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第10話

「え、なんで……」 「このホテルの人にデリバリーで、ついでに喉乾いたから」  そう言いながら彼は手に持っているアイスコーヒーのグラスを持ち上げ、揺らして見せる。 「お邪魔でした……? すみません」 「全然、良かったら」 そう言って隣を勧めると、彼はリュックを足元に下ろすと、スツールに腰を下ろした。長い足を組む姿は様になっていて、思わずどきりとしてしまった。そんな彼は俺の服装を少し珍しそうに眺めてから、 「誰かと待ち合わせですか?」  と気を使う。俺はそれを否定してから、少し考えた。素直に言ってしまいたい気持ちと、誤魔化したい気持ちが半々でせめぎ合っている。 「……ちょっと、色々あって」  俺はいつの間にか前者を選んでいた。何故、そちらを取ったのか、自分でも理解できないけれど、自分の不幸さえ、彼と話すきっかけとなればと、ずるい思いがあったのかも知れない。俺もできた人間じゃない。あの場から母を置いて逃げ出すくらいには、狡い人間だ。 「何があったんですか?」  慎重な彼の声音に、言葉が思い浮かばない。どこまで素直に言葉にして良いものか。俺達はただの美術館スタッフとただの来館者の間柄であるのだ。それがいきなり友達みたいに相談なんかして、きっと迷惑でしかない。 「俺で良ければ力になりますよ」  追いかけるように言われて、今決めた事がぐらぐらと彼の優しさに揺らいでしまう。迷いが胸に生じて、言葉が詰まってしまったところでポケットの中にあるスマホが音を立てて震え出した。反射的に取り出し画面を確認すると、母からの電話だった。  戻りたくない。  息を吸うような無意識さで、思わずため息が零れてしまう。けれど、戻りたくないと駄々をこねるほど、俺は子どもではない。スマホの画面の上で、出ようか出まいかと親指をさ迷わせる。すると、そんな俺の指先よりも早く、横から現れた指先が、着信を拒否してしまう。驚いて顔を上げると、 「ごめんなさい。でも、今は出なくていいと思います」  はっきりとそう言い放つ彼は、絵と向き合う時のように真摯で迷いのない眼差しをしていた。真っ直ぐと見ていられない程、意思の強い彼の双眸に思わず視線を伏せると、 「良ければ、出ませんか?」  續山さんが俺の手からするりとスマホを抜き取ると、それを伏せて机に置いた。 「もし迷われている理由がこれなら、今は一旦忘れて、俺に付き合って下さい」  彼は美術館で見せるような笑みを浮かべた。  ――どうしよう。  心臓がどくどくと薄い皮膚の下で忙しなく、胸を内側から叩いている。親に今まで従ってきて、大人になった今も彼らを裏切るような行動はした事がない。それなのに、今になって彼等に反抗するなんて、大人のする事じゃないだろうか。  不意にまたテーブルの上でスマホが震え出す。俺はじっとその振動を繰り返すスマホを見つめてから、ゆっくりと手の中に戻し、親指を画面の上でさ迷わせてから、ゆっくりと着信を拒否にした。 「じゃあ、行きましょうか」  彼がすっきりした顔で笑った。 「はい!」  俺達はスツールから腰を下ろすと、店を後にした。

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