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第8章
桜が散る頃、菊池和弥は生まれて初めてのバイトをした。着替えでさえ、世話係がいた和弥にとって、それは未知の世界だった。
特に欲しい物があるわけではないが、大学受験の為に金が必要になった。今加幹が医者を目指すなら、和弥は法学部か、医療経済学を学びたいと思うようになった。幹が患者の診療に集中できるように……幹を近くで守れるようになりたい。幹の第一希望は日本最高峰の国立大学だが、絶対に同じ大学に通いたいと思う。生まれて初めて自ら目標を持った和弥は、水を得た魚のように貪欲に勉強をするようになった。
幹の後を付いて図書館に行き、水分補給や昼ご飯も忘れるほど熱中する和弥に、幹は困ったように呆れたが、何も言わずに毎日弁当と水筒を用意してくれた。
幹は、既に家庭教師のバイトを始めていた。焦った和弥が何十件も回って見つけたのは、小さなカフェの皿洗いだった。身元証明書を持たない和弥は、都内の最低賃金より低い賃金で違法に雇われた。
皿洗いをしたことがない和弥は、絵に描いたように毎回ドジをやっては店長に怒鳴られていた。怒鳴られる度にカッとなって怒鳴り返しそうになったが、何も出来ない自分を雇う店が他にあると思えなく、歯を食い縛って耐えた。
冷たい水に手は荒れ、じゃが芋剥きで何回も指を切った。和弥は、人生で初めて金を作る大変さを味わった。毎月100万円以上の小遣いを貰っていた和弥にとって、汗水流して働く大変さに驚くばかりだ。1時間で700円。たった700円の為に自分は、怒鳴られる。肉体労働をする人間を嘲笑っていた自分が、遠い昔のようだ。
そして、バイトを始めてから1ヵ月後に、和弥は初めての給料を貰った。あれだけ働いたのに僅かな5万円程だったが、初めて自分の力で稼いだお金に、叫びたいほど嬉しさが込み上がった。
このお金を、幹の為に使いたいと思った。
生まれて初めて稼いだお金。幹の為だけに、何かをしたいと強く思う。
誰かの為に……何かを捧げることが、こんなに楽しいことだったなんて知らなかった。バイトが終わる4時が待ち遠しくって、和弥はいつになく浮かれた気分で皿を洗う。
バイトが終わったら、街に出掛けよう。
幹は何が欲しいのだろうか。高級なプレゼントには興味すら示さなかった幹だったが、あのピエタのネックレスだけは着けてくれていた。しなやかな首筋から覗けるネックレスを見る度に、和弥は照れくさいような、嬉しいような気分で頬が緩んでしまう。幹はあの店が好きだと言っていたから、今日、そこに行って探そう。何かいい物が見つかるかも知れない。
しかし、浮かれている和弥に、店長が突然1時間の残業を命令してきた。フロア担当のバイトが急用で遅れているらしい。客の接待は得意じゃない和弥が嫌そうな顔すると、店長は逆切れで「クビにするぞ」と脅してきた。ムッとした和弥だが、渋々従う。
専用の黒エプロンを付けてフロアに出ると、数人の客がヒソヒソしながら和弥を盗み見る。突然現われた美少年に、誰もが見惚れて呆然とする。
……鬱陶しい
熱い視線の中、居心地悪さに困っていると、突然、窓の外から雨が降る音が聞こえた。久しぶりの雨だ。突然の雨に外を歩いていた数人の大学生が雨宿りに、カフェに入ってきた。5人分の水と手ぬぐいを準備して持っていくと、横柄な大学生達は「汚い店だな」と好き勝手に話していた。和弥は、視線を合わせずに大学生達の足元や手元を見る。高級品ばかりを身に着けている彼達は、どこかの御曹司とお嬢様か。昔の自分も彼達と同じように、自分がどれほど恵まれ、選ばれた人間かを誇示していた。
なんて、傲慢で最低な人間だろうか。
愛想笑いをしない和弥に、一人の女子大学生が「挨拶ひとつ出来ないの、ここ」と嫌味を言いながら顔を上げた。途端、言葉を飲み込む。古く汚いカフェにはあんまりにも不似合いの、和弥の美貌に圧倒され、開いた口が塞がらない。
彼女の異変に、残りの大学生達も不思議そうに和弥に振り返る。
「注文は?」
無愛想に聞くと
「……和弥っ!」
突然一番奥に座っていた男が叫んで勢いよく立ち上がる。聞き慣れた声に和弥が顔を上げると、そこにいたのは幼馴染みの片岡秀だった。
大手不動産会社の御曹司である秀とは、安田陸と同じように、生まれた時からの付き合いだ。背が高くイケメンの秀はモテるが、性に関しては男女問わずに節操なしである。昔は、よく和弥と組んでは、人倫に反することを平気でやってきた。
「お前、何でこんな所にいるんだよっ…どこに行ってたんだよ。俺がどれだけ……っ」
責める秀の言葉に、思わず和弥は笑いそうになった。
よくそんなことが言えたもんだ。
あの時、負け組となった和弥を、他の同級生や教師達のように虐げたりしなかったが、秀は和弥から距離を置いた。助けを求める和弥の瞳から逃げるように…視線を逸らした。
手の裏を返したような態度。別に今更、和弥は責めるつもりはない。もし自分が秀なら、同じことをしていたと思う。
女子大学生が「知り合いなの?」と秀に尋ねると、秀は少し歯切れ悪そうに黙り込んだ。当然、言えるわけない。
堕落してしまた菊池家は有名で、その御曹司が今では小汚いカフェでアルバイトをしている。そんな和弥と"知り合い"だと知られると、周りにどんな目で見られるか。昔なら、屈辱に死んでしまったかもしれないが、今は何も感じない。周りにどんな目で見られようと、何一つ興味がない。
欲しいのは、この世でただひとつ。
「注文は?」
戸惑う秀を無視して再度注文を聞くと、和弥はその場から去った。仕事中、秀がちらちらと見てきたが、決して和弥に声をかけない。それが可笑しかった。
雨が止んだ。
秀達が帰った後、入れ違えるようにフロア担当の学生アルバイトが出社した。謝る彼女に適当に返事をすると、和弥は服を着替えて裏口から店を出る。
早く帰らないと、幹が先に家に帰ってしまう。
思わず右の手首を見てしまい、苦笑いをした。もうそこには腕時計はないはずなのに。
「───和弥」
突然、背後から名を呼ばれて振り返ると、秀が店の端で佇んでいた。
「待っていたのか」
「ああ」
近づいてくる秀の目を無表情に見つめる。幼馴染みは、昔とそんなに変わっていないが、自分はもう昔と違う。
「お前、今、どこに住んでいるんだよ」
「……」
いつ壊れるわからない幹との生活を、誰にも邪魔されたくない。だから、和弥は答えない。
「…なあ、和弥、戻ってこいよ。お前の親父はもうすぐで釈放されるんだからさ。家に戻って、最初からやり直したらいいじゃん」
陸が和弥の居場所を誰にも言っていないことに、胸を撫で下ろす。安田陸は飄々とした男だが、最後の最後には、気持ちを察する。少し距離を置いて、そっとする。絶対に干渉しない。
秀が言ったように、世間体さえ気にしなければ、確かに和弥は昔の生活に戻れる。人に扱き使われながら働かなくても、楽が出来る。
「数年したら、父親の不祥事も忘れられるんだから───…」
そうすれば、俺達もまた、昔のように一緒にいられる、そう訴えた秀を和弥は笑った。
「……もう必要ない」
「───」
「悪いな。もう手遅れだ」
もう、わかってしまったから
「だけど、数か月前だったら、きっとお前は俺に"戻って来い"なんて言わないよ」
意味が掴めない言葉に、秀が難しい表情をすると、和弥は手を振って踵を返す。
「廃人の俺に…と言う意味だよ。じゃーな。俺は帰る」
「和弥っ!」
引き止める秀に振り返らず、和弥は走り出した。暫くして後ろに振り返ったが、既に秀の姿は見えなかった。追いかけてこないことに安堵し、和弥は急いで家に帰るために、再び走り出した。
+++
今加幹の部屋がある最上階に辿り着くと、争うような声が聞こえた。
目を細めて見ると、普段感情を表さない幹が硬い表情で、40歳ぐらいの男と言い争っていた。「出て行けっ」と幹が怒鳴りつけた時には、和弥の方が驚きにビクっと肩を竦めてしまった。
あんな感情的な幹は初めてだ。
幹は腕を掴む男を乱暴に振り払って顔を上げた時、偶然呆然と立ち尽くしている和弥と視線が合った。一瞬、幹は絶句したが、すぐに眉間に皺を寄せて、和弥に早く部屋の中に入るように、固い声で促す。
慌てて男の隣を通り過ぎて中に入る時、興味を引かれて和弥はちらりと男の顔を見た。背が高い男は無精髭で不潔そうだったが、彫が深い…整った顔立ちだった。
「ケチケチするなよ。俺達は、血が繋がった親子じゃねえか」
信じれない男の言葉に、和弥は思わず目を見開いて男を凝視してしまった。まさか、この男は幹の実の父親なのだろうか。
「ちょっと、金を貸してくれと言っているだけじゃねえかよぉ」
「あんたに貸す金なんて、ねえよっ」
感情的になっている幹が吐き捨てる。男は飲酒による悪臭を放ちながら、乱暴に再び幹の手首を掴んで引き寄せた。
「やっぱ、あの絶世の美男の方が、父親よりいいか」
「───」
耳元に囁くように言った男に、愕然とした幹が息を止める。数秒の緊迫した沈黙の後、幹の中で何かが切れた。突然、父親と名乗る男に殴りかかり、驚いた男と揉め合いになる。慌てて和弥が止めに入ろうとしたが、強い力で振り払われた。
ドンっ。激音が響いた時、幹は自分より背の高い男の襟元を掴んで、凄まじいほどの憎しみで男を睨みつけた。背筋が凍るほどの鋭い眼差しに、挑発する余裕があった男も一瞬言葉を失う。
「……何で、あんたが[[rb:あの人>・・・]]の顔を知っている」
地獄の底から響くような低い声。
「あの人に会ったのか……同じように、あの人に金をせがんだのかっ!」
怒鳴りつけるのと同時に殴りつけ、倒れる男に襲い掛かる。その動きは、まるで、本能のままに獲物を引き裂く獣のような鋭さだ。怒りをコントロール出来ない幹に、和弥はもう呆然するしか出来ない。
「あの人は、"バケモノ"の俺を助けてくれた。母さんを…母さんを海が見える綺麗な場所に埋めてくれた……っ」
初めて聞いた悲痛な叫びに、和弥は千切れんばかりに目を瞠った。
「あんたにわかるのかよっ!母さんがどんなに苦しんだのか、あんたにわかるのかよっ!」
やめてくれ、と叫ぶ男をそれでも殴り続ける。
「今、ここで殺してやる。もう二度とあの人に会いに行けないように、今、ここで殴り殺してやるよ」
氷のように冷たい表情。振り上げられた血まみれの拳に、和弥は無我夢中で二人の間に入った。
違う───
「……っ」
鈍い音が響いた。
幹は目を見開いて息を止める。男を庇って容赦ない強烈な一撃を頬に喰らった和弥は、衝撃に一瞬意識を飛ばした。和弥の唇の端から、血が滲みでる。僅かに幹の顔が悲しみに歪んだが、すぐに眉間に皺を寄せて、絞り出すような声で和弥を責める。
「なんで、あんた がこの男を庇う」
「……」
憎しみを込めた眼差しが、和弥の心を引き裂く。
「答えろよっ」
怒鳴りつけられ、和弥は泣きたくなった。嫌われたくないのに。これ以上憎まれたくないのに。
「答えろよっ!」
乱暴に肩を掴んで揺らす幹を、和弥は下唇を噛んでのろのろと顔を上げた。
「この男を殴りながら、お前が泣きそうな顔をするから…」
言葉を失った幹は、固まる。
肩を震えさせながら、それでも和弥は言葉を続ける。本当は言うのは怖い。怖くて今にも逃げ出したくなる。
「それに、お前の母親を殺したのは…俺……だろ…殺すなら、俺だろ」
幹は瞳を大きく揺らして、和弥を見下ろす。
「……」
長い沈黙の後、疲れたように溜め息を吐いた幹は、強張った表情を隠すように俯いた。
「…あんたって───」
馬鹿だ
ビクッと肩を震えさせた和弥に、突然幹がすっと右手が差し伸べた。
「……え」
心臓がドキッとなる。
「中に入るぞ」
感情が篭っていない言葉だったが、たったその一言だけで胸が震えた。今にも涙が溢れ出そうで慌てて拳で拭った後、微かに震える指で幹の右手を掴んだ。
決して触れることを許されなかった手だ。
聞えるのでは、と心配するほど激しい動悸が鳴る。幹は一瞬、目を細めて和弥の手を掴んだが、何も言わず男を無視して玄関のドアを開けた。慌てるように男が幹を呼ぶと、幹が最後に男に振り返った。
「二度と、あの人の前に現われるな。……でないと、俺はあんたを殺す」
そう吐き捨てて、幹は玄関のドアを閉めた。
部屋の中に入ると、幹は濡れた冷たいタオルを和弥に渡した。
信じられなほどの優しい態度に、和弥は夢を見ているような錯覚に襲われる。今度は救急箱を持ってきた幹に、慌てて大丈夫だと答えるが、幹はほんの少しだけ呆れるように笑った。その一瞬を、和弥は見逃さなかった。
泣きたくなる気持ちが、自分でもわからない。どうして、そんなささやかなことに、胸が押し潰されるほど苦しくなるのだろうか。
「手だよ。あんた、両手、あちこち切れているだろ」
まだ慣れていないアルバイトで、和弥の真っ白な手には多数の傷がある。まさか、気が付かれていると思わなかった和弥が顔をあげると、幹は小首を傾げたが、何も言わない。手当てが終わった後、幹はじっと和弥を見つめた。吸い込まれそうになる美しい瞳に、和弥は僅かに緊張する。
「……助かったよ」
「え」
「あんたが止めてくれなかったら、あいつを殴り殺していた」
幹は疲れたように息を吐く。
「父親なのか?」
思わず聞いてしまい、しまったと思っても既に遅かった。一瞬、幹は眉間に皺を寄せたが、和弥の質問に「ああ」と答えた。
「親が離婚してから会わなかったけど、どこからか、俺の居場所を突き止めて、後を付けられた。まさか、雪隆さんにまでにお金を要求していたなんて……」
左手で右顔を、幹はそっと抑える。
「……幹」
痛々しい姿に、和弥は無意識に幹の頭を抱き寄せた。驚いた幹は咄嗟にそれを払い退ける。心臓を刺されたような強烈な胸の痛みに、和弥は泣きそうになった。拒絶されるとわかっているのに、どうして、幹を抱きしめようとするのだろうか。
激しく拒絶する幹を、和弥はもう一度抱き締めた。
「…あんたっ。やめろっ……」
「───幹」
低い声で名を呼ばれ、幹の抵抗が止まった。
「……あんた、泣いているのか」
必死に抱き締めてくる和弥の体が震えているのを感じ取って、幹は辛そうに瞼を閉じた。
「…泣いて……いない」
否定するが、嗚咽が零れ落ちている。
泣きたいのに泣けない幹が、愛しくて切ない。
悲しみに嘆く君を、抱きしめたい。僕がここにいると知って欲しい。
溢れ出す涙が止まらない和弥の背中に、どこか戸惑いながら…幹の指が触れた。───やがて、その指は肉に食い込むほど強く和弥を抱き締めてきた。
驚いた和弥が顔を上げようとした時、「見るな」と強い口調で幹に遮られた。表情を見られたくないのか、幹は強く顔を和弥の肩に押し付ける。和弥は、骨が軋むほど、幹を抱き締め返した。
君が好きだ
胸の中で囁く。声に出来ない想い───
君以外何もいらない。
溢れ出す想いは、甘い毒のように和弥を蝕んで行く。何も要らないから、君が欲しい。
(どうか、神様───)
+++
朝、起き上がると、既に幹は部屋にはいなかったが、いつもと同じように朝食は準備されていた。弁当と水筒も準備されている。真面目な幹らしい。
和弥は顔を洗った時、ふいに昨夜のことが鮮明に脳裏に浮かんで、真っ赤になった。和弥がいつまでも執拗に幹を抱きしめて離さないので、最後には幹が諦めて二人一緒に夕食も食べずにリビングの床で眠ってしまった。寝ている時ですら、和弥は絶対に幹を離さなかったので、起きた幹は和弥の腕から抜けるのに悪戦苦闘したのだが、和弥本人は知らない。
今更のように、意味もなく赤くなったり青くなったりする和弥は、思わず両腕で頭を抱え込んだ。昨夜の自分は、何て大胆なことをしたんだろうか。拒絶する幹を押さえ込んで抱き締めた。……だけど、最後には幹も抱き締め返してくれた。カァとなって、和弥は頭を乱暴に振った。
自惚れるな。父親の酷い仕打ちに精神的に参っていただけで、決して自分に心を許しているわけではない。
勘違いしてはいけない。
そう思うのに、抱き締めたこの腕が幹を忘れない。
(……マジでいかれている)
どれだけ、幹に夢中になっているのか、今更思い知った。
欲しくて堪らないのだ。
時計を見ると、もう10時近くなっていた。バイトに行く前に、図書館で勉強したかった和弥は舌打ちして、慌てて着替えて外出する。その時、マンションの正面玄関の傍で長身の影を見つけた。怪しむように凝視すると、昨夜の男だった。幹の実の父親。思わず足を止めた和弥に、男が近づく。
話があると言われ、近くの喫茶店に入った。何故、幹ではなく自分に話がわからなかったが、和弥は大人しく従った。
「お前、誰?」
無粋な男の言い方に和弥はムッとするが、答えることが出来ない。まさか「幹の義理兄でした」なんて言えるはずもない。
「てめえには、関係ないだろ」
負けずに、和弥は冷たい言葉で吐き捨てる。
「可愛い顔しているのに、きたねえ言葉使いだなー。幹の周りには、何で、こうも顔がいい奴ばかり集まるんかね」
ケラケラ笑い出した男に和弥は益々ムッとする。この男と幹が血で繋がっているなんて、何だか信じられない。
「てめえ、何で、金目当てで幹に会いに来たんだよ」
「別に。いいじゃねえか、今加グループなら、100万ぐらいの金なんて、なんともねえだろ。なのに、幹の奴、ケチケチしやがって」
男の言葉に和弥が切れた。
「てめえ、ふざけんのもいい加減にしやがれっ」
周りに構わずに怒鳴りつけた。こんな男について行ったのが間違いだった。立ち上がった和弥を、男は咄嗟に腕を掴んで止めた。振り返った和弥は軽蔑な眼差しで男を見下ろす。
「まだ、用事あるのかよ。残念だな。俺は金は持ってねえよ」
凍てついたような声で言い捨てると、和弥は男の手を振り払った。
「……一週間前、街で偶然、幹があの"養父"と一緒にいるのを見た」
語り出す男に、和弥は勢いよく振り返る。
「初めて見たわ。幹の…あんな楽しそうな顔。10年以上会わなかったけど、すぐにわかった。ガキの頃から無表情で、俺のことを嫌っていたクソガキなのに、あの男には……」
「───」
男はふっと鼻で笑うと、前髪をかきあげた。
「悔しいから、嫌がらせをしたくなっただけだよーん」
「ガキか、てめえは」
容赦のない言葉に、男が愉快そうに声を出して笑った。
「もう、幹には会わねえよ。可愛くないしな」
「……どこに行くんだ」
「内緒」
ウィンクしてくる男にげんなりするが、何だか話を逸らされた感じがする。男は立ち上がると、手をひらひらさせて「俺は金が一円もねえだわ。お前が奢れよ、お嬢ちゃん」と店を出る。
「てめえが誘っただろっ!」
最後まで勝手な男に、和弥は舌打して怒鳴りつける。まさか、初の給料がこんな所で使う羽目になるとは思っても見なかった。会計を済ませて慌てて外を出ると、既に男の姿は消えていた。
父親が幹の母親と再婚した時、和弥は探偵を使って幹の過去を調べたことがあった。
高校中退で駆け落ちをした幹の両親は、最初の一年程は上手く行ったらしいが、父親が段々と貧困に堪え切れずに酒に溺れ出した。
───家庭内暴力
激しい暴力を、幹は母親を庇いながら何年間も受けていた。金もなく、家から逃げ出すことも出来ない二人にとってそれは地獄に近かったに違いない。
両親が離婚をしたのは、幹が8歳頃に母親を助ける為に覆った火傷が原因だ。母親はこれ以上幹を傷つけない為に、幹を抱き締めて家を飛び出した。聞けば聞くだけ、人間の屑のような父親だと思う。
だけど、過去、それ以上に、幹に酷い仕打ちをした和弥は男を責めることはできない。幹は、和弥を憎んでいるとはっきりと言ったが、何故か、態度はそれと逆だ。薬物依存症で廃人になっていた和弥を、輝かしい未来を犠牲に…過労死寸前まで一人で看病した。
そんな幹を、愛さない人間がいるのだろうか。
必死に小さい体で母親を守り、我が儘を一切言わない幹を、あの男は本当に愛していなかったのだろうか。親が子供を愛するのは当たり前……そんな夢物語を、和弥は信じているわけではない。永遠の愛があるなんて、初恋を知った今ですら、信じていない。
だけど、一瞬でも、あの男は本当に幹を愛さなかったのだろうか。幹も、あの男を父親として愛さなかったのだろうか。
───否
幹はそれを知っているから、苦しんでいる。それを知っているから、目に見えない涙を流している。突然、和弥は悲しそうに小さく笑った。
幹に再会してから、激しく思考が変化している気がする。
昔の自分は、どれだけ、能天気に暮らしていたのだろうか。この想いを知った今、どんなに苦しくても、昔に戻りたいと思わない。幹を知らなかった昔なんて、何の価値もない。空を見上げると、温かい風が頬を撫でてきた。
幹の父親が死んだ。
車に轢かれ、全身打撲で呆気なく死んだ。
その晩、天気予報を見る為に動画配信サービスからテレビに切り替えた時、ほんの僅かな時間だが、その事故についてニュースが流れた。
被害者の名前が呼ばれた時、夕食の片付けをしていた幹は床に箸を落とした。手に取るようにわかる幹の動揺に、和弥は不思議に思いながらテレビに振り返ると、昼間、会ったばかりの男の顔が映し出されていた。和弥は、息を呑んだ。ニュースを伝えるアナウンサーの声が、淡々と沈み返った部屋に響く。
『警察が事故と自殺の両面で調べを進めています』
アナウンサーの抑制の効いた言葉。
和弥は昼間の男の言葉を思い出した。もう幹には会わないと言った男に、どこに行くんだと聞くと、笑いながら男は内緒と言っていた。
暫くして、幹は皿洗いを始めた。だが、微かに幹の指が震えていた。
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