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刑事事件

 土井拓実は、彼女に会いに三鷹に来ていた。  高円寺の塾もどきは意外と快適で、実家に帰りたくなんかはなかったが、彼女と会う機会が減ってしまって昨夜寂しいと言われたものだから、彼女の住む三鷹にやって来た。  大学に入ってから、他の大学とのサークル交友会で出会った永井莉乃とはもう3年目の付き合いだ。  大学を出たら一緒に住んで、ゆくゆくは結婚なども考えるほど真剣な交際をしていて、会えなくて寂しかったのは拓実も一緒だから今この場ではなんで会わなかったんだろう、と疑問さえ湧く。  しかも今日も一人暮らしの彼女の部屋に行くと、自分たちはきっと離れがたくなる。泊まるなんてことになったら高円寺の塾を一晩空けることになることを無理だと思ってしまった。  そう思う事自体も不思議に思ったが、それでも今日は彼女指定のカフェで会うだけにしようと、そこへ向かっていた。  駅を出て彼女の住む部屋の方面へ向かい、駅と彼女の部屋の真ん中辺りのカフェへ自分の足で10分くらいかなと踏んで駅から歩いていた。  少し車通りが激しくなった道路へ曲がって歩道を歩いていると、遠くに彼女の姿が見えた。  約束の時間は午後2時半。時計はいま2時だった。彼女もまた少し早く来てくれたのだろう。  まだこちらに気づいていないようだが彼女が見えたということは目的のカフェも近いということか。  拓実はー先に着いて待っててあげようーと足を早めた時だった。  歩道の道路側、植樹の下に一人の男が電話をしているのが目に入った。  見たこともない男だし、他人が道端で電話をかけていようと普通なら関係ないことで通り過ぎる事でもある。  だが拓実はその男を見て足が止まってしまった。 ー怖い…ー  身体が恐怖に震え出し、両手で己を抱えてひざまづく。  通りすがりの人が不思議そうに拓実を見ていくが、拓実は恐怖で動けない。 ーあいつに殺される、逃げなくちゃー  そう思ってやっとのことで立ち上がり、周りを見回す。  周囲の…雑多なビルに入って姿を隠さなければ…見つかれば殺される…隠れなきゃ…隠れなきゃ、カクレナキャ  すぐ右にあるのは蕎麦屋。時間的に昼休憩の時間で暖簾はかかっていない。  その先を見るとラーメン屋。入ったところで姿は隠せない。くそっどっかビルはないのか…隠れられるようなビルは。見つかったら殺される!  ヨロヨロと歩き出し、ラーメン屋のその先を見るが、そこまで行ったら『アイツ』に見つかって俺は… 言い知れぬ恐怖が全身を駆け巡り、「アイツハキケン、コロサレル」の思考が頭にいっぱいになっている。  だが前方から来る彼女が目に入った時に思考は一変する。  莉乃!来ちゃだめだ!そいつに近寄っちゃだめだよ!莉乃!  叫ぼうにも声が出なくて、恐怖で震える足はもつれて歩きにくい。でも、莉乃を守らなければ…莉乃があの男に近寄らないようにしなくちゃ。近寄ったら莉乃も コロサレル  その瞬間拓実の中で意識が変わった。  莉乃に危害を加えさせない。俺が…莉乃を守らなきゃ。  湧き上がった血は恐怖を払い、よろけていた足に力を与え拓実は男に向かって走り出していた。  道路に立って電話をしていたのは、興信所ワンネスの所長、栗山省吾だ。  栗山は拓実のことはもうとっくに気づいてはいたが、取り敢えず泳がせてどこかの場所に落ち着いたところで声をかけようと思っていた。  目の前を通り過ぎて、どこかへ落ち着くならよし、少々の尾行も覚悟はしてその木の下で待機をしていたらスマホが鳴ったのだ。 「はい栗山。持田かどうした?久しぶりじゃん」 『今知り合いから回って来たんだけどな、今お前のとこに20歳(はたち)前後の学生の捜索依頼来てる?来てたら、その相手を見つけても顔を合わせないようにっていうんだ。そこ重要だからって言われてさ、取り敢えずお前に電話した』  電話の主の持田は、高田馬場で探偵をしている友人だ。  その持田から急にそんな事を言われたが、ターゲットはもう目の前にいて後は保護するだけなのだ 「は?俺今ターゲット目の前にいて、どっか落ち着いたら声かけようとしてんだけど」 『じゃあそれやめたほうがいいぞ。すぐにやめて顔見られる前にそこからどけ』 「なんでよ。今目の前に来ようとしてるんだって」 『緊急なんで掻い摘んで言うな。話によると、そのターゲットは俺らの顔見たら恐怖で逃げ出して、逃げるためにビルから飛んだり、交通量の多い道路に飛び出して事故に遭ったりするんだと。調査対象者を守るなら今すぐそこを去れ。良いか、これは事実らしいから…』 「うっ うあっなんだおまえ!なになに」 「殺させねええええええ!お前は誰もころせねええ」  持田はすぐにボイレコを起動した。 「おい!栗山!どうした!」 「やめろなにしっあああっひいいいっ」  車の激しいブレーキ音に続き栗山の悲鳴が聞こえ、バンッという音の後にメキメキッと言う何かが砕ける音が聞こえた。その直後に女性の悲鳴や男性の事故だ!の声。  持田は座っていたソファを立ち上がったまま、何もできずに佇むしかできなかった。  時臣のスマホが鳴ったのは午後4時半だった。  見てみると先日連絡を交換しあった結城だ。 「はい、どうしまし…」 『篠田、事件が起きたぞ』 「え?」  急に言われては戸惑う。 「事件?なんかあったんすか?」 『この間話してくれた話があるだろ、変な塾もどきに行ってる学生と探偵や興信所の関係の話な、あれに関する事件がさっき起きた』 「え?一体何が…」  自宅のデスクで、今回の件を一応まとめておこうとパソコンに向かっていた時臣は、くるりと椅子を回してダイニングテーブルの唯希を見た。  唯希はボイレコを準備し時臣のデスクまできて、スピーカーに切り替えたスマホの脇にそれを置く。 『さっき三鷹の路上で事故があったんだがな、目撃者の情報だと学生風な男性が歩道の端で電話をしていた男性の胸ぐらを掴んで『殺させねえ!』とか叫びながら道路に引き摺り出し、そこに丁度きた2tトラックに諸共撥ねられたらしいんだよ』 『学生風』の男が『男性の胸ぐらを掴んで』の辺りで今までの事案とまるで違うので時臣は 「ええ、何かその二人に怨恨とかがあったとかですかね」  などと呑気に言ってしまったが、結城の返答は 『そうじゃねえんだ。その道路に引っ張り出された電話をかけてた男の持ち物調べたらな、その男興信所の所長だったんだ』  時臣は唯希と目を合わせた 「それって…」 『ああ、この間篠田(お前)に聞いた話に似てるだろ。どうも立場は逆だが、でももし話に聞いていたそれだとしたら今回は殺人未遂で刑事事件になる…あの話に警察が入るぞ』  結城はそう言っているが、まだ今回の『塾』の件の一部だとは言い切れない。  たまたま興信所に追われるようなことをしていた学生かもしれないし、『殺させねえ』と言う言葉も、怨恨の線は消えない。 『殺〔させ〕ねえ』はちょっと気にはなるが。 「結城さん落ち着いてください。今日の事件はまだこの間話した件に入るかは判りません。それでその学生風の男の身元は判ったんですか」  結城とてよく考えたらわかるはずだが、先日話した今回の件がよほど気になっているらしい。 『名前は土井拓実21歳。杏森(きょうしん)大学の3年生だ。持ち物もポケットにスマホと財布以外はなくてな、財布に学生証と免許証があった。興信所の方は栗山省吾38歳 ワンネスという興信所の所長だ』  唯希は結城の言った名前や学校名及び会社名等をメモに走り書きをしている。  学生の方はそこまで身軽だとパソコンは持っていないだろう。高円寺に行っている学生と今は判別がつかない。  栗山の事務所にこれから入るだろうから、その時に依頼書が出て来た時にそこで時臣たちが調べている一件にはまることが確定するのだ。 「二人の容態は」 『病院に同行した署員の話だと、土井拓実の方はトラックに跳ね飛ばされて7m先の道路に叩きつけられたらしく意識不明だそうだ。栗山省吾の方は、トラックの下に入り込んでいて右手左足粉砕骨折、側頭部の深い擦過傷で意識はあるそうだが重傷らしい。今緊急で2人とも手術に入ったようだな。どっちも夜通しになると医者が言ってたそうだ』  傷ましい。 「結城さん、学生がかけられていたマインドコントロールは対象者の胸ぐらを掴むなどと言うことは到底できません。対象者から逃げて自分の命すら投げ出すほどの回避行動を起こすんですから」 『じゃあ…今回のはただの怨恨かなんかなのか…?』 「それを調べるのが警察の仕事でしょう。今後栗山の事務所を家宅捜査した時に土井拓実の親からの調査依頼書が来ていたら、その時に今回の一件の可能性になります。そこでまだ可能性です」 ーその時はご一報くださいーとはきちんと付け加えておいた。 「結城さん真面目だから俺らのことも考えてくださってありがとうございます。まずは今回の…どっちが被害者なのかはわからないですが、2人の命を祈りましょう」 「真面目(そう言うこと)でもないんだがなぁ…」  興信所の男が絡んできた事件が起きて、少々年甲斐もなく『あの一件か!』となってしまった感はあったので、内心反省もしてみる。 「あ、それとですね。もしも今回のことが『塾』に関することだった場合もあるので一つお聞きします」 「なんだ?」 「さっきも言いましたが、今回のマインドコントロールは強力な回避行動を伴います。でももしもそれよりも上回って何かがあった場合、土井拓実のような行動に出る可能性はゼロではないかもしれません。少ない可能性ですが、何かそのようなものありますか。なんでもいいです」  電話の向こうは数秒黙り込んだ。  唯希も折っていた腰を伸ばして、ダイニングの椅子を引き寄せてくる。 『ああそう言えば』  結城の言葉に、椅子に座り再びメモと対峙した。 『女が…叩きつけられた土井拓実の側で泣き叫んでいたそうだ』 「女?」 『俺らが行く前に、交番の巡査がそこから離して脇に寄せようとしたが、半狂乱になっていたらしく、婦警を呼んで身を寄せさせたらしい。多分だが土井拓実の彼女なんだろうな。その子はうちの署員が救急車と一緒に向かった車で土井と同じ病院へ向かい、そこで鎮静剤を打たれて今も休んでるとも聞いた』 「そんな半狂乱になる程なら、浅からぬ関係だな」  時臣の脳裏に『殺させない』の言葉が甦ってくる。 「殺『させ』ない…か…これは『誰を』と考えるとこの場合…自分じゃあないよな」  唯希も『殺させない』とメモに書き出し 「まあ、明らかに他者ですよね…そしてここで土井拓実が殺させたくない相手といえば…」 「やっぱ彼女だよなぁ…でもなあ〜」  マインドコントロールが、個人にだけ向けられているものだと思っていたから、自分から|攻撃に転化する方《そう言う風》に展開するものかは今まで無かったことでもあるし、ここでは判断がつかなかった。 「自分が危ないから、彼女も…と思っちまったってことか。で、彼女を守るために自分の衝動に打ち勝って恐怖に立ち向かって行った…と…」  ん〜〜〜。  時臣は唸るしかない。  結城も 『まあ…対応した巡査に言わせると、彼女の方も尋常じゃない取り乱し方だったらしいからな。お互いの思い合いは深かったんだろうとは察せられるな…』  と教えてくれた。  しかしまだ、この事件が時臣たちが調べている一件と関係しているとは今の時点では言えない。  全ては推測の話である。  ともかく土井拓実があの『塾』と関連があることがなんらかの手段で確定すれば、結城が言うように本当に動き出すことになるから。  電話を終わらせて、時臣は富山(とみやま)へと連絡を入れた。午後5時ならもう診療は終わっているはずだ。  今日の三鷹の事件は、まだ今回の件と関係あるかは判ってないという前提で、今回のマインドコントロールは彼女への愛で踏ん張れるものなのかを尋ねた。  その返答は 『篠田君。人の心というのは計り知れないものなんだよ。催眠や洗脳、今回のマインドコントロールがどんなに完璧でもね、何か一つでも譲れないものがあれば、そんなものは効かなくなるもんなんだ』  だった。  解るような解らないような感じだが、まあ…愛が勝つこともあり得るのだろう。

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