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第12章

次に今加幹に会ったのは、それから2週間後だった。 強引に「スポンサーからディナー券を貰ったから」と口実を作って電話をすると、幹は少し考え込んだ後に「わかった」と誘いを受けた。電話を切ると、掌に汗が滲み出ていたことに……自分が緊張していたのだと初めて気が付いた。 スマホを見つめる。不思議なことで、幹にスマホを渡してから、以前に感じた焦りが少し軽くなった。電話をすれば繋がる。そう思うと、毎日鬱陶しいだけのスマホが、一番の宝になってしまった。 「悪い、待ったか」 肩で息をする幹は、菊池和弥に頭を下げる。急いで来てくれたことに、和弥は嬉しくなった。 「急患者だったのか」 青山の一等地に構える人気高級レストランに一緒に入りながら、和弥はちらっと幹を見上げる。幹が店を気に入るか、少し気になったが、幹はラフな格好で入っていいのか、少し戸惑っていた。和弥は「気にするな」と幹の腕を掴んで入る。もし、幹に何かを言うならば、あらゆる権力(ちから)を使って店ごと潰してやる。───恋に盲目の男はたちが悪い。 「昨日手術したばかりの患者が急に体調を崩した」 「もう、大丈夫なのか」 案内された窓際席に着くと、幹は小さく頷く。ホッと安堵する和弥に、幹が笑った。笑われたことに気恥ずかしくなっていると、料理長が挨拶に来た。邪魔をされたくない和弥は「お薦めコースで」と素早く料理長を追い払う。 「外科医になろうと思う」 ソムリエが注ぎ入れる赤ワインを見つめながら、幹がぼそりと話す。和弥は静かに幹の言葉を待つ。 「色んな診療科で研修したけど、その時、心臓外科の教授に外科医を勧められて」 幹は右手を持ち上げて、指を広げる。 「よくわからないけど、外科医に適した指だと言われた」 「……眼識がある教授だな」 和弥は子供のように笑う。 「昔、お前、森の中で、器用に綺麗な形の花冠を作ってくれただろ。あの時、感動したのを憶えているよ」 少し目を開いた幹の掌に、和弥は触れそうな、ギリギリの距離で自分の手を重ねる。 「───お前なら、いい外科医になるだろうな」 迷いなく断定する和弥は、得意げな顔で幹を見る。 「努力家でお人好しのお前が、毎回、患者や患者の家族に振り回される未来が見えるよ。……でも、きっとお前は最後まで一生懸命、寄り添うだろうな」 幹が担当する患者は、世界一幸運な患者に違いない 幹と毎日会えるなら、自分がその患者になりたいぐらいだ、そう胸の中で付け足す。よし。設立する医療法人には、外科手術に必要な、最新の医療機器を全て揃えよう。 「……」 視線を窓の外に逸らした幹は、暫く黙り込む。 まもなく前菜が運ばれ、和弥がワインを飲むと、幹に突然名を呼ばれた。 「あんたは?あんたの話を聞かせろよ」 「───」 和弥は勢いよく顔を上げる。誠実な眼差しは、痛いほど和弥の胸を締め付ける。 「俺は───」 君の傍で一緒に働きたい。それだけが目標だった。 告げることができない言葉をのみ込んで、和弥はそっぽを向いて誤魔化そうとする。その時、不図に覚えのある男の姿が目に飛び込んだ。もしかして、と思った途端、和弥の表情が歪んだ。和弥の異変に幹も振り返ると、和弥の幼馴染みの片岡秀が煌びやかな女と一緒に、入口付近に立っていた。 「秀…」 和弥は苦虫を噛み潰したような顔で、幼馴染みの名を呟く。最悪だ。 過去を消したい和弥にとって、秀は昔から幹に会わせたく相手だ。秀も、和弥と一緒にいるのが幹だと気が付くと、明らかに顔を強張らせた。長い沈黙が続くと、女が「新人のモデルなの?紹介して」と秀の耳元でそっと囁く。彼女は今、最も旬な若手人気女優だが、素人離れの幹と和弥の容姿に、半ば感嘆の声を漏らす。秀は彼女に返事を返さずに、幹を鋭い目つきで見る。 「最近、お前が仕事に集中していないと三浦から苦情を言われたけど、これ(・・)が原因というわけか」 薄ら笑いを浮かべて、秀が痛烈に皮肉る。和弥はカッとなって、秀を睨み返した。 「お前には関係ないだろ、あっちに行け」 秀が幹に敵意を持っていることを知っているし、過去の自分の悪事を暴露されるかもしれない。和弥は必死に追い払うが、秀は目元にかかる前髪をかきあげて、図々しく言い放つ。 「折角の再会だ、4人で一緒に食べようぜ。なぁ?」 なんだと、と怒鳴りつけようとしたが、女が「素敵!」と喜んで、目にもとまらぬ速さで幹の隣に座った。癪に障った和弥が彼女を睨みつけている間に、今度は秀が和弥の隣の席に着く。 「秀っ!…てめえ」 「早く座れよ。周囲の迷惑になると思うけど」 納得がいかない和弥は唸るように奥歯を噛んで、腰を下ろした。全員が席に着くと、秀は"日本国民の恋人"と謳われる美女に話し掛けられても、表情ひとつ変えない幹を凝視する。 幻想的な美貌は見る者の視線を奪う。この男がバケモノだったことを、もう誰も知らない。 膝の上で、秀は拳を握り締めた。 「お前、ドイツにいたらしいな。向こうでは、恋人はいたのかよ」 その()だとモテただろう、意味深に強調する秀に、和弥は腰を浮かした。 「てめえっ!」 激昂した和弥は咄嗟に秀の襟元を掴んだが、秀は笑みを浮かべたまま平然とする。殴り殺してやる、と和弥が拳を上げた時 「ねえ、何のこと?」 場の雰囲気を読まない女は無神経に、幹に訊ねる。和弥が「このクソ女っ」と胸の中で罵倒した隙に、秀は乱暴に和弥の手を振り払う。そして、白い歯を見せて、秀は彼女に囁く。 「彼はさ、君と同じように()を変えたんだよ」 女が「凄いわ!めちゃくちゃ腕のいい医者じゃない」と羨望の声を出した時、和弥の忍耐袋が切れた。テーブルの上のフォークを掴んだ時、幹がぐっと和弥の腕を掴んで止める。ハッとなって振り向くと、幹が無言で和弥を見つめていた。 「俺さ、昔、和弥と賭けをしたことがあるんだよ」 「何を賭けたの?」 興味津々の女に細く笑む秀に、和弥は血の気が引いて顔面蒼白なる。狼狽する和弥をチラッと見て、幹は秀に視線を移す。秀は人差し指で幹を指した。 「お前が転校して来た時にさ、お前を落とせるか、和弥と陸で賭けをしたんだよ。俺は100万ぐらい賭けたけど……お前はどうやら、今、まんまと引っかかったようだな」 「………っ」 暴かれる、和弥の過去の暴挙。額に冷や汗が薄っすらと浮かぶ。 ───怖くて、幹の顔が見れない 関係が改善された、と喜んだ矢先、切り壊される。事実だからこそ、何も言い返せない。先程までの勢いは失われ、和弥は尻込みする。 「昔から、和弥はお堅い奴を落とすゲームが好きなんだよ」 和弥は血が滲み出るほど爪を肉に立てて拳を握り締めた。何か言い返さないと、幹に…幹に誤解されてしまう。なのに、反論の言葉が出ない。膝だけでなく、体中が震え、上手く唇が開かない。 無表情の幹と、血の気のない顔の和弥。嘲笑うと、秀は和弥のグラスを奪い取って、一気にワインを飲み干す。 「和弥はセックスが出来ると直ぐに興味を無くすから、気を付けろよ───今度、みんなでヤろうぜ」 お前は男に抱かれる方が似合いそうだ、そう愚弄する秀の指が幹の右手に触れようとした時、幹は乱暴にその手を振り払った。 「悪いけど、俺は人に触れられるのが嫌いだ」 背筋が凍るほど、冷たい声。まるで、自分が言われたような錯覚を覚えて、和弥は泣きたくなる。 「それは、悪かったな」 秀が外国人のように大げさに肩を竦めると、幹がすっと立ち上がった。驚いて見上げると、幹は無機質な表情だった。先程まで見せてくれた笑顔は、どこにもない。呼び止める隙も与えず、幹は和弥を置いて立ち去った。突然のことに、和弥は息を飲み込む。 7年の月日をかけて、漸く……名前を呼んでくれるようになったのに。 「あはは。怒って帰ってしまっ───」 振り返った秀は、一瞬にして言葉を飲み込んだ。ゴクリと唾を飲み込む。僅かな1mm、秀の目の先にフォークの刃がある。少しでも微動すれば、間違いなく目玉に刺さる。和弥はぞっとするほど暗い瞳で、幼馴染みを睨み付ける。このまま、突き刺してやりたい衝撃を寸前で抑える。必死の感情を抑えつけようとしているのか、ファークを握り締めている和弥の腕が微かに震えていた。女も悲鳴を上げることが出来ずに、恐怖で凍り付く。 「…今度、幹を侮辱してみろ、俺がお前の顔を引き裂いてやる」 地獄の底からの響くような低い声に、秀は背筋がゾクッと震えた。 「くそったれっ」 吐き捨てると、和弥は力一杯、フォークをテーブルの上に投げ捨てた。それでも怒りが収まらないのか、テーブルの脚を乱暴に蹴ると、和弥は踵を返して走り去った。 レストランを飛び出すと、既に幹の姿は見当たらなかった。悲しくなって、涙が滲み出た。過去の自分が、誰よりも憎い。必死に追いかけようとしても、過去の亡霊が足を引っ張る。 涙腺が緩み、必死に拳を握り締めて耐え忍ぶ。泣くな。こんなことで泣くな。幹を探して……今は違う、と説明をするんだ。少しでも早く見つけて、土下座をしてでも信じて貰う。だから、こんなところで泣くな。早く、幹を───だけど、胸が痛い。苦しい。 「和弥」 地面に屈み込みそうになった時、背後から名を呼ばれた。髪が乱れるほど勢いよく振り返ると、レストランの入口の横に幹が立っていた。 「…み……き」 声が震える。 「あんたが追いかけて来ると思ったから、先に出た」 はにかむように、幹は微笑する。 「折角の夕食を台無しにして、悪かったよ。代わりに、俺が奢るから、違う店に行こう。誰にも邪魔されずに、あんたの話を聞きたい」 何もなかったように話す幹に、和弥の視界がぼやけた。また、泣き虫だと言われてしまう。そう思って必死に涙を堪えた。そんな和弥に、幹は静かな足取りで近付いた。 「そんなに不安になるなよ。ちゃんと分かっているから」 俯く和弥の頭をポンポンと撫でるように叩く。堪え切れずに、和弥は幹の胸に縋り付いた。これは、嬉しい涙だから、泣いてもいいだろうか。少しの間だけでもいいから、泣いてもいいだろうか。肩を震えさせる和弥を、幹はそっと抱き締めた。 それから、二人は駅近くの一軒の居酒屋に入った。店内はお世辞にも清潔とは言えないし、冷凍食品を使ったような味は美味しいとも言えない。だけど、あの高級レストランとは比べ物にならないほど、美味しく感じた。高いとか安いとか、そんなこと、関係なかった。誰と一緒に食べるのか、それによって味は、雲泥の差になる。和弥は人生で初めてそれを知った。 +++ 片岡秀が戸を叩かずに入ってくると、和弥は露骨に不快そうな顔をした。 「今度、ノックなしに入ったら、追い出すぞ」 鋭く睨み付けると、和弥は再びノートパソコンの画面に視線を戻した。秀は大股で近づくと、乱暴に封筒を机の上に叩き付けたが、和弥はぴくりとも反応しない。それが余計に、秀の神経に障る。 「これ、なんだよ」 封筒からはみ出た紙には、人事異動の文字が印刷されている。 「質問があるんなら、人事にしろ。ここは営業部だ」 いけしゃあしゃあと答える和弥に、秀がイラっとする。 「今は7月だ。人事異動なんておかしいだろうが」 「だから、人事部に聞けと言っている」 あくまでも惚ける。 「お前が仕組んだだろ」 耳鳴りするほど怒鳴りつけられ、和弥は溜め息をついて視線を上げた。 「それで?何?」 うざい、と和弥の眼差しが語る。軽蔑の眼差し。秀は屈辱に拳が震えた。出社したら、本社の営業部から関西マーケティング部への人事移動命令が机の上に置いてあった。秀は、昔のように……和弥と一緒にいる為に、親の会社からこのテレビ局に転職した。周囲の猛反対を押し退けてまで、秀は高校の時におかしくなってしまった和弥との関係を修復しようとした。だが、修復するどころか、関係は徐々に狂っていく。原因に心当たりがあるから、余計に頭にくる。 人間の姿に化けた、あのバケモノだ。 「嫌なら、自分の会社に戻れば?」 秀が顔を上げると、和弥は薄っすらと冷笑を浮かべていた。 「言ったはずだ。俺の邪魔をするなら、お前はいらないと」 幼い頃から一緒にいた幼馴染みですら蔑む和弥の微笑は、まさに悪魔だ。 「出て行け、仕事の邪魔だ」 薄情な声で切られる。和弥が再びノートパソコンに視線を戻した時、秀は無言で近付いた。 「出て行け、と言っている」 鋭利な眼差しに睨まれながら、秀は突然、和弥の襟元を掴んだ。驚いた和弥がその腕を振り払おうとするが、秀は強い力で和弥の細い腰を引き寄せた。 「離せ───んっ!?」 悪魔の唇を塞いだ。和弥は腕を突っ張って覆い被る胸を押し退けようとするが、秀が構いなしで下半身を和弥のそれに押し付ける。顔を背ける和弥の顎を掴んで口を開かせ、ねっとりとした舌を入れた時 「や…やめろ───っ!!」 次の瞬間、和弥は全身の力を込めて、秀の腹を足で蹴り上げた。その勢いに秀は後ろに吹っ飛ぶ。 「ざけんなっ」 腕で乱暴に唇を拭うと、和弥は腹立しく床を数回蹴った。 「気持ち悪いことするんじゃねえよっ!!」 下品だと知りながら、和弥は何回も床に唾を吐き捨てた。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。全身でそう訴える和弥に、上半身を起した秀は渇いた笑い声を出す。その笑い声に、和弥の怒りが頭の天辺まで昇った。 「てめえ…っ」 「お前もただ、あいつとヤりたいだけなんだろ」 その言葉に、和弥は動きを止めた。 「お前は昔からそうだ。綺麗な奴を見ると、ヤりたくて仕方がない。拒めば、拒むほど燃え上がるもんな」 はっと吐き捨てると、秀は痛む腹を抱えて立ち上がった。 「お前は勘違いしているよ。今加は、呪いが解けた王子様ではなく、人間の姿に化けた醜いバケモノだよ」 それでも幹を侮辱する秀に、和弥は鋭い視線を送る。 「出て行け。二度と俺の前に現われるな」 吐き捨てると、秀は気味の悪い笑みを浮かべた。 「いつか、バケモノは、バケモノの姿に戻る」 予言するような言葉。和弥はすっと目を細める。 ───その瞬間、和弥(おまえ)の恋も冷める 「一秒以内に出ていかねえと、ぶっ殺してやる」 「ははははっ」 自暴自棄のような笑い声を残して、秀は部屋を出る。その後ろ姿を睨みつけて、和弥は唾を吐き捨てた。 +++ 毎日でも会いたいが、大学附属病院に勤務する幹は多忙だ。それでも、何かと口実を作って会おうとする和弥に、幹は何も言わずに、出来るだけ会いに来てくれた。そうしている内に、最初の頃は和弥の方が頻繁に電話を掛けていたが、暫くして幹からも電話をかけるようになった。初めて幹から電話を貰った時、和弥は飛び上がるほどの嬉しさに、目眩を感じた。 そんなある日、和弥はいつもと同じように、苦しい口実を作って幹を食事に誘った。今日は早く仕事が終わりそうだから、そう言うと、暫く電話の向こうで幹が黙り込んだ。もしかして、迷惑なのだろうかと心配になると 『俺の家に来るか。いつも、あんたに奢って貰っているし。適当に何か作るけど』 歓喜のあまり、和弥は電話越しなのに、コクリコクリと何度も頷いてしまった。 「お、俺、俺、ワインを持っていく」 嬉しさに声が微妙に高くなる。そんな和弥に可笑しくなったのか、幹が笑う気配。 時短勤務の社員に紛れ込んで4時に退社した和弥は、馴染みのイタリアンレストランで貴重な年代物のワインを譲って貰った。浮く足取りで教えて貰ったマンションに着くと、エプロン姿の幹がドアを開けて出迎える。なんだか、照れながらワインを渡すと、幹は「ありがとう」と小さく笑った。初めて入った幹の部屋は、昔と変わらずにシンプルで物は少ない。本は沢山あるが。 「祥一も誘ったけど、今、山場らしくて、来れないと電話があった」 グラスを準備しながら、幹が話す。 自分だけが招かれたのではないと知って、ガクリと肩を落としたが、祥一が来ないと言うなら嫉妬する必要もない。 テーブルの上を見ると、イタリア料理が並べられていた。過去、一緒に住んでいた時、幹はよく和食を作っていたけど、和弥がワインを持っていくと言ったからなのか、今日は珍しくイタリア料理を作っていた。 準備を終えた幹が席に着くと、和弥も向かいの席に着く。ワインボトルを開けて、乾杯をしようとした時、幹が何かを思いついたように立ち上がった。そして、幹は小さい箱を持って寝室から戻ってきた。 「食事を始める前に、渡そうと思って」 意味も分からずに、差し出された小さい箱を開けると、腕時計が入っていた。 ───昔、売った母親の形見だ 衝撃に和弥が勢いよく顔を上げると、幹はシルバーのネックレスをTシャツの首元から取り出した。昔、和弥が幹の誕生日プレゼントに送ったネックレス。母の形見の腕時計を売ってまで、買ったネックレス。 ピエタのネックレス 息を詰めると、幹は「これ、あんただろ」と言った。 「これを貰った日、あんたは腕時計をしなくなった」 匿名で贈ったのに……気が付かれていると思ってなかった和弥は、言葉を失う。 「寝る時も付けていた腕時計が突然、なくなっていたから」 胸が震え上がる。 「次の日、このお店に行って聞いた。そしたら、やっぱりあんただった」 何故、幹はこんなに簡単に、自分の心を揺さ振るのだろうか。 幹は和弥からの贈り物だと知りながら、そのネックレスをずっと使っていた。 「腕時計を売るとしたら、店の近くの質屋だと思って探してみた」 どこの質屋か分からずに、歩き回って探す幹の姿が脳裏に浮かんで、胸が張り裂けそうになった。 「直ぐに渡せばよかったんだけど、タイミングを逃してしまって……悪かった」 そんなこと、構わない。全然、構わない。 目元が熱くなって、涙が零れそうになる。切なさに顔を歪ませた和弥に、幹は優しく笑った。 「初めて、森であんたに会った時もそうだったな。俺が泣いていたのに、最後には何故か、あんたの方が泣いていた」 幹がテーブルの上に手を差し出した。 「手、出せよ」 言われたまま、和弥はゆっくりと右腕を出した。幹が触れた皮膚から焼けるように燃え上がっていく。無言で幹は腕時計を和弥の腕に付けた。涙が一滴、頬を伝う。 神様。お願いだから、時間を止めて。この瞬間を手離したくない。 幹が顔を上げる気配を感じて、和弥は慌てて涙を拳で拭う。だけど、目が充血しているから気が付かれている。 「それ、あんたによく似合うよ」 そう笑う幹を見つめたまま、和弥は付けて貰ったばかりの腕時計を、そっと宝物のように左指で触れる。 腕時計をしなくなってから、数知れない女やスポンサーから高級腕時計を贈られたが、どれも受け取る気になれなかった。母の形見に代わる時計など、この世に存在しないと思っていた。 「幹」 震える声で、愛しい名を呼ぶ。幹の、色素が薄い瞳を逸らさずに見つめる。怖くて、今にでも逃げ出したくなる。だけど、このままでは駄目だ。 あの頃、憎悪の対象でしかない和弥の為に、幹は腕時計を探し回っていた。幹はすべての犠牲を払って生きてきたのに、自分だけが溢れるほど幸福を貰っている。自分は、幹に絶望と痛みしか与えなかったのに。 卑怯だと思った。 過去の罪から目を背けて、幹の心を得ようとする自分が酷く卑怯に思えた。 「…あの日、俺は仮病を使って早退した」 覚悟を決めて語り出すと、幹の表情から笑みがすっと消えた。過去の罪を今更、思い出したくない。今更、幹に話したくない。 逃げるな。 和弥は下唇を噛んで己を叱咤する。 「心配するお前の母親に頼んで、部屋まで紅茶を運んで貰った」 あの日のことだと気が付いたのか、氷のように幹の表情が冷たくなる。それを見た途端、和弥は泣き出したくなった。折角、幹が少しづつ心を開いてくれるようになったのに、自らそれを壊す真似をするなんて。 「紅茶の中に睡眠薬を入れて、一緒に飲もうと誘ったら、彼女は付き合ってくれた」 幹は無言だ。 「眠った彼女を、使用人に寝室まで運んで貰った。その後に金で雇った男にベットの中に潜りこんで貰って……父さんの帰宅を待った」 段々と語尾が小さくなる。震えに歯が鳴る。 「…すべて、俺が───」 過去の罪に向き合う。 「お前の母親の体が弱いのも嘘だと、思っていた……いや、違う。これは言い訳だ。お前達が吹雪の中、薄着で追い出されるのを見て、俺は笑った」 死ぬかもしれない、どこか心の隅で思っていた。思っても、バケモノだから、別に死んでもいいか、と考え直した。それほど、冷酷無残な人間だった。本物のバケモノはこの醜い心なのに、それに気が付かない愚かな人間だった。 「───それで?」 冷淡な声で尋ねられ、和弥は絶望に崩れ落ちそうになった。今にも崩れそうになる自分を必死に立て直して、哀願するように縋る。 殺してくれ それで罪が償えるなら、それほど簡単なことはない。哀れなほど震えているくせに、和弥の言葉に躊躇いは微塵もない。 「───あんたは俺を誤解している」 短い沈黙の後、幹は静かに言った。のろのろ顔をあげると、幹は胸が潰れるほど悲しい眼差しで和弥を見ていた。 「過去の事をすべて忘れた、とは言わない。あんたをもう憎んでいないと……はっきり言うこともできない」 幹の正直な気持ちに、和弥は悔悟の涙を流した。 「だけど、俺はただ憎んでいるだけの相手を……助けたりしない。会ったりしない」 千切れんばかりに目を見開いた和弥に、幹は苦しそうに瞼を閉じた。 「母さんが死んだ時、本当にあんたが憎かった。あんたを殺したいと思った。だけど」 寒い中、暗闇の公園のベンチで倒れている和弥を見た時、憎しみより、胸が痛むほど切なくなった。 あれほど、憎んでいた男なのに、自分はまだ、彼に捕らわれている。森で会った時の、彼の優しい指先を忘れていない。 「……まだ、…まだ、あんたが好きだとは言えないけど、少し待って欲しい」 「───」 「いつか、憎しみも悲しみもすべて受け止めて、あんたが好きだと言うから……」 だから、少しの間だけ、この混乱した気持ちを許して欲しい 幹の想いが哀しいほど伝わって、和弥は悲泣した。瞼を開いた幹もまた、悲愁に表情を曇らせる。 「……俺、何年でも待つから。お前に許して貰えるなら………何年でも待つから」 必死に子供のように訴えた。 何年、何十年と時が経とうと、待つから。この命が消えない限り、待ち続けるから。 それが自分に課せられた償いと言うなら、全て受け入れる。 「…幹…」 和弥は幹の手を握り締めて、静かに泣いた。 どれぐらい時間が流れただろうか。やがて、和弥は震える指で幹の下唇をなぞるように触れた。好きだ、そう祈るように囁いて、顔をゆっくりと近づけた。

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