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第12話

 あの夜、先に勝手に帰ってしまったことを怒る家族は誰もいなかった。母だけが「心配するから、体調が悪くなったならすぐに言って」と声を尖らせていたが、兄達や父からのメッセージや電話はこちらに飛んでくることはなかった。あの三人に、俺に対しての興味がないという事は、元から知っていたので、連絡がないことを不思議とは思わなかった。  やっぱりな、という寂しさだけが、何となく胸の内側に靄を立たせていたけれど、それもいつものことである。大人になった今でも気にしていしまう俺の方が、どうかしている。  俺はあの夜のことを思い出しながら、僅かな寂しさと一緒に、續山さんのバイクの後ろで過ごしたささやかな時間に、何とも言えない胸の甘苦しい感覚に浸る。 「……今森さん」  不意に声を掛けられて顔を上げると、広瀬君が少し驚いたような顔をして、こちらを見つめていた。 「大丈夫ですか? 顔赤いですよ」 「え、そうかな」  思わず自分の頬にぺたりと掌を当ててみる。手のひらが熱いのか、顔が熱いのか分からない。けれど、身体のどこかしらが熱を持っているというのは分かった。広瀬君はしげしげと観察するかのようにこちらを見つめてから、 「最近夏風邪入ってるみたいですよ」  と普段通りの淡々とした口調で視線を伏せる。どうやら、問題はないと思ってくれたようだ。 「へえ、そうなんだ」 「喉に来るらしいです」 「うわ、喉はやだな。喉痛いのってすごくつらいよね」  幼い頃の喉風邪の記憶が、うっすらと蘇ると、僅かな不快感に眉が寄ってしまう。喋るのも食べるのも辛いあの感覚。 「今森さんってかわいいですよね」 「急だね。そんな事ないよ」  これは褒められているのか、それともけなされているのだろうか。そんな事を考えながら、新人の広瀬君の手元を見つめる。彼の手には次回の展示会に関するパンフレットの束があった。俺はそれを一枚抜き取る。 「次は近代イラストレーターの展示会。……うちの美術館って本当に何でもやりますよね」  呆れたような口調だが、その反面広瀬君の目元は穏やかにパンフレットへと落ちている。表情の薄い子ではあるが、きっと楽しみなのだろう。眼差しがそう言っている。  それが何だか微笑ましくて眺めていると、 「今森さん」  耳馴染みのある声がして、思わず心臓が跳ね返る。脈がゆっくりと加速するのが分かった。静まれと言っても、アクセルから足を離してくれないみたいに、薄い皮膚の下で鼓動を打ち鳴らす。  現れた彼は、片腕にはいつも通りのスケッチブックを抱え、デニムのポケットからは白いプラスチックの筆箱を覗かせていた。そう言えば先日、鉛筆が尖りすぎててポケットに穴を空けてしまったと言っていたことを思い出す。 「筆箱ちゃんと買ったんですね」  そう告げると、彼は気付いたようにポケットから筆箱を取り出して、 「一応。今森さんにも言われたしね」  何か悪戯でもしたかのような幼い仕草で、肩を竦めて笑う續山さんにつられて、俺も笑ってしまう。  ――あの夜の日以降も、俺達の関係は何も変わっていない。ただの美術館スタッフと来館者であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。あの日のお礼に食事でも誘おうかと迷っていたが、何となく伝えそびれたまま日にちだけが過ぎ、俺の中でだけ、真新しい記憶のままあの夜の出来事が残っている。  續山さんは、何か思わないだろうか。  それを知りたい気持ちと、今の心地良い関係を壊してしまうかもしれないという怖さ半分で、なかなか踏み切ることができない。大学生の頃なら、軽くお茶にでも誘えていたのに、年齢を重ねるにつれて、対人スキルが弱くなっている気がする。 今日も口の中で言いそびれになるだろう言葉をあぐねている内に、彼はそれじゃあ、と軽く手を振って常設展示室へと足を向けてしまう。俺はその手に手を振り返して見送ると、ただ彼が消えるまでその背中を見つめていた。 「……今森さん」 「なに?」 「あの人の事好きなんですか?」  直球で投げられる言葉を一瞬理解できずに、思わず広瀬君を見つめてしまうと、 「あ、やっぱそうなんですね」  と、彼は深く納得したように頷いた。 「大丈夫、誰にも言いませんし黙っときます」 「俺まだ何も言ってないけど……!」 「え、違うんですか?」  真っ直ぐな瞳に見つめられて、思わず否定する言葉が咽喉の奥へと引っ込んでしまう。自分の気持ちを否定することは、意外と難しいことなのだと、改めて思い知らされた気分だ。 「大丈夫ですよ、あの人オメガでしょ。合うんじゃないですか?」  広瀬君はそう言いながら、薄く笑みを浮かべる。 「なんでオメガって分かるの?」  俺が訊くと、彼は難しい難題にぶつかったように眉を寄せて首を傾げると、低く困ったように短く唸った。 「俺ベータですけど、……なんつーか、やっぱ何となく匂いっていうのかな、気配? みたいなものは感じるんですよ。アルファが持つ独特な威圧とかね」  彼はそう言うと、 「でも、今森さんからの圧? そう言うのは割と薄めです」  そうはっきりと、慰めではない感想で、俺の心を撃ち抜いた。 それはやはりアルファとしての魅力というか、第二性としての何かが足りないという事だろうか。  先日の苦い家族との思い出が胸に浮上しては、はっきりと残像を残して消えていく。 「だからですかね、俺は今森さんの事好きです。こんな関わり易い人いるんだ、って驚きましたし」  今までのアルファのイメージが払しょくされた気分です。広瀬君はそう言いながら、少しだけ笑って俺を見た。その眼差しには揶揄いなどではなく、彼らしい真っ直ぐな好意があった。 「……褒められているのかどうか、わからないな」  俺がそうやって誤魔化すと、広瀬君は「褒めてますよ」と主張してその場を柔らかくいなし、業務へ向かう眼差しへと変えていく。俺もまた今日のスケジュール表をタブレットに映し出し、昼以降の業務の変更点を確認した。  今日は会議が三時から三十分ほどあって、それ以外の休憩回しに問題なし、午後の欠員もなし……。  そう確認したところで、瞬きと同時に視界が霞む。視界を刷毛で吸ったように世界がぼやけて、思わず目を擦ると、ぐらりと目の前が突然回転するかのように危うく揺らいだ。まるで突然サーカスの大玉に乗せられたように、バランスが崩れる。  ――なんだこれ。 「今森さん!」  広瀬君の声が聞こえて顔を上げようと思うのに、身体の何処かに力を入れると、胸の奥から重苦しい何かがせり上がってくるような感覚に襲われた。動いたらだめだ、そう直感的に感じて、俺は床に両手をついたままその態勢を保った。  遠退いたり近づいたりしながら、床を幾つもの足音がばたばたと走り回っているのが聞こえる。人の足音がタイルの上を走っていく。  どうしよう、目が回る。  不安と今までに生じた事のない身体の異変に、かちかちと奥歯が震えて鳴るのが、頭の中に響いた。 「今森さん!」  不意に聞こえた声に、身体が反応する。顔を上げようと反射的に身体を動かすと、俺はそのまま力尽きた様に床へと倒れた。自分の身体が言う事きかないという恐怖と、このまま意識をうしなったら、もう二度とこの世へ戻って来れないのではないかという恐怖に、身体の奥が震える。  なのに、現実が遠ざかっていく。  どうしよう。繋ぎ留めたいのに、やり方が分からない。續山さんの声が聞こえる。  そう思った瞬間、意識がふっつりと途切れた。

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