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第13話
初めて意識をなくすという体験をしてから、三日が過ぎた。俺はあの後救急車で近くの病院に搬送され、身体の隅々まで検査を行ったが、何か異常が見つけられる事はなく、貧血か疲労ではないかという安易な診断を受けて退院した。しかし、貧血を起こした事など、人生で一度もないし、仕事は好きでストレスを抱える程の責務を負わされているわけでもない。一スタッフとして、当たり前の緩やかな日常を、平々凡々とこなしているだけだ。人間関係も家族を除いては円滑だし、文句などない。
診断結果に不信を抱きながらも、唯一心配をしてくれた母からの「一度家に帰ってきたら?」という誘いを丁寧に断り、入院一日を経て帰宅した。それと同時に職場から少し休んだ方がいいと出された有休を有り難く頂戴する事にして、俺は理由の分からない問題から目を逸らすことにした。医者が分からないことを、俺が分る筈もない。
休館日を含めた四日間を休む間、夏休みを貰ったような気分で(頻繁に外に出る事は出来なかったけれど)ベランダ傍で本を読んだり、映画を好きなだけ観たりと過ごす中、俺は時折やはり、續山さんのことを思い出していた。
職場の人達は彼を気遣わせるようなことを、言ってないだろうか。そんな不安と、彼の描く可愛らしいイラストたちが見たいと思った。
そんな事をぼんやりと考えながら、彼の熱意を遠くに感じて感化され、二日目の朝、何となく先の細いペンを持ってみた。丁度良い紙がなく、鞄を漁って見つけたレシートの裏の空白に、微かに胸の内側が湧き立つ。
俺は絵を描くことが好きなんだな、と実感した。
俺はベランダの窓辺に立ちながら、レシートを横長にしてガラス窓に押し当てると、今目の目の前に広がる、見慣れた街並みを模写していく。指先は「絵を描く」ということも、目は「対象を観る」ということも忘れたりはしてなかった。まるで大学生の時のような筆の滑らかさで、街並みを切りと取っていく。消してやり直しのきかないペンの為、パースは取れず、どこか歪ではあるものの、それは愛嬌にも見えた。
絵を描くことは、こんなにも楽しいものだったっけ。忘れていたはずの心の躍動感が、蘇ってくる。
俺は家の中にある小さな紙切れを探し出しては、街並みや部屋の中、育ってている観葉植物のパキラを描いた。
續山さんに見せたらなんて言うだろう。
不意にそんなことを思い浮かべて、胸がときめいてしまう。こんなオジサンが年下の男に対して褒められたいと思っている、この心境が恥ずかしい。けれど、欲求は胸の内で勝手に膨れていく。
ダイニングテーブルに広げたレシートや、紙袋の切れ端などを順繰りにゆっくりと眺めた。
明日は鉛筆と消しゴムを買いに行こう。それから小さなクロッキーも買ってみよう。
初めて絵を描く子どもの頃のような胸の高鳴りを感じながら、次は何を描こうと、手帳のメモ部分を千切る。
指先の上でくるりとペンを回して、俺は大学の頃に良く聴いていた洋楽を口づさんで、紙にペン先を滑らせた。
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