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第10章
昔々、ある魔法の国に、とても心優しいバケモノが住んでいました。
しかし、並外れて容姿が醜いので、人々はバケモノを酷く苛めていました。傷ついたバケモノは、人々から逃げるように森で暮らし始めました。
そんなある日、深い森の中で、美しいお姫様が迷子になりました。心優しいバケモノは、彼女を助けたいと思いましたが、この姿を見せたら、きっとお姫様を驚かせてしまうでしょう。そう考えたバケモノは、夜を待つことにしました。
太陽が沈み、前が見えないほど暗くなった時、お姫様は闇の恐怖に泣き出しました。バケモノは、慎重にゆっくりとお姫様に近づきます。
───僕が助けるから、大丈夫だよ
「……貴方は、誰?」
闇で顔が見えませんが、透き通ったバケモノの優しい声に、お姫様は少し安心します。
───僕は、ここに住んでいるんだ
「森の妖精さんなの……?」
その質問に、バケモノは答えることが出来ません。悲しそうに笑うと、バケモノはそっと彼女の手を握り締めました。
───こっちから、森を抜け出せるよ
「私を助けてくれるの?」
───うん。だから、大丈夫だよ
「有難う」
心が篭った感謝の言葉に、バケモノは舞い上がりました。生まれてから一度も、人から感謝をされたことが無かったのです。
それから、二人は森から抜け出すまでの間、話をしました。バケモノが語る、森に棲む動物達の話に、お姫様は夢中になりました。握り締めた指から伝わる温もりも、彼の優しさのように思えて、お姫様は徐々にバケモノに心惹かれるようになりました。
「貴方の顔が見たいわ」
お姫様のお願いに、バケモノは足を止めました。
「貴方の顔が見たいの」
───僕は、醜いよ
「どうして、そんな事を言うの?関係ないわ。だって、貴方はこんなに優しいわ」
───本当に……?
「ええ」
力強く頷くお姫様に、バケモノの心は激しく揺さ振られました。今まで人々に疎まれ、愛されたことがなかったバケモノにとって、彼女の言葉は夢のようでした。
「……だから、顔を見せて」
月光の下に、貴方の顔を見せて
怯えながら……ゆっくりと月光の下に、バケモノは姿を見せました。その瞬間、闇を引き裂く悲鳴が、響き渡りました。
「バケモノ!バケモノ!!」
お姫様は叫ぶと、握り締めていたバケモノの手を乱暴に振り払って、逃げ出しました。しかし、お姫様は躓いて転んでしまいました。駆け寄ろうとしたバケモノを、お姫様は拒絶します。
「来ないでっ!!私を食べるつもりでしょ!!」
お姫様の言葉は、いとも簡単に……優しいバケモノの心を壊しました。泣いて拒絶するお姫様に背を向けて、バケモノは走り出しました。
バケモノの深い悲しみを、お姫様はきっと知らないでしょう。
これは、ただの始まり。悲しいお伽話の始まりでした。
+++
その青年が歩くだけで、その美貌に誰もが釘付けになる。人を寄せ付けない雰囲気は、まさにクールビューティを絵に描いたようだ。
切れ長い眼差しを数回瞬きをすると、隙のない手付きで携帯電話を取り出して誰かと話をする。数秒後、携帯を閉まった青年はノックをして会長室に入った。
「要件は何でしょうか、会長」
青年が事務的に尋ねると、日本メディア・コンテンツグループの会長の菊池和彦が、眉間に皺を寄せて振り返った。
「……和弥、二人の時は、父さんと呼べと言っているだろ」
「仕事とプライベートを混合するのは、あんまり好みませんので」
感情を一切見せずに答える青年の名は、菊池和弥。25歳の和弥は歴史ある菊池家の御曹司であり、日本メディア・コンテンツグループ傘下の総合日本テレビ局の営業部に所属するエースである。
「用件はなんでしょうか」
「……」
もう一度尋ねる和弥の声は、冷淡だった。過去の、一時も父親の傍から離れようとしなかった子供の面影はない。
7年前、独占禁止法違反の罪で捕まった和彦だが、何故か和彦だけが嫌疑不十分で不起訴となって釈放された。経済界に返り咲いた和彦を待っていたのは、変わり果てた一人息子の和弥の姿だった。
和弥は顔色ひとつ変えずに「戻って来たんだ」と無感情に呟いた。あれほど自分に懐いていた息子の豹変に、和彦はしばしば言葉を失って固まった。和彦が拘置所に収容されている時、和弥は半年近く行方不明になっていた。
和彦は拘置所から、部下や探偵に捜索させたが見つけれなかった。そして、和彦が釈放される時期と重なるように、前触れもなく、突然家に戻った和弥は何も語らずに勉強を始めた。
何かに取り憑かれたように一心不乱に勉強をした和弥は、その年度の予備試験に合格した。そして、次の年度では日本最高峰の国立大学と司法試験の両方に合格した。
むやみに生き急ぐ息子の姿に、和彦は漠然とした不安を感じた。
周囲の人間を黙らせる実績だが、和弥は再び集まり始めた周囲の賞賛や羨望には、何ひとつ反応しなかった。大学の経済学部を卒業後、和弥は総合日本テレビ局に入社した。
正直、和彦は和弥がメディア業界ではなく、医療業界に就職すると危惧していた。部屋の本棚にいっぱいに詰め込まれた医療関係の本。特に、医療経済学に興味があるようだった。病院を作ろうとしているのか。何を聞いても何も答えない和弥は、大学卒業と同時に一人暮らしを始め、一切実家に寄らなくなった。
「昨日、畠山先生から電話があった。今すぐ、あの件を消しなさい」
数日前、未成年者売春の現場を、総合日本テレビ局が抑えた。売春相手の大物政治家の畠山は、菊池家の身内なのだが、和弥は躊躇いなく報道しようとしている。
「証拠はあります。それを嘘だと証明出来るのでしたら、この件は取り下げますが」
どうでしょうか、挑発するような口調に、和彦は奥歯を噛み締めた。
「お前は、私に刃向かう気なのか」
「刃向かっているつもりはありませんが、もし、そう思われるのでしたら、私をクビにしては如何ですか。会長 」
和弥は冷たく言い放つ。今では、スポンサーに圧倒的な支持を受けている和弥を、クビに出来るはずもない。特に、今加グループ傘下の企業に対して、様々な権利事業やWeb事業を成功させている。ただ、理由はわからないが、和弥は異様に今加グループに拘っていた。
何故なのだ。何が起こってこんなことになってしまったのだろうか。和彦にはわからない。何故ここまで息子の和弥が豹変したのか。一体、何が……!
「───私を恨んでいるのか」
突然の弱々しい和彦の問いに、和弥が器用に右の眉毛だけを少し上げた。和弥は何も答えない。
「私が捕まっている間、本当にお前には苦労をさせたと思っている」
「私は貴方を恨んでいませんよ」
「じゃあ───」
「私はただ、全てのトップに立ちたいのです。その為には、貴方のやり方では無理だと悟っただけです」
迷いなく断言する和弥の瞳は、鋭く光っている。実の息子に屈辱された和彦は、咄嗟に傍にあったコップを掴んで投げ付けた。
無難なく和弥が避けると、コップは壁にぶつかって割れ落ちる。
「……出て行け」
怒りを抑えた声は震えている。和弥は顔色一つ変えずに会釈すると会長室を出ていた。
+++
会長室を出ると、和弥は呆れたように溜め息をした。もう何回も争いを繰り返している。いい加減うんざりだ。
どれだけ説明をしても、父親の和彦は理解してくれない。父親を恨んでいるわけでもなく、ただ力が欲しいだけ。その為には、和彦は邪魔だ。答えはとてもシンプルで簡単なのに、和彦は認めようとしない。
軽く舌打した和弥がネクタイを緩めると、幼馴染みの片岡秀が壁に凭れながら待っていた。大手不動産企業の後継ぎに関わらず、2年前、秀はこの会社に転職した。
「俺をまた、ストーカーするつもりか」
和弥が吐き捨てると、秀は近づいて来た。
「また、おじさんと言い争っていたのか」
「お前もしつこいな。俺のことには、もう首を突っ込むなと言っているだろ」
無視して通り過ぎようとすると、秀は乱暴に和弥の肩を掴んだ。
「お前、戻ってきてからおかしいぞ。何を考えているんだよ」
漸く菊池家に戻ったと思ったら、和弥は己を殺すほど仕事に熱中した。周りが見えないほど仕事をし、邪魔する者を力で跪かせた。
実際、和弥のやり方は荒っぽいものだった。大物政治家も恐れぬ暴露は世間には支持されるが、間違えれば命取りだ。
確かに、今は和弥の方が一枚上手だが、いつ殺されてもおかしくない状況が続いている。
秀は過去、和弥に栄光と誇りを取り戻せ、と言った。言ったが、和弥の目的が、本当に昔の栄光を取り戻す為なのか、秀には判断出来なかった。
「苦しい時の神頼み」
「は?」
突然の言葉に、秀は間抜けな声を出してしまった。
「苦境に陥った時だけ、神に祈ることだよ。普段は見向きもしない」
「それが?」
不思議な笑みを浮かべた和弥は、真っ直ぐと秀を見据える。
「そんなことで、神に信仰心を信じて貰えると思うか?」
「お前、何の話をして───」
「絶望のどん底だろうが、幸せの絶頂だろうが、いつも祈らないと、信じて貰えないんだよ」
秀にはさっぱり意図が理解できない。困惑する。
「俺は信じて貰う為に、今、生きている」
「……?お前、神様を信じていたか?」
「いいや。神様は信じていないし、愛してもいない」
「?」
混乱する秀が眉間に皺を寄せると、耐え切れずに和弥は声にだして笑った。
全てを手に入れることが出来ても、君がいなければ意味がない。全てを失ったから、君を求めているのではない。
それを証明する為だけに、今の和弥はいる。
「和弥……」
「───お前は、まだ使える男だよ。だけど……これ以上、余計な口出しするようなら、お前は必要ない」
思い通りに動かせない人間は、いらない。
「……っ!」
下唇を噛むと、秀は血が滲みでるほど強く拳を握り締めた。悪魔と思わせるほど、美しく残酷な微笑を浮かべる和弥を、憎しみ込めて睨む。
微笑を冷笑に変えると、和弥は背を向けて歩き出した。
+++
目的のカフェを見つけて入ると、先に来ていた男が手を上げて和弥の名を呼んだ。
「悪い、遅れた」
和弥は口では謝罪するが、心が篭っていない。嫌そうな顔をした男は、大藤祥一。和弥と同じ年であり、官僚の父親を持ちながら親の反対を押し切って、僅か1回で超難問の国家公務員試験I種合格を果した本庁キャリアである。事件になると頭が冴え、無駄なく事件を解決する。それは和弥も認めるが、この男は超エリート刑事と思えないほど、無鉄砲で無神経なところがある。無神経な男が最も嫌いな和弥にとって天敵だったはずなのだが、何故か、今では時々会う仲になっている。
無神経で何でも思ったことをはっきりと話す祥一は、言い換えれば、裏表が無かった。過去の学生時代の仲間と比べれば……考えてみれば、マシだ。
「あの書類は?」
刑事の祥一とメディア業界で働く和弥は、何かとお互いに情報を交換している。
ふと見渡しても、祥一は何も持っていない。嫌な予感に眉間に皺を寄せると、祥一は「悪い、忘れてきた」とちっとも反省していない口調で答えた。このいい加減なところが、どうしても好きになれない。
「そう言えばさあ、幹から連絡来ているか?」
「……」
やはり、無神経な男は好きになれない、と再度確認した。
「どうしてるかなぁ。もう7年以上も会ってないんだよな」
しみじみと話している祥一を見て、和弥は顔を少し伏せた。
今加幹
ほんの僅かの間だけ義理弟だった幹は、7年前、養父の雪隆と一緒にドイツに行ってから、行方が掴めていない。
唯一の親友だった祥一にも、幹は連絡をとっていないらしいが、祥一は特に気にしていなかった。祥一に言わせれば「あいつの人生だ」とあっさりとしている。淡白な関係に見える二人だが、お互いを大切にしていることを、和弥は知っている。
当初、和弥は、祥一が幹に特別 な想いを抱いていると思っていた。だが、こうして付き合ってみると、少し違う気がして来た。
以前、ある報道で祥一に確認する為に呼び出した時、深夜だったせいか、祥一は背の高い男に車で送って貰っていた。
物静かで端整な顔立ちの男は、優しい瞳で祥一を見つめていた。その優しい眼差しの奥に秘めいている想い。一目瞭然なのに、男が気の毒になるほど、鈍感な祥一は気がつかない。
だが、不可解なこともある。何でも陽気に話す祥一だが、その男については一切話さない。それは、まるで大切な玩具だけは隠す子供のようにも思えた。……いずれにせよ、鈍感な祥一に惚れた男が苦労するのは目に見えていた。
ふと顔を上げると、何故か祥一は暗い瞳でガラス越しに雑踏を見つめていた。
思い詰めた表情はいつも明るく正義感に溢れている祥一に、不似合いだ。小首を傾げて名を呼ぶと、祥一は少し悲しそうに笑った。
どうして、そんな表情をする?
「昔に戻りたいと思うことあるか?」
祥一の質問は、小さい棘になって胸の奥に刺さる。
「なんだ、いきなり」
「俺は昔、絶対にお前は許せない、と思っていた。だけど、当の幹があんな感じでさ、俺には何も言えなかった」
過去、散々、祥一に罵られたが、今は否定せずに黙る。
「お前が今、命を削るほど仕事をしているのは、幹が関係するんだろ」
髪が揺れるほど勢いよく顔を上げると、祥一は優しい瞳をしていた。
「今のお前を見ていると、痛々しいわ」
短い沈黙が流れる。
「お前、幹を愛しているんだろ」
誰に対しても警戒心を解こうとしなかった和弥の頭を、撫でるように軽く叩く。その仕草が、ピリピリしていた和弥の心に触れた。
決して理解し合うことはないと思っていた祥一が、今の和弥を一番理解していた。
祥一を騙せると思っていないし、隠す必要もなかった。
「……ああ」
自分で驚くぐらい、あっさりと和弥は認めた。
「お前は強いよ」
そう呟く祥一を見つめ、和弥は眉間に皺を寄せた。
「最近のお前は気持ち悪い。そんな思い詰めたような表情、全然似合わん」
憮然と言い放った和弥だが、一応、慰めているつもりだ。しかし、あんまりにも高飛車な態度なので、誰もそれに気が付かない。
「俺さ、よくわかんねんだよな」
「何が」
「誰かを好き になる感情が、よくわかんねえ」
真剣に困った顔をした祥一に、和弥は軽く肩を竦めた。
「お前、あの男に告白されたんだろ」
「なっ!!」
思っても見なかった和弥の言葉に、祥一は愕然になって腰を浮かした。突然の祥一の叫びに周囲が二人に注目する。軽く咳払いして、己を落ち着かせようとする祥一が、可笑しくて仕方がない。意地悪く目を細めて、和弥は言葉を続ける。
「まあ、あんまりにもお前が鈍感過ぎて、かなりイライラしてたんだろうな」
「……なんで、理人の事を知っているんだよ。俺は話したことなんか、ないぞ」
「ふーん。理人と言うんだな」
祥一はしまったと言わんばかりに顔を赤くした。陽気な話し方に騙されるが、祥一は意外にも感情の起伏が少ない男だ。それが、視線を泳がせている。
「何を、そんなに慌てているんだ」
「あ…あいつ……は」
「声がひっくり返っているけど」
「うっせいっ」
唾を吐くほど怒鳴りつけた後、祥一は漸く冷静さを失っている自分に気が付き、深く息を吸って落ち着こうとする。
「で、お前、その男の告白を断ったんだ?」
「……あいつは、生まれた時からいた兄弟みたいな感じだし」
「断ったんなら、別に気にしなくてもいいだろ」
まさか、祥一の相談にのる日が来ると思ってもみなかった和弥だが、祥一の弱点を見つけたようでニヤリとする。ただでさえ、幹のことで祥一には弱点を知られている。
「理人の奴、俺の目を見なくなった」
「……?」
何故、突然、話がそっちに行く?首を傾げると、祥一は余程ショックだったのか、思い出して俯いた。
なるほど、と和弥は笑みを深めた。他人の感情に鈍感なだけではなく、自分の感情にもこの男は鈍いようだ。
「恋愛対象として見れないけど、その男が離れるのは嫌。そう言うことなんだろ」
「───」
黙り込む祥一に、和弥は溜め息を着いた。
「お前って、結構、残酷だよな。そんな中途半端な関係、その男にとって地獄に近いけど」
「っ……俺は───」
祥一は、和弥を睨みつける。
「応える気がないなら、そいつを離してやれよ」
真剣に、男に同情した。
「出来ない」
迷いのない祥一の言葉に、和弥は目を瞠る。
「祥一」
「理人が離れるのは、嫌だ」
まるで子供である。呆れたが、それだけ祥一にとってその男は『特別』と言う意味なのだ。
「お前、そんなことをしていると、手遅れになるぞ」
容赦のない言葉に、祥一が黙り込む。その時
「祥一様」
突然、背後から名を呼ばれた。その声に驚いた祥一と和弥が振り返ると、凛とした雰囲気の男が立っていた。その端整で優しい顔立ちした男は、まさに先ほど二人が話していた上倉理人だった。突然の登場に、祥一が表情を強張らせると、男は視線を和弥に移して会釈をした。
「なんで、お前がここにいる」
ぶっきらぼうな祥一の言葉に、男はふわりと笑みを浮かべた。
「これを届けに参りました」
差し出した封筒に、祥一はあっと驚いたような声を出した。今日、和弥に渡すはずの書類だ。
理人は大藤家に仕える使用人であり、昔から祥一の世話をしていた。
「……悪かったな。わざわざ」
「いいえ。では、私はこれで失礼させて頂き───」
男が踵を返した時、祥一はその腕を掴んで止める。
「祥一様?」
「今日の晩、時間あるか。久しぶりに一緒に食事に行かないか」
搾り出すような声に、男は少し黙り込んだ後、「申し訳御座いません」と断った。
「今日は、別の方と約束があるのです」
「誰だ?」
咎めるような低い声に、理人は暫く黙り混む。そして「祥一様の知らない方です」と静かに答えた。表情を強張らせた祥一が手を離すと、再び男は会釈をして踵を返す。が、無意識に祥一はもう一度その腕を掴んだ。不思議そうに振り返った男を、鋭く睨みつける。
「俺も今、帰る。送ってくれ」
「え……しかし」
ちらりと和弥を横目で見て、男は困った顔をした。和弥は肩を竦めて立ち上がる。
「俺は、もう帰りますので」
無表情で言うと、和弥は封筒を掴んで店を出た。残された二人は暫くの間、何も言わずに再び黙り込んでいた。
+++
ベンツの後座席で、和弥はだらだら進む渋滞をガラス越しに見ていた。このままだと、昼の1時の新幹線に間に合わなくなり、大阪の会議に遅れてしまう。
「申し訳御座いません。和弥様」
昔から菊池家に仕えている運転手の鎌田が、何回も謝る。
「渋滞はお前のせいじゃないだろ。謝るな」
呆れるように言うと、鎌田は小さい声で「はい」と返事をしたが、バックミラー越しにじっと和弥を見ている。
「何だ?」
「いいえ。少し、雰囲気が変わられたと思いまして」
昔の和弥は手におえないほどの我が儘だった。それこそ、雨が降るのはお前のせいだと、使用人をクビにしたほどだ。
「それは、嫌味のつもりか?」
「滅相もありませんっ。すみませんっ。余計な事を」
慌てる鎌田に、和弥は小さく笑った。
「別に怒っているわけじゃねえよ」
「恐れ入ります」
「ここから歩くと、どれくらいかかるんだ?」
「多分20分程ですかね」
「じゃあ、走れば10分ぐらいだな。わかった。俺はここから走るよ」
「え!和弥様!」
驚いて呼び止めるが、既に和弥は車を飛び出していた。有り得ない行動に、鎌田は唖然となる。
久しぶり走った。息を乱しながら改札口を通り過ぎて4番ホームに上ると、既に出発アナウンスが流れていた。
止まらずにそのまま乗り込んで、和弥はデッキで短い溜め息を着いた。それと同時に反対側の2番ホームに上りの新幹線が到着する。何気なく、新幹線から人が降りるのを見た後、身を翻した瞬間
和弥
幻聴が聞えた。驚いて振り返った瞬間、目の前でドアが閉まる。出発する新幹線の中で、和弥は確かにそれを視界に捕らえた。
雑踏の中で、呆然と立ち尽くす男の姿を。
息を詰めて、和弥は千切れんばかりに目を見開いた。荷物を乱暴に投げ捨てると、ドアを拳で叩く。だが、ドアは開かない。
「開けろっ!」
腹の底から怒鳴りつける。騒ぎに気が付いた複数の乗客がデッキを覗き込んだが、和弥は注意を払わなかった。新幹線は予定通りに走り出す。遠ざかる男の姿に、和弥は下唇を噛み切った。
この7年間、身を焦がすほど求めていた。いつになったら、会えるんだと不安で眠れなかった。
幹
喉が裂けるほど、絶叫する。
ホームが見えなくなると、和弥は呆然と地面に座り込んだ。間違いない。一瞬たりとも忘れたことがない男だった。拳を握ると、勢いよく立ち上がって携帯を取り出す。
「秀、俺だ」
『どうした、新幹線に間に合わなかったか?』
「のぞみ185号を次の駅で止めろ」
『はあ?お前、何───」
「のぞみ185号を小田原で止めろと言ってるんだっ!」
『───』
怒鳴りつける和弥は、もう冷静さを失っている。
『……何があったが知らないが、無理だ。その列車が次に止まるのは、名古屋だ。それまで我慢しろ』
反対に冷静な秀の言葉が、余計に和弥を苛立たせる。頭が爆発しそうだ。前髪を引き千切るほど強く握り締める。
「マスコミに、この新幹線に爆弾が仕掛けてあると通報させろ!だから、早く、この新幹線を止めろっ!!」
『……お前───』
滅茶苦茶な命令に、秀は絶句するしかない。
「30分だ。30分以内にこの新幹線を止めねえと、お前はもう必要ない」
急に押し殺した声は、凍るほど冷めている。電話越しの迫力に、秀は唾を飲み込む。
「お前は使える男だ。だけど、役に立たないなら」
もうお前は必要ない。
「俺は気が長くない。出来ないと言うなら、他の奴にやらせる」
『……わかった』
消えるほど小さい声。その返事を聞いた途端、和弥は何も言わずに突然携帯を切る。親指の爪を噛みながら、ドアの外を睨みつけるように見つめた。
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