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第7話

 こんな事は初めてだ。  俺は高鳴る胸を抑える代わりに、息を止めてみたり、深く呼吸をしてみたりと手を尽くした。 「つづきやまさん、って読むんですね」  しかし、欲求を抑え込むはずの理性が負けて、俺は半ば本能的に、彼の名前を舌に乗せていた。舌で飴を転がすような甘やかさが、心臓の表面をしっとりと満たす。 「はい、珍しい苗字だって良く言われます」  彼はそう微笑むと、住所と電話番号、生年月日を記入していく。筆圧の軽いさらりとした軽やかな文字が、彼の詳細を告げていく。きっちりと不備なく書き終えたところで、記入用紙を差し出され、俺はをれを受理し、引き換えに厚紙で作った会員証を差し出す。 「本日はもうチケット購入されてますので、明日から一年間、来年の七月まで使えますので、是非ご活用下さい」  そう言いながら会計を済ませると、續山さんは初めて買ってもらった玩具を眺めるように、瞳を輝かせて、その会員証を眺める。 「なんかいいですね」 「これでいつでもいらしてください」 「はい!」  若々しい返事で頷くと、彼はそれを大事そうに財布の中へと仕舞い込んだ。 「今森さんは、やっぱり絵に詳しいんですか?」  不意に名前を言い当てられて、思わず言葉に窮していると、彼は自分の胸を指先でとんとん、と指して、名札を見たと教えてくれた。俺は自分の右胸にあるネームプレートへと無意識に指を伸ばして、そのつるりとしたプラスチックの小さなプレートの角を指先でなぞってから、 「一応美術大学を卒業して、学芸員の資格を持ってます」  續山さんは俺の経歴と言っていいのか分からない短い履歴に「おお」と目を丸くしてから、脇に置いてあるスケッチブックを手に取った。 「見てもらってもいいですか? 見せる相手が居なくて……」  思わぬ申し出に、心臓が大きく身体の中で脈を打つ。勢いよく流れ出した血流が、頬を火照らせ、己がずっと抱えていた欲求を、外へと押し流そうと荒れ狂い出すのを感じた。  いいのだろうか、俺が見ても。  まるで開かずの扉の鍵を手にしてしまったような、少し恐怖にも似た思いが指先を震わせる。ずっとずっと、あの中身を見てみたいと願っていたのに、いざとなると尻込みしてしまう情けなさがじわじわと滲み出てくる。  それでも、差し出された薄いスケッチブックの誘惑に抗えず、俺は受付カウンターの内側から外に出ると、 「いいんですか?」  と再度彼に確認を問う。勿論、と頷く彼に、初めてそのスケッチブックを手にしてみると、それは俺の知っている、慣れた重みを持っていた。 「俺、絵とかやってる友達もいないし、こういうの見せる相手も、こういう話できる人もいないし……」  そう言葉尻を小さくして、男が健気に呟く。俺は厚紙の表紙をゆっくりと捲ると、一枚目に飛び込んできた鉛筆書きのそれに、一瞬にして心を吸い寄せられてしまう。  モノクロの筆跡が描くのは、現在の企画展の中の一枚だった。浮世絵のはっきりとした輪郭と、濃淡を付けてより立体的に描き出す手法が添えてあった。その他にも、誰かの模写から得たキャラクターなのだろう妖怪なども昔の絵柄で書かれていたりと、その表現は多岐に渡り、画面には隙間なく描かれている。  大胆な絵柄もあれば、緻密な作業を要する細やかで繊細な表現もあり、彼の幅広いセンスが伺えた。彼の口ぶりからして、恐らく一人独学でここまで来たのだろう。きっと、描いて描いて描いて……、ずっと一人で絵と向き合い描き続けてきた筆跡が、スケッチブックの中には溢れている。努力とセンスと紛れもない才能が、そこにはあった。  ぎゅっと心臓を鷲掴みにされるような苦しさが、喜びと羨望を滲ませる。 「これ、あの……全部ここで?」  思わず食い気味で彼へと前のめりになると、 「俺、描くの早いんです」  と、少し照れたように、彼が笑った。  残り二枚となった白紙を眺めてから、また一枚目へと戻り、ページをめくる。  何度見ても新しい発見がある絵柄を、俺は時間や仕事を忘れて見入っていた。「今森さん」と声を掛けられて、はっと我に返って顔を上げると、不思議そうに俺を見つめている續山さんが居た。その双眸には緊張とわずかな怯えの色が震えるように湛えられていた。 「ご、ごめんなさい。あまりにもすごいから」 「す、すごいですか……?」 「はい、周りのことを忘れて見入ってしまう程惹かれるものがあります。特に、これ……常設展の絵画ですよね。浮世絵っぽいアレンジを加えている上に、人物が妖怪になっていたり……可愛らしくて」  七枚目のページを捲り当てながら力説すると、ふと気の抜けるような微かな笑い声が聞こえて顔を上げる。續山さんは何が可笑しいのか、込み上げてくるものを堪えるように手の甲で口元を抑えながら、笑い始めていた。  何かおかしなことを言っただろうか、それとも何か気に障ることを言ってしまっただろうか。ふつふつと湧き上がる羞恥と焦りに俺が續山さん? と名前を呼ぶと、彼は「ごめんなさい」と両手を拝むように合わせて頭を下げた。 「俺何言われるかなってすげえ緊張してて……でも、こんなふうに褒めてもらえるなんて思ってなかったから、嬉しいし気が抜けるし……なんかそんな自分が可笑しくて笑っちゃった」  誰かの目に触れさせる事なく、綴られてきたものを、初めて人の目に晒したという彼の純粋な反応に、思わず己の内側からも喜びが溢れてくる。誰かの自信になる言葉を掛けられたという事、そしてその言葉を一番に届けて喜んでもらえたという事実が、胸を熱くさせる。  それと同時に、俺も自分の美大時代を思い出した。芽吹く事はなかった願いだけれど、それでも時折かけられた言葉の数々や、自分の表現したものに対する視線。あの熱い気持ちが、喜びとともに滲み出す。 「……実は俺も、昔絵を描いていました」  つい口から、当たり前のように言葉が滑り落ちてくる。要らないことを言ったと、慌ててスケッチブックに下がっていた視線を上げると、目の前の彼は一層目を輝かせて、 「え! マジすか? 今は」  そう身を乗り出してくる。 「い、今は描いてません……」  そう答えると、いきり立っていた肩が降りて、あからさまな落胆を表す。申し訳ない気持ちと、俺が描いても……という卑屈な気持ちが胸に蟠った。 「あの、また見てもらってもいいですか?」  また俯いてしまっていた顔をあげると、續山さんが嬉しそうな笑みを湛えたまま、まっすぐとこちらを見つめていた。俺が勿論、と頷くと、彼は深々と頭を下げて、その場を後にした。

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