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第9章
若葉の艶やかな緑が、美しい季節になった。
漸く、菊池和弥はバイトで皿を割ることなく洗えるようになったが、偶然再会したあの日から、幼馴染みの片岡秀が執拗にバイト先のカフェに訪ねるようになった。どれだけ説得されようが、和弥の意思は少しも変わらなかった。答えは簡単だ。
今加幹との関係をこのまま終わらせたくない。このままの生活が続くとは思わないけど、出来るだけ一緒にいたい。
1日、1時間……1秒でも長く、傍にいたい
最近の自分は病気だと思う。毎日、幹のことを考えている。家にいてもバイトをしていても、頭の中は幹のことだけ。ふと昔を思い出す。好きと数知れない女達から告白をされたが、和弥はその好意を利用して彼女達を弄んでいた。……玩具同然に扱っていたのに、彼女達は泣きながら、それでも別れたくないと縋ってきた。そんな気持ちが、気持ち悪かった。
恋に狂うと、人間は惨めになる。
そんな惨めな姿になりたくないし、相手を思いやる気持ちがない和弥にとって、恋は無価値なモノであった。
……幹は誰かを好きになったことがあるのだろうか。
例えば、命を救った今加雪隆を本当は…。そう考えると胸がキリキリ痛んで、和弥は俯いた。
幹の大切な母親を殺した自分を好きになって貰えるなんて、そんな、望みのないことを期待しているわけではないけど…誰も好きになって欲しくないと哀願している自分がいる。
幹の心を、自分の命と引き換えにしてでも欲しいが、叶わないなら誰の物にもならないで欲しい。───エゴな自分が醜かった。
気持ちが暗くなり、俯きながら歩いていると、和弥はマンションのエントランス前に立っている男に気にも留めなかった。エントランスの自動ドアが開いた時に声をかけられ、和弥は振り返った途端、露骨に嫌そうな顔をした。
「秀…おまえ」
「そんなに嫌そうな顔をするなよ」
幼馴染みの片岡秀は、眉間に皺を寄せて言い捨てる。和弥は秀を睨みつけ、「なんで、ここがわかった」と低い声で聞いた。
「お前の後を連いて行った」
その言葉に、和弥は軽蔑をするように睨みつける。
「お前、しつこいぞ」
吐き捨てた和弥に、秀は片方の眉毛だけを器用に上げた。
「和弥、お前、今加と一緒にいるんだろ」
ぴくりと肩を揺らした和弥は、明らかに動揺している。
「てめえ、俺のことを調べたなっ」
ふざけやがて、舌打をした和弥は秀を無視してエントランスの中に入ろうとするが、乱暴に腕を掴まれた。
「離せっ、てめえには関係ねえだろっ。俺のことはほっとけっ」
「何で、あいつのところにいるんだよっ。お前、あいつのことを嫌っていたじゃねえかっ」
「てめえには関係ねえと言っているだろっ」
乱暴に腕を振り払うと、本気で腹を立てている和弥は子供のように地面を数回蹴った。
「これ以上、俺に構うなっ」
腹の底から怒鳴りつけた。
「今加はお前を助けたわけじゃない。ただ、お前の惨めな姿を見て優越感を浸りたいだけなんだよっ」
秀も負けじと叫ぶ。
「お前はそれを『優しさ』と勘違いしているだけなんだよっ」
気がつけよ。これは、あいつの復讐なんだよ
秀は、和弥の両腕を掴むと、ドンっと乱暴に壁に押し付けた。分かるだろ、と耳元で必死に訴える秀の言葉が、おかしくて仕方がない。
「お前は勘違いしているよ」
「え」
静かに言った。和弥は自嘲に似た笑みを浮かべながら、困惑している秀を見上げる。
「俺は殺されても いいんだよ」
むしろ、殺されるべき人間だ。
「───んなの許さねえよっ」
声を荒げた秀は、強引に和弥の顎を掴むと唇を重ねた。力ずくで和弥の唇を抉じ開けて舌を入れる。抵抗した和弥は、秀の下唇を噛みきった。
「───いっ!!!!」
反射的に和弥から離れた秀は、赤い血が流れ出る唇を手で押さえた。全身全霊で秀を拒絶する和弥は、ペッと唾を吐いて拳で唇を拭う。傷ついたような秀の眼差しが、和弥を見た。
「俺は───…」
秀が何かを言いかけた時、タイミングが悪く、幹が大藤祥一と一緒にマンションに戻ってきた。幹は足を止めると、和弥と秀を無言で見つめる。
秀を幹には会わせたくなかった和弥は、言葉を失う。パニックになった和弥と異なり、祥一は満悦の笑顔を浮かべた。
「お姫様を迎えに来たんか、王子様 。熱い口付けで、お姫様の目を覚ますことができたんかよ」
見られたことに、血の気の引いた。恐る恐る顔を上げた和弥から、幹は視線を逸らした。ただそれだけのことで、絶望に涙腺が緩む。
「早く、そいつを連れて帰ってくれよ。マジで迷惑なんだわ」
祥一は昔から、和弥と一緒にいる秀も毛嫌いしていた。手で追い払いようにしっしとする祥一に、秀は睨み返した。しかし、秀は祥一より横にいる幹の方が気になった。
秀は立ちはだかる祥一を押し退けて、幹に近づく。
「その造った顔 で、和弥 を誑かして楽しいかよ」
詰め寄る秀に、和弥は驚いて止めに入ろうとしたが、その前に祥一が二人の間に割って入った。
「何だよ。嫉妬しているのか。王子様。大切なお姫様が、地位と美貌に目が眩んで別の男のところに走ったのが気にくわねえのか?だったら、整形でも何でもして、幹より美しくなればいいだろ?」
腐った中身のままだけどな、そう吐き捨てる祥一に、秀はカッとなって襟元を持ち上げた。
「お前っ!」
「あんだよ、やるか?」
どこまでも挑発的な祥一に、秀は益々逆撫でされる。和弥は触発機雷の二人を止めようとしたが、視界の隅に幹の疲れた表情が入った。足が止まる。
違う。違う。その 容姿に心が変わったわけじゃない。信じないで。他人の言葉なんて、信じないで。
訴えたいのに言葉が出ない。
暫くして、幹の小さい溜め息を吐く気配がした。たった、それだけの事なのに、和弥は不安で立っていられなくなった。
「もう、いい加減にしろよ」
揉め合う祥一と秀を冷たい言葉で遮ると、幹はゆっくりと顔をあげた。その表情はもううんざりだ、と言わんばかりに冷め切っている。幹は祥一と秀を無視して横切り、マンションの中に入った。
「幹っ」
追い掛けようとしたが、祥一の方が行動が早かった。タイミングを失った和弥が呆然と二人の後ろ姿を見送ると、秀が近づいた。何かを言われたが、和弥には聞えなかった。五感全てが…消えた。
幹は秀の言葉を信じただろうか。それとも、迎えに来たんだから出て行って欲しい、と考えているのだろうか。その日、和弥は眠れなかった。部屋の電気が消されるまで、幹は一言も話さなかったし、視線も和弥に合わせなかった。
布団の中で、涙が頬を伝った。声を殺して、小さく泣いた。
+++
一週間、意気喪失の和弥は、暗い気持ちままバイトに出かけた。理不尽なことで店長に怒られたが、何も言い返す気力がなかった。あの部屋から出ていかないといけない、その恐怖が大き過ぎて他のことが目に入らない。
ランチのピーク時間を過ぎた時、和弥は店長から「お前に客だ」と言われた。秀のことが頭をよぎって嫌な気持ちになったが、来客は予想外の男だった。
今加雪隆
幹の義理父親としては若過ぎて、異世界のような華麗な容姿の男だ。雪隆が「話がありますが、時間作れますか」と聞いてきたので、和弥は特別に30分の休憩を貰った。
雪隆といつも一緒にいる嶋村潤が、今日はいない。
「俺に何か、用か」
元気がない声に、雪隆が小首を傾げた。
「……貴方達 は、子供のようにわかりやすいですね。喧嘩でもしたのですか」
喧嘩も何も、ただ幹が視線を合わせようとしないだけのこと。黙り込む和弥を、ガラス球のような瞳が見つめる。
「今日は、貴方に話さなければいけないことがあります」
訝しげに和弥が顔を上げると、雪隆は神秘的な美貌によく似合う小さい笑みを浮かべた。
「来月から、幹とまた一緒にドイツで暮らそうと思っています」
言葉の意味を理解するまで、数秒の時間を強いられた。
「…ドイツ……」
声が震える。
「去年から、幹が突然日本に残ると言って一緒に暮らさなかったのですが、先週、一緒について行くと言ってくれたのです」
「───」
「幹は不機嫌そうな顔でしたが」
雪隆は思い出したようにクスっと笑う。露骨に肩を震えさせる和弥に、雪隆が少し目を細める。
「幹に、貴方をサポートして欲しいと頼まれました。大学に行きたい場合、全てのお金は援助します。住む部屋も準備します」
事務的に話す雪隆を見ながら、和弥は真剣に自分は日本語が理解出来なくなったのでは、と心配になった。雪隆が話していることが、単語ひとつひとつ、理解出来ない。
「もし、実家に戻るようでしたら、貴方の父親の仮釈放と裁判も全て私が───泣いているのですか」
感情が篭っていない雪隆の質問に、漸く和弥は自分が泣いていることに気がついた。涙を拳で拭い取るが、滝のように溢れ出す涙を止めることが出来ない。胸がズキズキ痛む。悲鳴をあげている。
苦しいと
「…幹は……俺に出て行って欲しいと……思っているのか…」
和弥が執拗に部屋に居座るから、幹は痺れを切らして自分から出て行くのか。それほど、自分といることが嫌なのか。
「私ではなく、幹に聞くべきだと思います」
雪隆は慰めるつもりは毛頭にないようで、淡々と話す。その言葉が、どれだけ和弥の心を引き裂くかを知りながら。堪らなくなって、和弥はついに声に出して泣き崩れた。嗚咽が止まらずに、テーブルに顔を伏せて泣く。
心が絶叫する。もう、幹に会えない……会いたくないと思われるなら、今ここで息の根を止めた方が、息するより楽だ。
「幹を愛しているのですか」
顔を上げない和弥の頭を撫でるように、雪隆が触れる。その指が優しくて、和弥は息が吐けなくなった。
「……幹は、俺が憎いと言った」
ゆっくりと顔を上げた和弥の表情は、悲しみに歪んでいた。溢れ出す涙が、音をたててテーブルの上に落ちる。雪隆はそっと和弥の涙を指に拭い去ると、小さく微笑んだ。
「私は、幹ほど綺麗な心を持った人間を知りません。殆ど話さない子ですが、幹はとても優しい」
わかる。そんなこと、言われなくても誰よりも知っている。
「だから、壊れやすいのです」
ガラスのように
「貴方は幹の父親に会ったらしいですね」
答えない和弥に構わず、雪隆は独り語のように話を続ける。
「昔、幹の両親が離婚した後、幹は母親に内緒に父親に会いに行ったのです」
酷い火傷はすべて父親が原因なのに、アルコール中毒の父親を心配した幼い幹は、数時間も歩いて会いに行った。
「だけど、幹を見た父親はバケモノ と罵ったのです」
和弥は目を瞠った。
「それなのに、人間 の姿に戻った幹を見つけた父親は、嬉しそうに会いに来た」
幹はあの日、激しく父親を拒絶していた。
「例え、お金目当てではなく、会いに来ただけだとしても、あの父親は、幹の[[rb:精神>こころ]]を痛めつけているのです」
ぽとん、和弥の焦点の合っていない瞳から、再び涙が零れ落ちる。
「幹は愛を信じていません」
自分は簡単に和弥の為に人生を犠牲にするくせに……雪隆は胸中で呆れる。
心が綺麗な分、裏切られた時、心は閉ざされる。
「私は幹に幸せになって欲しいと思っています。その為なら、何でもします」
傷つける者は、全て消し去る
鋭く冷たい瞳の迫力に、和弥はまさか、と目を見開いた。
「……まさか、幹の父親は───」
蒼白になった和弥に、雪隆は「おや、鋭いですね」と冗談か本気なのか区別が出来ない口調でさらりと答えた。
「でも、残念ながら私ではありません。私も幹に嫌われたくないので」
微笑する雪隆は、全てを圧倒するほど美しい。
「幹の父親は、暴力団から多額の借金をしていたので、無理やり生命保険に加入させられたのですよ。ちなみに、自殺でもありません」
暗黙に他殺を仄めかす雪隆に、和弥は驚いた。
「……それを知っていて、どうして」
「どうして、助けないかと?貴方は少し私を誤解しているようですね。私は善人ではありません」
ぞっとするほど艶めいた笑みは、まさに堕天使を思わせる。
「私は幹以外の人間がどうなろうと、興味はありません」
雪隆と幹の絆を見せ付けられて、和弥は再び俯く。長い指が、そっと和弥の頬に触れた。
「多分、貴方には少し理解出来ないと思いますが、地獄を生きてきた子供には、二つの道しか残っていないものなのですよ」
優しい口調は、どこか哀れみを感じさせる。
「痛みを感じないように感情を捨てて人形になるか、死ぬか……どちらかを選ばないといけない。幹は後者の方でしたが」
あの日、何故、幹は薄暗い森の中にいたのだろうか。
───幹の絶望に、崩れるように和弥は泣いた。自分は、なんてことをしてしまったのだろうか。死にたいけど必死に生きようとした幹を、バケモノと罵って父親と同じように暴力を振った。
「そんな地獄の中で……突然手を差し伸べられると、その子供 にとって、その人が全てになるのです」
雪隆は胸が痛くなるほど、優しく笑う。
「例え、どんなに裏切られようと、その人が全てなのです」
例え、殺されても、貴方は僕の全て
雪隆の真因が理解出来ない。何も理解出来ない。ただ、判っていることは、幹が自分を憎んでいることだけ。自分を捨てようとしていることだけ。
耐え切れずに泣き叫んだ和弥を、雪隆はそれ以上何も言わずに見守る。
己の罪の重さに耐え切れずに死んでいく。そんな痛々しい姿に、同情の言葉をどこかに置き忘れていた雪隆もまた、少し胸が痛んだ。
+++
電気がつくと、薄暗かった部屋が明るくなった。
「……あんた、いたのか」
少し驚いたような幹の声が聞えたが、和弥は振り返らなかった。首を傾げて幹が近づく気配。
「あんた、調子悪いのか」
和弥がゆっくりと振り返ると、幹は目を見開いた。きっと自分の顔は醜いほど歪んでいるに違いない。泣き過ぎて晴れ上がった瞼。真っ赤に充血している瞳。
「……なんか、遭ったのか」
無表情だが、どこか心配そうな声。和弥はソファから立ち上がった。
「───俺を殺したいほど、憎いんだろ」
「……」
一歩と近づくが、幹は何も答えずにじっと和弥を見つめる。
「だったら、なんで俺を殺さないんだよ。俺を殺せば、ドイツなんかに逃げる必要ないだろ」
ピクッと肩を揺らした幹に、和弥は発作的に机の上のペン立てからカッターナイフを取った。驚いた幹が、それを遮るのには遅すぎた。
「これで俺の胸を刺せば、俺は簡単に死ぬ」
やれよ、と言わんばかりに、カッターナイフを持っている手で左胸を指す。下唇を噛んだ幹は、鋭く和弥を睨みつけた。
「あんた、冗談もいい加減にしろ。それを寄越せよ」
手を差し出すが、和弥は横に首を振った。
「冗談?はっ」
吐き捨てた和弥は今にも泣きそうになって下唇を噛んだが、耐え切れずに床にしゃがみ込んだ。
───今にも、息が止まりそうだ。
「…す……好きなんだ」
血を吐くように零れ落ちた想い。胸の奥に無理やり抑えていた想いが、今、溢れ出す。蓋をしても洪水のように溢れ出す。
もう涙は枯れていると思っていたのに、再び頬を伝って落ちた。人間は、悲しみで死ぬことはあるのだろうか。
「お前がドイツに行くんなら…もう俺に会わないと言うなら」
今すぐ、ここで殺して。楽にして。この想いから救って。
「───なんで、あんた がそれを言うんだよ」
氷のように冷えた声に悲嘆した和弥は、カッターナイフを持ったまま、両手で顔を抑えた。言ってしまった。憎んでいる男から愛の告白なんて、嫌悪を抱くだけなのに。幹は、顔を覆っている和弥の右手を乱暴に掴んだ。
「この顔 のせいか」
ぞっとするほど低い声に、和弥は狼狽する。射抜くほど鋭い瞳に、膝がガクガク鳴る。
「俺を好きと言うのは、この顔のせいか」
「…ちが……うっ」
予想外の幹の言葉に、和弥は髪が乱れるほど強く頭を横に振るが、幹の瞳から静かに怒りが滲みでる。
「俺がバケモノのままだったら、あんたはそれでも、好きと言っていたか」
骨が砕くほど強く手首を握られ、身体と心が壊れて行く。幹は、和弥のこの想いを信じていない。
「……昔、ただ痛い毎日に失望して……母親も捨てて現実から逃げた」
ぼそりと語りだした幹に、和弥はのろのろと顔を上げる。
「たどり着いた場所は、深くて暗い森の中だった。ここだったら、誰にも見つからず、静かに過ごせると思った」
だけど、あんたは俺を見つけた
初めて悲しい表情を見せた幹に、和弥は目を瞠る。幼い頃、森で見つけた幹は、声に出して泣いていた。毎日が苦しくて……痛くて耐えられなくなった幹の悲しみは、とても深かったに違いない。
「もう死にたいと思っていた俺を、あんたは慰めてくれた」
家が貧しく、暴力に苦しんでいた幹には、友達ひとりいなかった。本来なら親に守られるべき存在なのに、体の弱い母親を必死に守っていた。だけど、幹の心も体も、壊れる寸前だった。本当は、誰かに守ってもらいたい。
明日の暴力が不安で眠れない、そんなことが嘘のようにぐっすりと布団で眠りたい。大丈夫だから、と強く抱き締めて欲しい。
「嬉しかったんだ。あんたが俺を抱き締めて、背中を摩ってくれたことが凄く嬉しかった」
「…っ……みきっ」
耐え切れずに和弥は手首を掴まれながら、床に崩れ落ちた。
「再会した時、俺はすぐにあんただと気がついたけど、あんたは違った」
もうどうすることも出来ずに、和弥は声に出して泣いた。
今、わかった。君の深い胸の傷。傷つき、血を流している君の心を
───僕が殺した。
「醜く……元の顔もわからないから、あんたが気が付かないのは当たり前だと…頭ではわかっているつもりだった」
だけど、心は違った。懇願するほど、気が付いて欲しかった。優しく頭を撫でた手で、触れて欲しかった。
「…み……み…きっ、ごめん、ご……めん」
謝ることしか出来ない自分は、何て、残酷なことをしてしまったのだろうか。
幹の心を壊したのは、あの父親 ではない───自分なのだ
「本当は、火傷痕を取るつもりなかった。ただ、もし、"醜い"部分を取り除いたら」
俺に気がつくのだろうか。再び優しい笑顔で抱き締めてくれるのだろうか。
どうか、姿に惑わされないで。
複雑な幹の想いを砕くように、美しい姿に戻った幹に、和弥は気がついた。笑いながら、幹は目に見えない涙を流した。森の中で、和弥が優しく抱き締めてくれたのは、幹が醜くなかった からだ。可笑しくて死にそうだった。
自分は彼に再び会う為に、生きようとしたのに。
「もう一度、バケモノに戻ったら、あんたは"好き"なんて言わないか」
静かな問いに、和弥は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。違う、と言いたい。違うと全身で否定したい。だけど、和弥にはわかってしまった。
和弥が壊してしまった幹の心は、元には戻らない。魂が抜けたようにショックで動かない和弥から、そっとカッターナイフを奪い取る。
「あんたの偽りの言葉なんて、もう、惑わされない」
震えながら顔を上げると、和弥は千切れんばかりに目を見開いた。
幹は一滴の涙を流していた。
血涙。身を焦がすほどの嘆き。指先まで痛いと感じる悲しみ。
「……幹っ」
危険だと思った。幹の精神が壊れる。
「もう、嫌だ」
短い一言だった。幹は持っていたカッターナイフの矢先を自分の左顔に向かって大きく振り上げた。腹の底から絶叫した和弥は、無我夢中で飛び出した。
ダメダ
短い沈黙の後、カチャっとカッターナイフが床に落ちた。そして、追い駆けるように赤い血が床に零れ落ちる。のろのろと顔を上げた和弥は、目を瞠って固まっている幹が、どこも怪我していないことを確認すると、安堵の溜め息を着いた。
「……よかった」
心の底から笑った。
「───あんたっ」
愕然とした幹が怒鳴りつけると、乱暴に和弥の両手を掴んだ。和弥の両手は、指紋が見えないほど真っ赤に染まっていた。だが、何故か、痛みを感じない。不思議に思って首を傾げた。…ああ、そっか。
胸の痛みの方が酷くて、体の痛みが麻痺してしまったようだ
自分の顔を切り裂こうとした幹を止める為に、和弥は無防備にカッターナイフを両手で掴んだ。特にカッターナイフの刃を掴んだ右手は、縦長い傷口から溢れんばかりに血が流れ落ちている。
動揺している幹が、懸命に和弥の両手を手当てをする。自分を心配しているその表情に、和弥は切なくなった。
「今、医者を呼───」
「消えるから」
ぼそりと呟いた和弥に、幹は言葉を飲み込んだ。意味もなく微笑んで、和弥は言葉を続ける。
「消えるから。そしたら……」
君は少しでも楽になるのだろうか。
黙り込む幹の頬に触れようとしたが、寸前で血で汚れた指を止める。触れそうで触れない距離。
「もう、お前を苦しめない」
「───」
再び涙が頬を伝った。揺れ動く幹の瞳に優しく笑いかけると、和弥は立ち上がった。幹は動かない。ゆっくり、震えている瞼を閉じると、和弥は踵を返した。その時、乱暴に手首を掴まれた。振り返った和弥を、真摯な瞳が見つめる。幹の指は少し震えていた。
「…這い上がって来いよ」
搾り出すような声。
「……幹?」
震えている幹の指は、和弥の手を離さない。
「もう一度、昔のように…上に這い上がってみろよ」
何を言っているのか和弥にはわからないのに、幹は何かを必死に訴えるように言う。
「もう一度、誰もが妬むほど全てを手に入れてみろよ。富も名誉も…すべて……そしたら、あんたの周りには、沢山の人間が集まる」
才能溢れる人間。容姿が美しい人間。沢山の魅力的な人間が、和弥の周りに集まる。
「……っ…そんなの───」
意味ない。自分には、もう意味ない。どんなに能力があっても、容姿が美しくても、今の自分には関係ない。君以外の人間がどんなに甘い言葉を囁いて近づいて来ても、虫の鳴き声と変わらない。
君以外いらない。何もいらない
わかって貰えないことに、悲しくて再び涙が込上げてきた。どうして、そんな残酷なことを言うんだ。そんなことで君を忘れることなんて、できないのに。
「何十人、何百人…何億人の……どんな人間が現われても───俺が好きなんだと言えよ」
君しか見えない。君だけが好きなんだと。幹というひとりの人間が欲しいのだと。
「俺がどんな姿になっても、俺が好きなんだと、叫べよっ」
「───」
千切れんばかりに目を見開いた和弥は、息を止めた。
「他が目に入らないほど、俺だけを見ろよ」
涙で視界がぼやけた。
「そしたら…そしたら……あんたにすべて差し出すから」
心も体も全て
攫われるように、抱き締められた。
「……み、みきっ…っ」
心が激しく乱れ、体中が引き裂かれたように痛む。
「みき…う…っ」
魂から絶叫が響き渡る。和弥は無心に幹の背中に爪を立てた。廃人だった自分を唯一、抱き締めた背中だ。この想いを証明する為に……君に信じて貰う為に、強くなってみせる。どんなに富や権力を手に入れても、君がいなければ意味が無いんだと、証明して見せる。誰にもこの想いを邪魔することは出来ないだと、嫌になるほど、君に思い知らせてみせる。
誰よりも、愛しているんだと───
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