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第7章
キッチンで水を飲んでいた菊池和弥は、突然、ガタンっという大きいな異音に飛び上がるほど驚いた。異音は、今加幹が数分前に入った浴室から聞こえてきたことに、和弥は血相変えて浴室に飛び込んだ。浴室の床で意識を失っている幹の姿に、和弥の心臓は一瞬止まった。
「幹っ……!!おいっ」
シャワーの水に服が濡れるのを構わず、和弥は裸の幹を抱き上げて絶句する。
幹の上半身には、無数の痛々しい爪痕と痣があった。数々の長い爪痕は、どれ程力を込めたものか。傷口が赤く腫れ上がり、化膿した後の痕もあった。野生の獣に噛まれたような深い歯型が多数、拡がっている。獣と戦った後のような生々しい残痕。
微か脳裏に残る、離脱症状に発狂していた時の記憶。過呼吸になりかけて和弥は必死に深呼吸をした。吸っても吸っても足りない苦しみに、目を真っ赤にして下唇を噛んだ。今は、泣く時じゃない。
意識を失っている幹の腕を肩で抱き起すと、必死にリビングに引っ張った。スクールバックより重い物を持ったことがない和弥は、己の無力さを呪う。
漸く、幹をソファに寝かせると、幹の胸に耳を押し当てて呼吸を確認する。今度は、走って浴室からタオルを取って、和弥は幹の濡れた身体を宝物を扱うように丁寧に拭いた。そして、急いで固定電話の受話器をとった和弥は、震える声で幼馴染みの安田陸に電話をした。
+++
濡れた服のまま、ダイニングテーブルの椅子に座っている和弥に、安田陸は近づいた。陸が肩を叩くと、和弥がのろのろと真っ青な顔で見上げた。泣き過ぎて、和弥の瞼が腫れている。
「今加君は、もう大丈夫だよ。君の方が死にそうな顔をしている…」
陸の言葉に、安堵したのか、和弥の大きい目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。目を見開いた陸は、思わず黙り込んだ。数ヶ月間、行方不明になっていた幼馴染みは、別人のように変わっていた。自己中で傲慢な幼馴染みが、誰かを思って涙を流すことになるなんて、陸も想像できなかった。
今加幹は、重度の過労状態だった。いつ倒れてもおかしくない状態で、傷から細菌感染をしてしまい、肺炎を引き起していた。陸は安田家の専用の医者を連れて二人がいるマンションに向かった。点滴と抗生剤の投与で、幹の状態は落ち着いた。
涙が止まらない和弥の頭の上に、陸は優しく手を置いた。人間の屑のような最低な幼馴染みだが、昔から、和弥は気に入ったものは最後まで執着する性格だった。
ちらっと和弥の右腕に付けている腕時計を見て、陸は小さく笑う。携帯は失くしたと聞いたが、その腕時計だけは絶対に肌身離さなかったようだ。
これから、和弥は人生で初めて、命を差し出しても絶対に手に入れることができない……そんな絶望を思い知ることになる。───自分と同じように。それが、哀れだった。
「……幹…は、大学の入試を受けなかったのか」
長い沈黙の後、和弥が訊ねた。祈るような、和弥の震える声。
「───俺もあんまり詳しくないけど、学校では大騒ぎだったよ。今加君なら理科三類は合格確実だったからね。滑り止めは一切受けなかったみたいだから、浪人するんじゃないかな」
淡々と事実だけを陸が伝えると、和弥はぐしゃりと顔を歪めた。何かを察した陸は「……賭けは俺の勝ちかな」と目を細めて優しい笑みを浮かべる。やがて、肩を震えさせて再び悲痛に泣く和弥に、陸は何も言わずにただ傍にいた。
+++
和弥は寝室のベットで眠る幹に、静かに近づいた。赦されないと頭で理解していたが、和弥は震える指で幹の右手に触れた。早く良くなってくれ、そう祈りながら。
不意に和弥は泣いた。
激しく指先まで痛いと感じるこの想い───生まれて初めて知った恋心に、闇に飲み込まれるような喪失感に、悲嘆に暮れる。
最も届かない男。最も好きになってはいけない男。誰よりも憎まれている。誰よりも嫌われている。
こんな、悶え苦しんで気を失うほどの想いが存在するなんて、知らなかった。富も名誉も何も要らない。何も要らない。ただ……[[rb:君>みき]]の心が欲しい。
叶わぬ想いに、胸が震えて切なかった。
ベットの隅で上半身を預けるように寝ていた和弥は、微かに香るコーヒーの匂いで目を覚ました。ベットで寝ていたはずの幹の姿がなく、慌てて起き上がると、和弥の肩に掛けられていた毛布が床に落ちる。幹が掛けてくれた、寝ぼけた脳がそう理解すると、和弥は嬉しさに口元が緩む。
恐る恐るリビングを覗くと、幹が朝食の準備をしていた。和弥に気が付いた幹が、「ご飯食べるだろ」と椅子に座るように促す。無表情だが、幹の顔色は大分良くなっていて、和弥は胸を撫で下ろした。いかにも嬉しそうな態度に気付かれないように座ると、幹が頭を静かに下げた。
「昨日は、面倒をかけた。……助かった。ありがとう」
視界が一瞬滲んだ。和弥は視線を逸らして「別に」と不器用に言い捨てた。幹はそれ以上、何も言わなかった。何故抗生剤があるのか、誰がこの部屋に来たのか、何も聞かずに、手を合わせて食事を始める。和弥も釣られて手を合わせた。幹が作って、幹と一緒に取る朝食は、世界で一番贅沢なひと時に思えた。この味以外、もう食べれなくなったかもしれない。
暫くして、固定電話が鳴って幹が出た。大藤祥一から電話に、幹が少しだけ笑ったのが見えた。その途端、楽しい気分が一瞬で消え去り、制御不能な感情で和弥は、テーブルの上の物を全て腕で振り落とした。
「あんた、何が気に入らないか知らないけど、怒る度に朝食を台無しにするのはやめてくれ」
「……っ」
幹は冷めた眼差しで和弥を見下ろすと、溜め息をついて部屋を出て行った。
何をしたいのか、何を考えているのか、自分自身わからなかった。コントロール出来ない自分の感情が暴走している。嫌われたくないのに、逆の態度をとってしまう。だけど、どんなに短気で感情的でも、和弥にはもう「出て行ってやる」と言う言葉は死んでも言えない。言ってしまえば終わりだ。
薬物依存症から立ち直った和弥は、もう正常に生活出来る。出て行く、と言ってしまえば、いくらお人好しの幹でも、どうぞと言うに決まってる。
時々、離脱症状を遥かに超えるこの苦しみに、逃げ出したいと思う時がある。再び薬物に手を出せば、幻想の中で自分は幸せになれる。
青い森の中で、自分と幹しか存在しない。幹が優しい笑みを浮かべていて、自分は死んでもいいぐらいの幸福の中で、幹に触れる。
そんな一刻の虚しい幸福、一瞬でもいいから、感じたい。だけど、薬物依存症で廃人になった自分を救ってくれた幹を思い出し、やるせなくなって俯いた。まるでナイフで刻み込まれたように、和弥の爪痕が残っている幹の背中を見ると、泣きたくなる。
床に散らかっている食べ物を、そっと拾って口の中に入れた。何故、自分は床に落ちている食べ物をわざわざ拾って食べているのだろうか。汚い、と思う気持ちは微塵もない。
誰か、助けて。毒のように体を蝕んで行く、この苦しみから……助けて
震えながら和弥は床で膝を抱え込んで顔を伏せた。
これが罰なのだろうか。
+++
3月28日、和弥は久しぶりに外出した。世の中、春休み期間中なのか、平日の昼に関わらず、街は人で溢れていた。1ヶ月前まで頻繁に使用していた質屋に行くと、和弥は腕時計を差し出した。中年男が鑑定の為にその時計に触れようとした時、咄嗟に和弥は掴み戻した。「売るの、売らないのか」と嫌そうに聞かれ、深呼吸して再びその腕時計を差し出した。
その腕時計は、幼い頃、母が死んだ日に父親から貰ったものだった。母が長年使っていたスイスの高級ブランド品の腕時計だ。薬物依存症だった時、どんなに薬物が欲しくても、和弥はこの腕時計だけは売らなかった。
物を大切にしない和弥の唯一の、宝。
その宝が鑑定されるのを無表情に見つめて、ふっと考える。
父親がいなかった幹も、きっと母親が全てだったに違いない。母親がいない和弥と同じように。なのに、自分はどうしてあの時、理解出来なかったのだろうか。醜いバケモノには、人間の心があるはずないと思っていたからだろうか。
あの日、和弥の卑怯な罠に嵌った幹の母親が、和弥の父親に殴られた時、幹は目を真っ赤にして必死に彼女を助けようとしていた。父親が彼女を侮辱した時、幹はどれ程傷ついたのだろうか。
本当の『バケモノ』は自分だった
醜い心を持った自分が、本当のバケモノなのだ。
長い月日をかけて、漸く和弥はそれに気が付いた。
「本来、凄く高価な物だが、傷が沢山あるし、古いし、買っても3万円だね。どうする?それでもいいかい?」
身分証明書を持たない和弥は、以前から足元を見られている。母親の唯一の形見は、金に計算すると3万円。思い出も、母の面影も含めて3万円。どこかおかしくて、声に出さずに喉を鳴らして笑った。怪しむように顔を覗かせる男に、和弥は「それで構わない」と答えた。
受け取った数枚の札は、昔、父親から貰った毎月のお小遣いより重たく感じた。
街を歩くと、殆どの通行人が和弥に振り返っている。薬物依存症から立ち直った和弥は、昔の美貌を取り戻し、誰もがそれに魅了されて振り返る。過去の自分なら、注目される快感、声をかけられる優越感に満足げに歩いていた。だけど、どれだけ沢山声をかけられても、熱い眼差しを向けられても、何も感じない。
君じゃなければ、意味がない───
繁華街を外れた静かな住宅街に入ると、和弥はヨーロッパ製を扱っている小さい雑貨屋に入った。昔から、和弥は有名ブランドの店にしか入らなかったが、この店だけは特別だった。どこにも売っていない珍しい物が置いていた。
「菊池君、久しぶりじゃね」
店を経営している老人が、和弥を迎え入れた。和弥が軽くぺコリと頭を下げると、老人は驚いたように笑った。高飛車な和弥が挨拶と言えども、頭を下げるなんて初めてである。
「なんか、雰囲気変わったのう」
「……」
老人の言葉に、和弥は壁にかけてある全身用鏡をちらりと見た。スニーカーにジーンズ、カジュアルなコートを羽織っている服装は、昔なら決して着なかった。全て幹の服だ。幹が着ていたものを着る。わけもわからずに、和弥は顔を赤くした。
「服装の事じゃないよ。少し人間らしい表情になったと言いたいだけなんじゃ」
黙り込む和弥に、老人は皺くちゃの笑顔を見せた。
「わしは、今の君の方が好きじゃよ」
少し照れくさかった。
「今日は、何を買いにきたんじゃ」
「腕時計か、ネックレスを…」
「そうか。丁度、良い物が入荷したばかりなんじゃ、ちょっと待ってくれ」
和弥が頷くのを確かめると、老人は奥に消えて行った。時間を持て余し、飾られている商品を眺めていると、ある物に目を奪われた。海外製のアクセサリが置かれている棚の一番上に、十字架のシルバーネックレスがあった。
その十字架には、聖マリアが倒れているイエスを抱き締めている像が彫られていた。何故か心惹かれたそれをライトに当てて見ると、老人が箱を抱え込んで戻ってきた。
「それはピエタじゃ」
「ピエタ?」
聞いたことがない単語を繰り返すと、老人は優しく目を細めた。
「イタリアの技術士が作ったものじゃが、わしは凄く気に入っている。君がそれを見つけるなんて驚きじゃよ」
いつも有名ブランドのオートクチュールの服を纏い、店にやってくる和弥は、珍しい物が好きだったが安い物を嫌っていた。だから、この店に来るといつも一番高い物を買って帰る。
「ピエタはイタリア語で"嘆き"と言う意味じゃ」
「嘆き───」
「十字架から降ろされたイエスを抱き締めながら、聖マリアが悲しみに嘆く場面じゃよ」
悲しみに嘆く
視線を再びそのネックレスに戻す。
「これを下さい」
「え?いいのかい?ピエタなら、他にも有名な───」
「これが良いです」
遮るように断言した和弥に、老人は少し目を見開いたが、やがて孫を見るような優しい笑みを浮かべた。
「君はもしかして、誰よりも見る力があるかもしれん」
意味がわからなく、首を傾げる。
「有名なピエタは他にも沢山ある。このネックレスはのう、愛する女性を失った男が血の涙を流しながら作ったんじゃ」
君がいない世界に、どうやって生きていけるんだ
絶望と紙一重の悲しみに、男は嘆きながら、やがて死んでいく。
「長年、誰一人、男の悲しみに気が付かなかった」
椅子に腰掛けて、老人は和弥を見つめる。
「じゃが、君は見つけた。美しいモノ、高価なモノ、無数のモノが飾られているこの中で、君は見つけた」
長い顎鬚を触りながら、老人は続ける。
「このネックレスは、長い間、君を待っていたかも知れんのう」
包装してくれた小さい箱をポケットにしまって、和弥は歩いた。
今日は、幹の18歳の誕生日だ。
偶然、大藤祥一が先週、幹と話していたのを盗み聞きして知った。金を1円も持っていない和弥は、途方にくれたが、腕時計が残っていることにふと気が付いた。街に出かけ、セックスや誰かを騙せば簡単だが、幹には汚れた金で買ったモノを渡したくなかった。死んだ母親が知れば、恨まれるかもしれないが、和弥にはその大切にして来た形見を売ることしか、他に方法を見つける事が出来なかった。
だが、マンションに戻る頃、段々と憂鬱になった。母親の形見を売ってまで手に入れたプレゼントだが、どのようにして幹に渡せばいいのか、わからなかった。性格上、素直に渡せないし、和弥からの贈り物なんて幹は拒絶するかもしれない。
和弥は、何時間も部屋中を歩き回って渡す方法を考えた。
真剣に焦り出した時、突然インタホーンが鳴って「宅急便です」と男の声が聞こえた。迷ったが、結局、和弥は幹の代わりにサインをして驚くほど大量の荷物を受け取った。
有名ブランド名がプリントされた包みを見た時、和弥は少し切なくなった。何も持たない幹を見ていると忘れがちになるが、幹は今、今加グループの養子だ。
誕生日になれば、世界中の企業や著名人から贈り物の送られる。昔の自分みたいに。誰が見ても目が飛び出すほどの高級品に比べ、和弥のプレゼントは安っぽい、ノーブランドのただのネックレスだ。
暗い気持ちになった時、ある案が突然、脳裏に浮かんだ。
この山のような贈り物の中に、匿名で紛れ込ませればいい。きっと和弥からだと気が付かないはず。少しだけ、不自然にならないように…でも見える場所に、和弥は買ったばかりの包みを忍び込ませた。
気が付いてくれ、そう願いながら。
日が暮れるにつれて、和弥は段々とイライラし出した。もう7時回っているのに、幹がまだ帰ってこない。もしかしたら、祥一と誕生日を過ごすかもしれない。祥一は今日、幹の誕生日だと憶えているし、幹をどこかに誘うかもしれない。例え、祥一が誘わなくても、容姿端麗の幹を誘う女は多数いるに違いない。大切にしていた腕時計を売ってまでプレゼントを買った自分が惨めに思えて、和弥はプレゼントの山から自分のを抜き取ろうとした。
が、突然、玄関ドアが開く音が聞こえて、驚きのあまり床に落としてしまった。慌てて拾うとしたが、リビングに入ってくる足音がすぐそこまで近づいていて、咄嗟に和弥はソファに座ってテレビを付けた。
突然のテレビの音に怪しまれたかもしれない。幹はちらりと見てきたが、和弥は清ました顔でテレビを見つめる。内心、激しく動悸がなっているが。
暫くして、山のようなプレゼントに、少し呆れたような幹の溜め息が聞えた。そっと盗み見するように視線だけ動かすと、なんだか、幹の表情が疲れているように見えた。右手で左顔を抑えている幹の姿は不自然な仕草だが、少し痛々しく映る。
何かがあったのだろうか。
暫くして、幹がテーブルの下に落ちている小さい箱に気が付いた。今日、和弥が買ったモノだ。ドキっと心臓が跳ね上がり、慌てて視線を見てもいないテレビに戻した。
高級ブランド名が入っている贈り物には見向きせずに、何故か、幹はその小さい箱だけを開けた。
心臓の拍動が早まるのが、自分でもわかる。
その時、突然、リビングに通じる玄関からのドアが静かに開いた。驚いた和弥が振り返ると、まるで閉じていた蕾が鮮やかに開くような笑顔を、幹が浮かべた。その美しく、子供のような無邪気な幹の笑顔に、和弥が呆然とすると、二人の男がリビングに入ってきた。
「雪隆さん、潤さん」
抱きつくほどの勢いで幹が二人に駆け寄るのを、和弥は目を見開いて見据える。雪隆、その名を脳で認識した時、和弥は言葉を失う。
目の前にこの男が、幹の養父、今加雪隆なのだろうか。
父親と名乗るにはあんまりにも若い男に、幹は頬に掠めるだけの口付けをされていた。そして、今度は潤、と呼ばれた背の高い男が、反対側の幹の頬にキスする。幹は嬉しそうに、目を閉じてそれを受け止める。幹の笑顔に、和弥は無意識に下唇を噛んだ。黒い感情がじわじわと溢れ出す。
「いつ、日本に戻ってきたのですか。知っていたら、空港まで迎えに行っていたのに」
嬉しさを抑えることが出来ないのか、笑顔が絶えない。
「今日は貴方の誕生日ですよ。私達が忘れるはずありませんよ。お誕生日、おめでとう御座います」
フェロモン垂れ流しの、絶世の色男と言って過言でない潤が、恐ろしいほど似合う100本以上の赤バラの花束を差し出すと、山のような高級プレゼントを見ても笑顔すら見せなかった幹が、嬉しそうに受け取った。幹の養父の今加雪隆も続けて祝福の言葉を述べると、幹は幸せそうに目を細めて「有難うございます」と答える。
もう一度幹の額に祝福の口付けをすると、雪隆が静かに和弥に振り返った。和弥と視線が合う。嫉妬に歪んだ醜い顔を見られたくない和弥が俯くと、気が付いた幹が和弥を紹介した。
「彼は、菊池和弥です」
和弥の名前を聞いた時、雪隆が少しだけ間を置いた後、氷の微笑のような笑みを浮かべて近づいて来た。この世と思えない圧倒的な雪隆の美貌に、和弥は微かに緊張する。
「初めまして。養父の今加雪隆です。彼は嶋村潤です」
養父と名乗られても、どう見ても、雪隆は20代後半にしか見えない。違和感がある。兄弟と名乗った方が信じられるが、幹の無邪気な笑顔を見れば、目の前の男が、幹の大切な人だということだけはわかる。去年、片岡秀がこの養父を侮辱した時、幹は恐ろしい程の殺気を立てていた。
初めて見た幹の激情に、誰ものが背筋を凍らせた。和弥が地獄のどん底に突き落とした張本人なら、命を助けた雪隆は幹にとって最も大切な人間かもしれない。
「ところで、幹が手に持っているモノは何ですか?」
行方不明の菊池家の御曹司の和弥が、何故ここにいるのか、雪隆には興味はないようだ。幹が手に持っている小さい箱を覗き込む。
「誕生日プレゼントですか。…珍しいですね。毎年送られてくるプレゼントには全然興味なかったじゃないですか」
雪隆に聞かれ、幹は和弥からのプレゼントと知らずに、蓋を開ける。
「送り主の名前はないのですが」
「名前がないのですか?」
少し目を細めた雪隆は考え込むように、右手を唇に寄せる。
「ここの店、僕、好きなんです。珍しい、ヨーロッパの田舎町の雑貨品を扱っている所なのですが」
思わぬ幹の言葉に和弥が顔を上げると、幹は箱からネックレスを取り出した。それをじっと見つめる幹の言葉を、和弥は知らず知らず緊張しながら待つと、潤が「ピエタですね」と伝える。
「ピエタとは、芸術ではイエスの遺体を抱いて悲しむマリア像のことなのですが、イタリア語では哀悲、慈愛、哀れみなどの意味があるのです。有名なのは、ピエトロ大寺院に置いてあるミケランジェロのピエタ像などがありますが」
「───嘆きと訳す人もいますよ」
潤の説明に、雪隆が付け足すように言うと、幹が顔を上げた。
「嘆きですか」
「死んだイエスを抱いているマリアは悲しんでいるはずなのですが、何故か殆どの作品では落ち着き掃った静かな表情をしているのですよ」
和弥も雪隆の話に耳を傾ける。
「多分、殆ど"慈愛"を表現しているのだと思いますが…」
美しい微笑を浮かべて、雪隆は幹を見つめる。
「冷静で静かな表情からは絶対に見えませんが、心の奥では悲しみや絶望に嘆いているように、僕には見えますね」
悲しみに嘆く
「悲しみに嘆く───」
声に出して呟くと、幹は急に黙り込んだ。冷たい印象しかなかった雪隆が、少し瞳を柔らかくして幹を見つめ
「ピエタ…なんだか、貴方に似合っていますね」
ピエタ───表情を変えない貴方の心の奥にある嘆き……
「何を言っているのですか」
困った顔をした幹の前髪に、雪隆は静かに触れる。
「もう、夕食は済みましたか」
他人から触れられるのを絶対に嫌う幹だが、この雪隆と潤だけは例外のようだ。微笑を浮かべて幹は「いいえ」と答える。
「では、食事に行きましょう。今夜は貴方が生まれた特別の日です。祝いさせて下さい」
18歳になった男に囁く言葉と思えないが、この嶋村潤が言うとそれは陶酔するほど甘くなる。幹は大きく頷く。
紳士的な潤は、和弥も誘ったが、和弥は首を横に振って断った。きっと自分は入れない。資格もない。短いの静寂の後、和弥は幹達に背を向けて寝室に入った。自分以外の人間と出かける幹の背中を、見たくなかった。結局、和弥は最後まで「おめでとう」の一言も言えなかった。それが悲しかった。
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