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第8話
「今森さん」
あの日以来、顔を合わせるたびに彼は俺の名前を呼んでくれるようになった。明るい館内に響く彼の抜けるような爽やかな声音は、俺の気持ちをはっとさせる柔らかい風のようだ。
「これ、新しいキャラクター描いたんですけど、見てもらえますか?」
彼は小さなクロッキー帳を見せてきた。
俺は受付カウンターの外に出ると、それを受け取り、中を覗く。独創的で可愛らしい、絵本にでも出て来そうな可愛らしい怪獣やお化けが描かれていた。色付けはされていないものの、何度も線をなぞり、形を成したそれの色々な角度からイラストが、踊るように紙の上に描かれている。
これまで何度か絵を見せてもらっているが、どうやら彼は、写実的な絵をヒントに、イラストを描くことが好きなようである。デフォルメ化された人物や絵画に付け加えられる、彼なりの世界観。それらは俺が今まで学んできた西洋画や日本画とは少し違うものではあるが、彼には才能があることに間違いはない。
何枚かページを捲りながら、
「續山さん、イラストの学校か何かに通われているんですか?」
そう質問すると、彼は首を横に振った。
「フリーターです。学校行く金ないし、全部独学です」
やっぱり才能と努力だな、とふいに彼を羨ましく思った。
俺も大学は美大に入り、強く芸術家の道を目指していた時期があった。絵を描くのが好きで、何時間でもキャンバスに向き合っていられた。
けれど、才能というものは残酷で、努力だけで報われるものではないと思い知らされた。
――アルファであるのに才能がない。
そう追い打ちをかけるように、第二性に圧力を掛けられ、俺は筆を折った。
不意に大学での苦い思い出が胸に去来し、気持ちが沈みそうになると、
「今森さん?」
と呼ばれて顔を上げる。
「すみません。續山さんの絵は可愛らしいので、イラストや絵本で見てみたいですね。カラーも」
そう言いながらクロッキー帳を閉じて、彼に返却すると、
「色付きって描いた事ないかも」
そう呟いた。
「そうなんですか? 是非、色を塗ってみて、また生き生きしている絵を見せて下さい」
彼は本当に初心者なのだな、と理解しながら、翳った気持ちを追い払うと、彼は腕時計に視線を落とし、
「やば、仕事戻らないと」
そう言いながら、普段は見せない大きなボックス型のリュックを背負う。そこには最近流行りのフードデリバリーの名前が書いてあった。
「今の仕事って、デリバリー系ですか?」
「はい! 俺体力しかないんで!」
そう言うと彼はひらりと手を振って、館内を後にした。俺はそれであの良い身体が作られているのかと納得しながら受付カウンターの内側に回り込む。
「いい筋肉ですよね……」
ほう、と湿った吐息を零す中村さんに「ああ、そうなのかな」と曖昧に返事を濁して、業務の続きに手を付けると、
「どうやって仲良くなったんですか?」
と何度目かの同じい質問が飛んでくる。彼と話すようになって以来、それを目撃した女性職員から、散々その理由を根掘り葉掘り聞かれていていた。俺は深く話すようなことが特になく、「たまたま年パス勧めただけです」と短く返し、質問を適当にあしらっていた。中村さんは「いいなあ」とぼやきながら、彼の出て行った自動ドアを眺める。俺は業務に手を付けながら、彼のクロッキー帳の中で踊る小さなお化けたちを思い出していた。
ユーモアで、愛らしく、人の心にほっとするような明かりを灯すタッチ。
彼はきっといい作家になるだろう。
何となくそんな直観を働かせながら、その裏側で「そちら側」にはなることができなかった自分の影を感じる。
しかし、俺は努力も才能も自ら諦め、そして自身で筆を折ったのだ。今一生懸命時間や力を費やしている彼をうらやむ権利はない。
「アルファなのにな、今森って」
大学生の頃、そう背後から聞こえてきた声が今も忘れられない。アルファなのに、突出したもの、一個もないんだな、可哀相。そんな同情が鼓膜の奥にこびり付いて、未だに自尊心を苛む。
――でも、本当のことだ。
俺は芸術家にもなれない、突出したものもない。何もない期待外れのアルファなのだ。
そう自身に言い聞かせながら、受付カウンターに来た来館者に笑顔を向ける。チケットを受け取った来館者の目が僅かに輝き、スマホを取り出し、チケットを写真に収めるのを眺めながら、俺はそれでもこの仕事が好きだと思う。
他人から見たら何気ない、誰でもできるだろう仕事かもしれないけれど、好きなものの傍で仕事ができることは、きっと恵まれている。
俺は誰かの思い出の一部に、今日もなれたのだと、写真を撮る女の子たちを眺めながら、荒みかけた胸の内側で目を閉じた。
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