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第13章
人間はどれだけ欲深いだろうか。
拒絶されることを恐れた最初の口付けは、僅かに触れるだけだった。泣き続ける和弥を慰めるために、幹は受け容れただけかもしれない。それでも、その一瞬は、菊池和弥の魂を激しく揺さぶった。
二度目の口付けは、今加幹の勤務先の大学附属病院前だった。女の同僚と一緒に帰っている幹を見た和弥は、露骨に顔が引きつらせた。気が付いた幹が同僚に軽く挨拶して、待っていた和弥に駆け寄った。胸の中で吹き荒れる嫉妬のまま、和弥は背伸びして幹の下唇を噛んだ。首筋を腕で引き寄せ、幹の唇を何度も奪った。それでも、幹は拒絶しなかった。誰が見ているかわからない状況でも、幹は何も言わずに受け止めた。
三度目の口付けは、もう制御不能だった。
夜勤明けの幹が玄関ドアを開けた途端、和弥は幹の襟元を掴んで乱暴に唇を重ねた。飛び込む勢いのまま、玄関で幹を押し倒した和弥は、三週間も会えなかったことを責める眼差しで幹を見下ろす。幹は少し笑いながら、和弥のネクタイを長い指で緩めた。
ただ、それだけの仕草なのに、艶めいて扇情的だった。
幹が和弥の首筋に手を当てて引き寄せ、和弥は幹の頭を掴んで引き寄せた。二人は境目がなくなるほどの深いキスをした。熱に魘されたような呻きを何度も漏らす。
舌先で幹の前歯に触れた時、幹の全身からパタンと力が抜けた。睡魔に襲われた幹が「わ、るい……もう意識が……」と途切れ途切れに呟いて眠りに入った。甘い吐息を吐き出すと、和弥はそれでも幹の唇を何度も甘噛みした。そして、舌先を押し込んで幹のそれを絡め取っても、幹は反応しない。諦めた和弥は起き上がると、意識を失うように寝た幹の両腕を引っ張って部屋に入った。和弥はその日、当然のように会社をサボった。
+++
今加幹は、勤務先の大学付属病院を訪問した安田陸を見ても、無表情だった。幼馴染みの和弥に知られたら、殺されかねない状況だが、医局の控室で二人きりになった陸は、営業スマイルを浮かべる。
「あ、今加君、今、少し嫌そうな顔をしたー?」
からかう陸を無言で見つめ、幹は「何の用事だ」と訊ねる。陸は承認されたばかりの新薬の資料をテーブルの上に乗せると「もちろん、営業だよ」と笑った。
「新米の俺に決定権を持っていないのを知っているだろ。本当の目的は」
相変わらず、頭がいい男だ。陸は向かいのソファに腰かけた。和弥の口を割らなくても、医療従事者相手に働いている陸には、こんな 目立つ容姿の医者の情報は直ぐに入る。眼鏡をかけても際立つその美貌。製薬企業のMR女子社員全員がこの病院訪問を希望し、少し騒動になったほどだ。
その医者に、長身の嫉妬深い恋人がいるらしい。
病院前で濃厚なキスをしたと噂で聞いた時、思わず陸は飲んでいたコーヒーを吹き出してしまった。嫉妬深い幼馴染みは、難攻不落の幹をついに落としたのだろうか。
昔から鼻が利く陸は、幹から微かに匂う和弥の香りに笑みを深める。
「彼氏 の部屋から出勤ですか?今加先生 」
不誠実と性に奔放な世界で生きてきた陸と正反対の位置にいるであろう幹が、外道と言って差し支えない和弥の手を取ると正直思わなかった。
「束縛が激しい彼氏を持つと大変でしょう」
冷やかす陸を、幹はちらりと目だけで見上げる。
「───昔、和弥と賭けをしたんだろ」
「知っているんだね」
話し方を変えた陸は「俺は和弥が落ちる方に賭けたよ」と、ソファの背凭れに身体を深く預け、長い足を組む。
「だって、君のその顔 は和弥のドストライクだもん」
「……」
悪意を込めて陸は細く嗤う。
「聖人君子の君には理解が難しいと思うけど、普通は外見から惚れるものだよ。醜いバケモノに恋する人間なんて、存在しないよ」
それがそんなに悪いかな、根が腐っている陸は、笑顔で幹の精神を嬲る。昔から、陸は幹が嫌いだった。和弥が今、この場にいたら、陸は殴り殺されていただろう。
「それで、あんたは賭けに負けて 、俺に苦情を言いに来たのか」
幹はそれでも表情を変えない。
「違うよ」
口元から笑みを消し、陸はすっと目を細める。
「本当に、相原を知らないの」
低い声は冷えていた。
「燈真には会ってない」
短い沈黙の後、幹は口を切った。
「本当かなー。図書室で相原と抱き合うほど仲良しなのにかい?」
茶化しているが、陸の目は笑っていない。幹は苦笑いする。誰だろ。この男が去るもの追わずと言ったのは。
高校の時、後輩の相原燈真が図書室で泣いていたのを、幹は見守ったことがあった。燈真とは、幹が児童養護施設にいた頃に知り合った。そもそも、燈真が泣いたのは、奔放な恋愛遍歴を持つこの男 のせいだ。
「いつの話だ。あんた、粘着質だな」
「和弥に負けない程度にはね」
それはかなりの重症なのだが……幹はため息を小さく吐いて、横に置いてあった封筒を差し出した。
「2週間前、燈真が警視庁の防犯カメラに写っていた」
目を見開いた陸は、封筒を奪い取る。
「……腹が立つなあ。何で、君だと情報を掴めるのかな」
「俺じゃない。祥一だ」
その時、トントンと戸を叩く音。看護師が「先生、時間です」と呼ぶと、幹は腰を上げた。幹が横を通り過ぎようとした時、陸は封筒と一緒に拳を壁に殴りつけた。腕で前を塞ぐ陸を、幹は無言で見上げる。
「昔から思っていたけど、相原を下の名前で呼ぶの、やめてくれないかな?」
「───漸く、本当の目的を言ったな」
幹が初めて微かに笑った。
「面倒な男だ」
そう呟いた幹に、「うるさいよ」と陸は不機嫌そうにそっぽを向いた。
+++
紫陽花が咲き誇る梅雨時期に、幹は長野県の病院に研修に行った。
同僚の女医と一緒に1週間も行くと聞いた時、和弥は長野県にある総合日本テレビ系列の放送局に出張できるか、瞬時に考えた。落ち着かい様子で考え込む和弥に、幹は「遊びに来ないか」と訊ねた。研修最終日の金曜日午後から有給を取った幹は、和弥を長野県へ誘った。驚く和弥に、幹は新幹線のチケットを渡した。
興奮して寝られなかった和弥は、金曜日の昼過ぎに軽井沢駅で幹と落ち合った。幹に再会してから頻繁に有給を消費する和弥は、そろそろテレビ局を退職するタイミングかも知れない、と考える。
そして、早く病院を開業して、幹をヘッドハンティングしたい。年齢や性別に関わらず、幹が他の者と一緒に何日も出張するような職場から、一刻も早く引き離したい。何なら、幹に近寄る人間がいないか、24時間、傍で監視したい。
「……考えごとか?」
別荘に向かうタクシーの中、黙って思案に暮れる和弥に、幹は少し首を傾げる。まさか、和弥が自分を監禁することまで考えているとは露知らず、幹は少し心配げに和弥の頬に指で触れる。和弥は、嬉しそうに幹の手に自分のそれを重ねた。幹の親指の付け根に、鼻先をあてた。
「俺がいつも考えることは、お前のことしかないだろ」
素直に白状した和弥に、幹は「ほどほどに」と少し目を眇めた。幹に関してのみ、猪突猛進な和弥は息つく間もなく、持っているもの全てを使って幹を落とし にくる。
「それは無理な話だな」
悪戯をする子供のように笑った和弥は、幹の首筋に手を添えて引き寄せた。タクシーの運転手が、ゴホンゴホンと空咳したが、和弥は無視した。
たどり着いた別荘は、湖の目の前の、美麗な森に佇む重厚なログハウスだった。湖も含め、一万坪以上の広大な敷地は全て菊池家の私有地である。
ホテルではなく、二人だけで過ごしたかった和弥は、別荘に誘った。下心丸出しの和弥に、幹は間をおいて「わかった」と言った。
駅の店でテイクアウトした食事をリビングで食べた後、幹は冷蔵庫から果物を取り出した。キッチンで果物を切る幹を、和弥は背後からそっと抱き付いた。幹の肩に頭を預ける。
研修に同行した女医の匂いが付いていないか、念入りに確認して、鼻尖で首筋に沿わせた。
「まだ、お腹が空いているか」
「……俺は子供じゃない」
不満げに抗議する和弥に、幹は振り返らずに肩で笑った。身にしみて分からせようと、和弥は手を伸ばし、幹のTシャツの中に忍び込ませた。素肌に触れる。
胸や腹に手を這わす。
胸の突起を親指の腹で撫でた時、幹が果物ナイフを置いて、和弥に向き合うように体勢を変えた。
大きい目でじっと見上げる和弥の頬を、白く長い指が触れる。幹は唇で和弥の眉間、鼻根、鼻尖、そして唇へ、触れる寸前の距離で這わせた。
幹の意趣返しに、和弥の下半身は容易く疼く。
踵を上げて、乱暴に幹の唇に噛みついた。舌で幹の唇をこじ開けて、舌を押し込む。
「好きだ………」
7年前から、ずっとずっと、会える日を待っていた。
熱に魘されたような和弥の告白に、幹は「ああ」と少し苦しそうに瞼を閉じた。
「俺も……あんたを忘れる日なんてなかった」
切なげな声に、和弥は目を真っ赤になった。
「───お前が欲しい」
はしたなく反応する腰を、幹に重ねる。幹は笑みを浮かべると、躊躇いなくTシャツを脱ぎ去った。
しなやかな鎖骨の傍で、ピエタのネックレスが揺れる。
まさか、応じて貰えると思わなかった和弥は、目を見開いて硬直する。和弥の右手を掴むと、幹はそれを唇まで引き寄せた。掌に残る7年前の刃物の痕。舌先で下から上へ傷痕を辿るように触れると、人差し指を根元まで含んだ。息が止まる。
「っ………み、みきっ」
「俺も、あんたに触れたい」
話が途切れる前に、和弥は幹を床に押し倒していた。幹の上に馬乗りなって、性急に服を脱いで投げ捨てた。幹の耳の後ろを両手で掴んで、唇を深く重ねる。
舌を繋げたまま、二人は互いを貪った。
目眩を引き起こすほどの激情の流れに、和弥は突然ぽろぽろと涙を溢した。
触れることが赦される。奇跡のようだ。
子供のように泣く和弥の涙を、幹の指がそっと拭う。和弥は頭を振ると、愛しい男に抱きついた。
+++
和弥が目を覚ましたのは、日が暮れた6時過ぎだった。ゆっくり身を起こすと、鈍い痛みが腰の奥で疼いた。まだ、幹の熱が体の奥に残っているみたいで、痛みですら、胸が震えるほど嬉しかった。
部屋を見渡して幹を探すが、姿が見当たらない。ソファから起き上がった和弥は、深呼吸をした。情事の跡が残る床には、脱ぎ散らかした和弥の服がある。
最後には意識を失った和弥を、幹はソファまで運んで体を拭いてくれたらしい。羞恥心に、長いため息がでる。服を纏うと、和弥は湖が見えるバルコニーに出た。予想通り、幹はそこにいた。近づくと、再び背後から幹の腰に腕をまわした。幹がそっと手を重ねる。
「蛍がいる」
幹は前を向いたまま、静かに告げる。和弥は得意げに笑った。
「毎年、ここは蛍がでるからな」
月光だけ照らされた深い森の中、蛍がゆっくりと舞い上がる。風光明媚な景色は、二人を過去の情景に連れて行く。
「また、お前と一緒に蛍を見たかった」
願いが叶った、そう笑った和弥の指に、幹は自分の指を絡めた。
「身体 の方は、大丈夫か」
行為中、衝動を抑えた、苦しげな表情で気遣う幹に、やめて欲しくなくて平気な素振りをした。でも、男と寝たことないし、抱かれたこともない。結局は悟られたことを思い出して、和弥は頬を赤くして「大丈夫だ」と幹の背中に額をくっつけた。
最初から、抱かれることしか考えてなかった。女のように股を開いて腰を揺らす。男としての自尊心や屈辱など、幹を目の前にすれば、風に飛ばされる砂のような軽さだった。
ただ、幹に愛されたい。
ずっと心から願っていたことだった。
───多分、幹は誰も抱いたことがない気がする。確信に近い願望は、何よりも和弥の胸の奥を喜びで震わせた。幹の、快感に眉間に皺を寄せる表情も、時々見せる扇情的な眼差しも、そして体液の匂いも、自分ひとりだけが知ればいいと強く思う。自分は散々他の人間とセックスしてきたのに……己の身勝手さを殺したくなる。
「蛍を見に行こう」
今日は特によく考え込む和弥に小さく微笑んで、幹は手を繋いだ。バルコニーから湖畔に出た二人は、無数に飛び交う蛍に、感嘆の声をあげる。
暫くの間、幻想的な世界に魅入られた二人は、次に水の辺りに行った。一面に広がるカタバミ草の上に座り、月の光に照らされて光る湖を見つめる。
他愛のない話をしながら、もう幹以外、誰も愛せないだろうな、と和弥は思い知る。真面目で、優しさと誠実の塊 のようなこの男がいないと、呼吸すら出来なくなる。
「一緒に暮らしたい」
繋いでいる手にぎゅっと力を込めて、和弥は哀願した。もう病院の開業まで待てない。一秒でも長く傍にいたい。毎日触れたい。
「───わかった」
果てしなく続くような沈黙の後、幹は静かに返事をした。くしゃっと顔を歪めた和弥の額に、幹は悲しそう笑ってキスを落とした。
+++
粘着質で面倒な男───安田薬品工業株式会社のMRに、軽井沢のことで散々絡まれた今加幹は、病院から帰宅の途に就く。
すると、今度は、親友の大藤祥一から電話が掛かってきた。間髪を入れずに『とうとう、和弥と寝たか』と電波越しに言われ、幹は思わずスマホを地面に落とした。是非は別として、幹がドイツにいる間に、和弥は祥一と色んなことを話す仲になったようだ。祥一が悪気なく『森の中でヤったんだろ?虫に噛まれなかったか』と本気で心配してきた。
もう訂正する気も起こらない幹の沈黙に、祥一が笑う。
『あいつ、今日、渋谷区の分譲マンションを買ったらしいぞ』
「───は?」
幹は呆気に取られて、立ちすくんだ。冷静沈着な幹が、暫く言葉を失う。『10億らしいぞ』そう続けた祥一の言葉が、更に幹の後頭部を殴りつけた。
あの男は、一体何なんだ。
軽井沢から戻って来たのは、つい三日前である。確かに同棲を約束したけど、行動力が半端ない。おまけに賃貸でなく、購入って……吹き出した幹は、人生で初めて腹を抱えて笑った。
会社をサボって、一緒に棲むマンションを嬉々と探したに違いない。
『和弥と一緒に棲むのか』
「……そうだな。ヒモ男になりそうだ」
目尻の涙を手で拭った幹は、立ち上がる。このスマホも、再会した初日に和弥から渡された。
『あいつ、嫉妬深いし、独占欲激しいぞ。大丈夫かよ。お前、最後には監禁されそうだ』
「覚悟している」
なかなか鋭い祥一の分析に、幹は声に出して笑った。祥一も笑う。
『……楽しそうだな』
祥一は優しい声で言った。
『10億円のマンションに引っ越ししたら、俺を一番最初に招待してくれよ』
「理人さんと一緒に招待するよ」
突然咳き込む祥一にクスッと笑って、幹は電話を切った。
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