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第6話
「すみません、一回この建物から出ちゃったんですけど、買い直しですか?」
彼が出て行って一時間後、戻ってきたスケッチブックの彼は、常設展と企画展のセットになったチケットの半券を差し出してきた。
人の波も落ち着いた午後三時過ぎのロビーには、ショップにいる店員と数名の来館者を除いて、俺と彼しかいない。
朝よりもぐっと傾いた陽射しは、セピア色を帯びながら、館内を温かな光で満たしていた。
俺達は温かな陽光と、それが象る薄い木漏れ日の影が揺れる中、漂い偶然出会ったかのように向き合っていた。
何か早く言わなければ。
そう思うのに、言葉が出なくて、不思議な間が空いてしまう。焦る程に長引く間に、絞り出すようにして「ああ」と声を漏らすと、自分があまりにも情けなくて、穴があったら入りたいと、初めて思った。
「すみません。大丈夫ですよ、常設展の方は終日出入りが可能となってますので、この美術館から退館されたあとも、本日の日付けでしたら再入場は可能となっております。ただ、企画展は一度展示室から出たら、再入場ができないものとなっております」
しかし、一度声が出てしまえば全ては簡単な事で。俺はいつも通りの美術館職員の仮面を卒なく被ると、そう伝えた。彼は眉を大袈裟に下げて、良かったァと呟き、半券を握り込んだ。
常設展の入場料は一回一日七百円となり、バカみたいに高いというわけではないが、彼のように毎週来る場合は、少し話が違うかもしれない。
俺は受付の机に置いてある料金表に目を落とすと、そうだ、とある項目に目が留まり顔を上げた。彼は「ありがとうございます」と去ってしまう直前で、俺は思わず、
「あの!」
といつもより声を張った。彼は少し驚いたように目を丸くすると、目を瞬かせて俺を見つめ返してくる。一瞬だけ、時が止まるという感覚を味わったかもしれない。
「あ、申し訳ありません、もしご迷惑でなければ年間パスポートなどご購入いただいた方がお安く済むと思いますが……、と思って」
自然と語尾が小さくなっていくのを堪えながら、俯き加減になっていく自分の頭を重く感じながら、そう伝える。もしかしたら、迷惑かもしれない、今だけ通っているだけかもしれない、余計なお節介かもしれない、様々な否定が頭の中を飛び交う。
「え! そんなのあるんですか?」
顔を上げると、
「知りませんでした!」
そう言いながら彼は初めて見ると言わんばかりに、ずっと受付カウンターの冷たいデスクの上に放置されている料金表を覗き込む。「うわ、もっと早く気づけばよかった~」と、悔やむ声を出しながら、長い指先で年間パスポートの料金を指さした。
「自動販売機の方では、ご案内がどうしても小さくなってしまい……もっと早くお声掛ければ良かったですね」
「いえ、教えて頂けただけで十分っす。会員になります」
はっきりと告げる彼に、会員登録の用紙と、いつも胸のポケットに収めている自身のボールペンを差し出すと、彼はスケッチブックをカウンターの隅に置いて、必要事項を上の段から順に書き記していく。
――續山修司、二十三歳……。
珍しい名前だ、俺の五つ下か……。
埋められた項目を眺めながら、何とも言えない幸福感のようなものが、胸を満たしていく。この名前を口に出したいと、舌に乗せて呟きたいというささやかな欲求が高まってくるのを感じる。
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