息を吐ける場所は、今も唯一、正宏の傍らだけ。正宏が遺伝的に長身に育つのは仕方がないことでも、自分より強くはなって欲しくなかった。
身体の大きな、特に成人男性に対して抱く恐怖心と嫌悪感は歳を重ねても薄れることは無く、かなりの精神的な疲労を覚悟しなければならない。
小さくて、弱くて、いつも雪也を頼ってくる可愛い正宏。
彼まで怖くなってしまったら、どうやって息をすればいいのかも分からなくなってしまいそうだった。
小学校から帰宅すると、通っている道場へ向かう前に必ずやる日課があった。
軽食を済ませ、母から胴着を受け取り、雪也がもう一度廊下へ出ると、ほぼ同時に隣のうちのドアが開く。
一年生の正宏は、五年生の雪也よりも帰宅時間が早い。
待ってました、と言わんばかりの勢いで、
「雪にぃちゃんっおかえりなさい!」
と飛び出してきた。
「まーくん、ハイ。」
雪也が両手の甲を上に向けて差し出すと、
「ちゃんと元気にかえってくるように!てぁっ!!」
歯切れのいい声で言って、雪也の手の甲を片方ずつぱちん、と叩いて撫でさする。
正宏に言わせるとこれは『ぎしき』で、武術を習いに行っている雪也が怪我をしたりしないようにという、おまじないだった。
手の甲を叩くのは、おそらく正宏の中では空手の真似事なのだろう。
「まーくん、ありがとね。」
雪也が微笑むと、正宏は誇らしげに笑う。
その表情を見るたびいつも、雪也は幸せで愛しくて、どういうわけかじっとしていられないような、変な気分になった。
自分のその感情が、何なのかまだ知らない。
雪也は一年生の頃から続けている空手と共に、この春から柔術を掛け持ちしていた。
道場から帰ってくるころには正宏はもう眠っている時間で、もう随分長い間、ちゃんと遊んでやれていなかった。
それでも正宏は、寂しいのを我慢して、雪也に毎日おまじないと、笑顔をくれる。
どんなに毎日が忙しくとも、厳しい鍛錬に身体が痛もうとも、疲れようとも、あの笑顔を思い浮かべるだけで頑張っていける。
正宏は、雪也にとって最早かけがえのない、『癒し』になっていた。
5年2組の担任の奈良崎は、長身で人なつこい笑顔の美青年で、気さくな人当たりの良さも手伝って父兄にも児童にも人気の教師だ。
でもどうしてか、雪也はこの担任が苦手で仕方がなかった。
舐めるような視線が。
ふとした時、不必要に感じるほど触れられる手が。
それが決定的なものになったのは、ある日の放課後のことだった。
帰りの会の後、帰ろうとする雪也の肩を奈良崎が掴んだ。
訝げに見上げた雪也に、奈良崎はちょっと話があるから教室に残れと言う。
雪也は、道場があるから、と言って帰ろうかとも思ったけれど、奈良崎の含みのある声が気になって、教室に残ることにした。
児童たちがみな帰ってしまうと、ガランとした教室のなかで、奈良崎は不気味な笑みを浮かべ、雪也のサラサラとした艶やかな黒髪を撫でてから小さな頭をがしと掴み、
「ゆきちゃん」
と囁く。
唐突に、吐き気が込み上げてきて、雪也は自分の口を両手で覆った。
口の中に苦くて酸っぱい不快な味がして呻く。雪也を『雪ちゃん』と呼ぶのは今はもう母の麗子だけだ。
男性の声でそう呼ばれることには、どうしようもない違和感と、耐えられない嫌悪感がある。
かつての記憶が甦りそうになり、雪也は目をきつく瞑った。
「可愛いな。俺オスガキは……本当はもっと小さい子が好みなんだけど。『ゆきちゃん』は今でもスゲェ可愛い。……むしろ色気が出てきたかな……。」
追い討ちをかけるように、奈良崎が言う。
自分の耳を塞いだ雪也の白い指に、奈良崎はヌメついた赤い舌を滑らせ、片手で雪也の尻を揉んだ。
「『ゆきちゃん5歳』のビデオ、随分探したけどどうやら3本しか出てないみたいだな。『レイコちゃん』のはもっといっぱいあったけど。残念、俺大人の女興味ないんよ。」
ガチガチと音がする。かなり時間が経つまで、自分の歯が立てている音だと、雪也は気付けなかった。
土曜日、雪也は奈良崎の部屋にいた。何も考えることなく、感覚を遮断することでどうにかやりすごそうとした。神経質に片付いた部屋だが、女性のいる空間とは違う、粗野な大人の男の臭いがする気がして何度も吐き気に襲われる。
服を脱がされ、やたら写真を撮られる。靴下だけ残した裸に犬の首輪をつけられ犬耳の付いたカチューシャを頭に付けられた。しゃがまされ両手を顎の位置で握り込んで上を向かされる。
あまりに滑稽で屈辱的な姿勢を強要され、そのまま奈良崎の男性器をしゃぶらされ、それもデジタル一眼レフのカメラで撮られた。
頭上から浴びせられる嘲り、口中のものの臭い、そんなものはない、と思おうと雪也は努力した。
大人の男が、まるで新しい玩具を手に入れた幼児のようにはしゃぐ姿に心底ゾッとする。しかもその新しい玩具とは自分で……。
やりすごせ。
何も起きてなんかない。
こんなことくらいで僕は傷ついたりしない。
「すっげえ、さすがゆきちゃん、喉マンコも超優秀。根本まで入った…っ、窒息、すんなよ?」
奈良崎の姿を、頭の中で真っ黒に塗り潰した。
欲情のまま軽薄な口調で雪也を辱めようと奈良崎が発する言葉は全部、ザーザーと耳障りなノイズに変換しようとした。
「あれ?ケツ硬えな?もしかしてゆきちゃん、ここ何年も使って無いとか?え~、謎に色気すごいからてっきりパパのおチンポ毎日咥え込んでんだろって思ってたのに」
「……は?」
あまりの侮辱に、それも大切な家族に対しての侮辱に、ノイズへの変換ができなかった。
「クソが。ゴミ野郎っ!ぐ、グエェ……」
罵る言葉も苦痛に遮られる。
「あー、せま、そういえば俺オスガキ初だわ。ゆきちゃん、ゴミ野郎のハジメテもらってくれてありがと~」
最悪だった。
黙々と貪るのであればまだやり過ごすのも簡単だっただろうに、奈良崎は雪也の聞きたく無いことばかりを突きつけ、怒りを引きずり出すことで思考の逃避を許さなかった。
両親を侮辱され、努力で作ってきた筋肉を笑われ、その上で更に、逆らえば母の過去をバラしてやると仄めかす。
悔しさで、怒りで、嫌悪で、更にはささやかな幸福を失いそうな恐怖で、雪也はパニックになってしまっていた。
散々弄ばれて痛む腹を抱えて帰宅すると、風呂場に直行して体を洗う。
多少賢いからとはいっても、雪也はまだ、大人の薄汚い欲望の捌け口にされてしまっただけの無力な幼いこどもにしか過ぎなかった。
放課後の図工教室で、奈良崎の車の後部座席で、休日には奈良崎の自宅で、犯される。
回を重ねる度、奈良崎がどんどん自分への執着を強めて行くのが、雪也は耐えられなかった。
一か月も経つと、二人きりになった途端まるで恋人同士でもあるかのように甘ったるい声色で名前を呼んでくる奈良崎のことが、心底気持ち悪く、もうただただ奈良崎の存在そのものが苦痛だった。
「ゆきちゃん、俺本気になっちゃった。結婚しよ~よ!もちろん今日が初夜な。」
ふざけた物言いをしながら雪也に大人の女性用の淡いピンクのベビードールを着せ、どぎつい紫色の男性器を模したバイブレーターを挿入しながら写真や動画を撮影する。
ひとしきり遊び終えると、奈良崎は部屋にある90インチの大型壁掛けテレビに映像を映した。いつもは今しがた撮影したものを見て、興奮してもう一度犯すのが通例だったが、今回は違っていた。
『ぎゃあああああああん!』
まるで赤ん坊のような、幼児特有の悲鳴。
『雪ちゃんの赤ちゃんケツマンコに大人チンポが入ってくよ』
低く、しゃがれた汚らしい男の声には聞き覚えがあった。
ぞわ。全身に怖気が走って雪也は自分の目をきつくつぶった。本当は手で瞼を覆いたかったが、ニヤニヤと笑う奈良崎が雪也の両手首を掴んでいる。
「見てみてゆきちゃん、覚えてる?多分これが雪ちゃんの初めてでしょ?4歳くらい?すでに謎の色気wwwすげえよね、ゆきちゃんてさ、男に犯されるために生まれて来たんじゃない?」
頭の血管が、切れたかと思えた。
「初回で輪姦とかマジ鬼畜すぎて滾るわ~、ほらほらコレ、この謎の注射、肛門に射ってるやつ。これって何射たれてんのかな?麻薬?麻酔?」
「止めて」
「ケツ出せ。あ~、この頃のゆきちゃんとヤりたかったなぁ~、てかこのビデオに混ざりてえ」
「せんせい、もういやだ。こんなのむりだ。もうころして。」
「ヤダよ、だってゆきちゃん俺の嫁なのに。永遠に生理来ないし、なーんも考えずに中出ししまくれてホンっと最高の子どもオナホだもん。」
「じゃあ、せんせいがしね。」
「え~、ひでえ、先生泣いちゃうぞ。」
「しね」
「ふーん、ゆきちゃんいつもは時間が過ぎるのをただ待ってるだけ、って感じだったのに。流石にトラウマガン掘りされたら正気じゃいらんなくなるんだぁ?じゃあ、3本しかない貴重な幼児ゆきちゃん輪姦ビデオ、これからは毎回流しながら先生とラブラブえっちしよ」
「しねっ、しね、しね!!」
喉が切れそうな声で叫んだ雪也の後頭部を、奈良崎は背後から手加減なしに思い切り殴りつけた。
重い衝撃と一瞬後に激痛が襲う。
雪也が殴られた場所を思わず抱え込むと、奈良崎は雪也の細い腰を掴み容赦なく突き上げる。
「グェエッ……!」
内臓を強く圧迫され、踏みつぶされたカエルのような声で呻く雪也の肩、背中、手の甲の上から後頭部を奈良崎は何度も何度も殴打した。
殴られた箇所は一気に赤く腫れ、内出血していく。
「あー、やっぱ殴ると締まるねえ。大体さあ、おまえみたいな精液便所が、何表側で生きていこうとしてんの?いい加減、身の程知ろうぜ、ゆきちゃん。」
「……ぐうぅ」
「は~、つまんねえ体しやがって。いっくら弄ってもピクリともしねえふにゃチン、何の為についてんだよ。お前の価値は穴だけだな。」
あまりの恥辱と暴虐に、心身が砕けそうだった。
いや、もうすでに粉々だった。
雪也は、帰り道について考え始めていた。頭の中でなるべく階数の高い、かつ侵入可能な建物をピックアップする。
もう、何も考えたく無かったし、これ以上何を見るのも、されるのも耐えられないと思った。
「そーいえば、ゆきちゃんて一年にちっちゃい弟いるんだっけ?可愛かったな。お兄ちゃん守るために俺の足蹴りに来たぞ」
「……?!」
「ゆきちゃんを守るためだったらさ、ケツマンコ使わせてくれる方がまだ役にたつのにな、ほんとカワイ過ぎて勃起したわ」
奈良崎の軽口が、図らずも雪也の心を生へと繋ぎとめた。
まーくんに、気付かれてた?
まーくんが、ぼくを、まもろうとして、こいつを蹴った?
冷え切った心臓から、熱が噴き出してくる。
僕は何をやっているんだろう。こんなゴミみたいな人間にオモチャにされて、そのまま負けて死のうだなんて。戦わずに逃げるなんて。
僕は戦わなくちゃいけなかった。そのためにずっと、強くなろうと努力してきたんじゃないのか。
「先生、酷いこと言ってごめんなさい……もう、たたかないでぇ」
意識して弱弱しい声で、奈良崎を上目遣いで見つめて言う。
雪也の媚びるような仕草に奈良崎は思わず口笛を吹いた。
「へえ、ゆきちゃん、やっと自分の立場をわかってくれたの?いいねえ、媚び媚びなのも想像以上に可愛いな~」
「痛いのは、イヤ」
「うんうん、ごめんねえ、じゃあコレ射精(だ)しちゃったら今日はもうおしまい」
奈良崎からの口づけに吐きそうになるのを必死で耐えながら、雪也はやっと、この男をどうやって始末するべきかを考え始めた。
つづく
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