14 / 16

第14章

11月下旬になった。 「雪隆さん」 今加幹は養父の今加雪隆を見つけると、嬉しそうに小足で駆け寄った。雪隆の人間離れた美貌は、恐ろしいほど凄艶で冷たい印象があるが、幹だけには切れ長い瞳を和らげる。微笑を浮かべると、雪隆は習慣からなのか、幹の額に唇を寄せた。嬉しそうに幹が目を細める。 「いつの間にか、私と同じぐらい背の高さになりましたね」 初めて会った時、同じ歳の少年達より背が低かった幹は、背伸びしても雪隆の顎にしか届かなかった。 「雪隆さんより、高くなりますよ」 18歳超えると普通は身長は止まる、何故か、幹には当てはまらない。挑発するような笑みに、雪隆も「楽しみにしていますよ」そう言って笑った。 ───雪隆の笑みは、花のように美しい。 「潤さんは?」 辺りを見渡すが、いつも雪隆と一緒にいる嶋村潤がいない。 「愛ちゃんの為に、朝からずっと、街中を走り回っていますよ」 眉毛一つ動かさずに無表情に話しているが、言葉に棘がある。幹は小さく吹きだすと 「ヤキモチを焼いているのですか」 からかうと、雪隆が器用に端整な眉毛を片方だけ上げた。 「6歳児にヤキモチを焼いてどうするのですか」 心外だ、と言わんばかりの口調に、幹は声に出して笑ってしまった。本人自覚なしというところか。 『愛ちゃん』というのは潤の姪で、今日は彼女の誕生日である。誕生日パーティーに招待された幹達だが、プレゼントを決めかねている潤は、まだ街中を走り回っている。 「病院の仕事はどうですか?」 歩きながら、雪隆が尋ねる。 「大変ですが、色々学べて嬉しいです」 優等生の幹らしい言葉に、雪隆はふわりと笑った。 「尊敬できる医者に会うことが出来ましたか?」 雪隆の質問に暫く考え込んだ後、幹は「潤さん」と言った。 「潤さんは医者ではありませんよ」 苦笑いする。潤は確かに医学を学んだことはあるが、医者の免許を持っていない。 「でも、潤さんが一番、格好いいです」 初めて出会った頃、潤が人を助けるのを見たことがある幹は、その臨機応変に本当に感動した。自分もそんな風になりたい。そう言った時、潤は優しい笑顔で「貴方なら、誰よりもいい医者になれますよ」と頭を撫でた。 「貴方にそんなことを言われたら、潤さんは大喜びでしょうね。腹が立つので、伝えませんが」 悪戯をする子供のように笑う雪隆に、幹は破顔する。 それから、二人は再び歩き出す。 手袋をしていない幹が指に息を吐くと、雪隆が幹の手を掴んで、コートのポケットに一緒に手を入れた。幹は照れたように笑うと、ぎゅっと雪隆の手を強く握り返した。 「……先週、和弥と一緒に母のお墓参りに行ったんです」 静かに話を始めた幹を、雪隆が無言で見つめる。 「昔、母に幸せになれ、と言われたのですが、あんまりその意味が理解出来ませんでした」 幹は繋いでいる手に力を込める。 「『幸せ』の意味がよくわかりませんでした。ただ、息をしているだけの感覚で……」 はにかむように笑う。雪隆が足を止めると、幹も止めて振り返った。 「その意味が、漸く理解出来ました」 幹はどこか悲しそうな笑顔を浮かべる。 「貴方は今、幸せなのですね」 優しい眼差しで問い掛けられ、幹は小さく頷いた。それを見た雪隆は、胸が切なくなるような綺麗な笑顔を見せた。 「そうですか」 貴方は漸く、喜びを知ったのですね 「あいつが……和弥がちゃんと見てくれるのです」 メディア界で働く和弥は、より美しく優秀な者と接する機会が多いはずだが、見向きもしない。真っ直ぐと、幹だけを追いかける。 「和弥といると…時々、胸が苦しくなるけど、なんて言うか…」 言葉が見つからないのか、困ったように黙り込む。 ───言い表せない想いが存在するなんて、初めて知った。 幹は突然、誤魔化すように、雪隆の頬に掠めるだけのキスをした。驚いた雪隆が目を開くと、もう一度反対側の頬に唇を寄せる。 「貴方に出会えて、本当によかった」 心の底からの素直な想いを、雪隆に伝える。 「貴方が好きです。何が遭っても、この気持ちは永遠に変わりません」 親のように、兄弟のように、ずっと守ってくれた。 「貴方に出会わなければ、僕はきっと死んでいた」 絶望の底にいた自分に、生きる目的をくれた人。地獄の苦しみから救ってくれた───大切な人 「僕は、今の幸せを失いたくない」 家族の雪隆と潤がいて、親友の祥一がいて……そして、君がいて。もう、それだけで十分だった。 真摯な瞳に見つめられ、雪隆は幹を抱き締めた。守るように強く抱き締める。雪隆もまた、幹に今の幸せを失わせたくないと強く願う。 「……幹」 名を呼ばれ、幹もゆっくりと雪隆の背中に腕をまわして、瞼を閉じた。 +++ 嶋村潤の姉には6歳になる娘がいる。愛と言う名前に相応しく、天使のように愛らしい彼女は、僅か6歳で自分の父親を含め、すべての男達を虜にしている。 誕生日パーティーが盛り上がる頃、幹はふと和弥の姿がいないことに気が付いた。酔っ払って執拗に付き纏う愛の父親から逃れ、幹は隣の温室に行った。 この家の敷地内には、家以上に大きな温室がある。潤の姉は病的に植物好きな女性で、何十年間とかけて集めた植物は、博物館並だ。 まるで、森の中に迷い込んだような錯覚になる。月の光だけが照らす、森のような─── 「和弥」 声をかけると、ベンチに座っている人影が動いた。 「幹」 声が聞えて、幹はベンチに近付いた。隣に腰掛けた時、肩が触れると、和弥がビクッと震えた。和弥の緊張が伝わって、幹は苦笑いをする。 「楽しくないのか」 そう尋ねると、和弥は首を横に振った。 「違う、ちょっと、酔いを覚ましたかっただけだ」 幹が探しに来てくれたことが嬉しいのか、和弥の頬が緩む。何だか、照れくさい気分になって、和弥が黙り込むと、幹もまた黙り込む。 和弥が咳払いをした。 「なあ…お前、あの養父と……」 「?雪隆さんのことを言っているのか?」 もぐもぐと話す和弥に、きょとんとした顔で幹が聞き返す。何故、突然、雪隆の話が出るのか、幹にはわからない。 「───っ、別になんでもないっ」 そう言っているが、明らかに和弥の様子がおかしい。だが、本人が言いたくないなら、無理に聞くわけにはいかない。幹が黙り込むと、再び沈黙が流れた。その重い沈黙に、和弥は拳を握り締める。 仕事で遅れるから、そう言って、和弥は後から行くつもりだった。だけど、どうにか時間内に終えることができた。慌てて駆けつけると、この家の傍で、幹と雪隆が手を繋いでいる場面を見てしまった。 [[rb:身体 > からだ]]を重ねる関係になったといっても、雪隆に見せる笑顔を見てしまうと、やっぱり、黒い嫉妬に胸が苦しくなる。 「…手を繋いでいた」 ぼそりと呟くと、幹が顔をあげた。幹から視線を外して、もう一度「お前、あの男と手を繋いでいた」とイラつくように言い捨てた。漸く和弥が何に拗ねているのか、気が付いた幹は少しだけ目を見開く。 「あの人は、俺の養父だけど」 思わず当り前のことを言うと、和弥がキッと睨む。 「あんな若い父親がいるかよっ」 おまけにめちゃめちゃ、美形だ。何だか話がズレている気がしたけど、思わず和弥は言い返した。再び、沈黙が続く。今度は幹が溜め息をつく。思わず和弥は目を強くつぶった。調子乗り過ぎたかもしれない。 謝ろうと思っても、元々素直ではない性格が邪魔する。和弥が不安になった時、突然、幹が手を繋いできた。 「あんたにも、手を繋いだけど」 これで文句ないだろ、そうあっけらんと答える幹に、和弥は驚く。 「次は?」 尋ねられ、和弥は真っ赤になりながら、小さい声で「頬にキスしていた」と言うと、幹は躊躇いなく和弥の頬にキスした。 「…両方にしていた」 和弥がまだ拗ねているように言うと、幹は言われた通りに今度は反対側の頬に触れる。和弥は今にも爆発しそうな胸の上を、ぎゅっと手で掴む。 「次は?」 彫刻のように綺麗な顔に覗き込まれ、和弥は蚊が鳴くほどの声で何かを呟いた。聞き取れなかった幹がもう一度尋ねると、もぐもぐした口調で言う。 暫くの間、幹は考え込んだが、ゆっくりと和弥の唇に、自分のそれを重ねた。 まさか、キスして貰えると思っていなかった和弥は、千切れんばかりに目を見開いて固まる。 「これでいいか」 そう聞くと、「もう一度……」と言われ、幹は少し苦笑いをする。言われた通り、もう一度唇を寄せた。今度は、和弥も自ら強請るように近づける。 繰り返される、掠めるだけの口付け 和弥がどさくさに紛れて舌を入れた時、幹は手でぐっと和弥の顎を押し退けた。 「ここでは駄目だ」 幹が困ったように言うと、和弥は拗ねたように小さく舌打ちをした。やはり、雪隆達が近くにいると、幹のガードが固い。 「ここでエッチしたいと言ったら、駄目か?」 「───駄目に決まっているだろ」 肩が触れるだけで緊張するかと思えば、時々大胆な行動をする和弥に、幹はもう呆れるしかない。その上、キスをしただけなのに、幹の服装が既に乱れている。最近の健気な姿で忘れていたが、色んな意味で、和弥は手がはやい。 ───だけど、和弥が不安になる理由を、幹はよく理解していた。 結局、二人はまだ一緒に棲んでいない。 10億円の渋谷区の分譲マンションを、即決で契約した和弥だったが、次の日に、幹が違約金払って解約させた。新米勤務医の幹に、そんな金額の支払い能力がないからだ。元々、幹に払わせる気はなく、一括購入の予定だった和弥は猛抗議したが、幹がキスで封じ込めた。 そして、漸く幹が納得した金額で部屋を見つけた二人は、来年の2月に同棲を始める。代々木公園の近くの新築分譲マンションである。 「早く、2月になって欲しい」 長いため息を吐き出し、和弥は幹の肩に頭をのせた。どれだけ[[rb:身体 > からだ]]を繋げようと、和弥の不安は消えない。 わかっていたが、幹はまだ、言葉にできない。 胸の痛みに、幹は瞼を下ろす。二人は暫くの間、凭れ合いながら、手を繋いだ。 +++ 幹は久しぶりに、今加雪隆と嶋村潤と一緒に夕食を取ることになった。 3人だけで一緒に外食するのは、帰国してから初めてで、幹は少し浮かれる気分で、勤務する病院の前で待っていた。だが、15分程待っても二人は現われない。車で迎えに来ると言っていたので、もしかしたら、渋滞に巻き込まれたかもしれない。そう考えた時、別の人物が幹に会いに来た。 片岡秀 和弥の幼馴染みだ。 「お前に話がある」 NOを言わせない迫力のある低い声。 「悪いけど、先着がいる。後日にしてくれ」 それでも断ると、秀が鋭い声で「今、話があると言っているだろ」と吐き捨てた。人の事情構いなしの身勝手さに、幹は眉間に皺を寄せる。それを了解と受け取ったのか、秀が踵を返して歩き出した。幹は無言で、距離を置いて後をついて行った。 雑踏から離れ、秀が選んだ場所は、高層ビルが並ぶ裏道だった。昼間はサラリーマンで賑わうここも、夜8時を回ると人気はない。 「約束があるから、早く用事を言ってくれ」 無表情に話すと、秀が鋭く振り返った。鋭鋒な眼差しが、幹を捉える。 「これ以上、和弥に近付くな」 単刀直入に話す秀に、幹は無反応だ。もの凄い剣幕で秀が現われた時、幹は既に大体のことを予想できていた。 昔からずっと和弥と一緒にいた秀だが、和弥が突然離れた原因を幹だと思っている。 和弥の父親が捕まった時、和弥と距離を置いたのは、他の誰でもない、秀自身である。だけど、本人はそれを認めようとしない。 「和弥はただ、お前の外見と今加 (・・)の名前に惹かれているだけだよ。わかるだろ?」 幹がバケモノに戻れば、和弥の恋も終る。 黙り込む幹に歩み寄ると、秀はニヤリと人を馬鹿にするような笑みを浮かべた。 「お前もあ───」 「あんた、和弥の事が好きなんだろ」 遮るように言った幹の言葉は、鋭いほど核心を突いている。何かと遠回りして、意味のない言葉で、幹を牽制する秀の本心を見破っている。 表情を凍らせた秀が、衝動的に拳で幹の頬を殴った。いつも余裕な笑みで嘲る男の姿は、もうどこにもいない。幹の言葉は、激しく秀を動揺させた。 幹は切れた口の端を拳で拭って、秀を睨みつけた。 「和弥に告白出来ないからと言って、俺に八つ当たりするのは止めてくれ」 冷静に言い放つ幹に、秀がカッとなって襟元を掴み上げた。 「お前に何がわかるっ」 息がかかるほど近くで怒鳴られ、幹はスッと目を細めた。 その透き通った色の薄い瞳が、秀を見上げる。 無自覚に、魅惑的な色を潜ませる瞳は、月光に反射して小さく光っている。妖光を灯す瞳に、思わず秀は引き込まれた。 不吉を感じるほど、憂愁的な幹の美貌に、秀は唾を飲む。端整な唇の端に、真っ赤な血が滲み……まるで誘惑しているような錯覚に襲われる。 至近距離で見た幹の顔立ちに 、秀の思考が麻痺する。男の本能が、鼓動を速める。 「離せ」 幹が秀の腕を振り払うと、その反動で幹の襟元のボタンが外れた。そこから覗ける、ゾッとするほど白く優美な首筋が、秀の視線を奪う。 突然、秀が飛び掛った。 幹は地面に組み伏せられ、その腹の上に跨がられた。驚いた幹が、腕を突っ張って押し退けようとした。 「何をするっ」 不快感に産毛を立たせて、叫んだ。 「───こうやって、和弥を誘惑したのか」 耳元で囁かれた言葉に、幹は顔をしかめる。言っている意味がわからない。 「そうやって、今加グループの跡取りも誘惑したんだろ?」 このバケモノ(・・・・) 冒涜するように、秀は幹のシャツを引き裂いて破いた。露になった滑らかな肌に、唇を寄せる。抵抗する幹を力で捩じ伏せ、胸の突起を噛み千切るほど強く噛む。カッとなった幹は、思いっきり秀の顔を拳で殴りつけた。 「今すぐ、俺の上から退け」 嫌悪感に言い捨てると、秀がのろのろと顔を上げた。その狂気を滲ませた瞳が、不気味に光る。 次の瞬間、幹は左顔に熱く───鋭い痛みを感じた。 ドッと冷汗が背中に浮かんだ。突然視界の左半分が暗闇に覆われ、気持ち悪い感触に、幹はのろのろと指で左顔に触れた。そして、自分の手を見ると……真っ赤に染まっていた。 右目の視界に、真っ赤に染まったナイフを握り締めた秀の姿を入る。 その途端、焼けるような凄まじい痛みが幹を襲い、幹はうねりながら地面を転がった。 漸く、幹は自分の左顔が、ナイフで切り引き裂かれたことに気が付いた。骨まで達したと思うほど、傷は深く、血が噴水のように溢れ出す。 衝撃に、幹の意識が激しく乱れる。 過去と現実が重なる 熱湯で火傷した時の記憶が、鮮やかに甦る。 ───助けて、助けて、お母さんっ! 悲鳴をあげ、助けを求めた。左顔が燃え上がる。 ───熱いよ…熱いよっ!助けて───!! 絶叫して助けを求めたが、父親に髪の毛を掴まれた母親は、幹を助けることが出来なかった。 過去の悪夢に捕らわれ、意識が混濁した幹は、錯乱状態に陥っていた。 「もう、魔法が解ける時間だ」 不気味な笑みを浮かべた秀が、再び高く凶器を振り上げた。 +++ 待っても、幹が電話に出ない。 もしかして、残業なのだろうか。菊地和弥はちらっと時計を見た。20時24分。 スマホをテーブルの上に置くと、小さい溜め息をつく。そして、窓から外を見つめる。そこには、宝石箱をひっくり返したような、美しい夜景が広がっていた。 無意識に、和弥は指で腕時計に触れた。 +++ 地面に転げ落ちたスマホが、鳴り止んだ。 薄っすらと右目だけ開いて、幹は和弥から貰ったスマホを見つめる。掴もうとしても、もう指ひとつ動かすことが出来ない。 顔の左半分、両足、右腕───幹は一瞬にして、直視できないほど無残な姿になった。血の海に横になりながら、微かに唇を動かすだけ。 出血多量で顔色が青い……死ぬのは時間の問題だった。 「醜い顔に戻った気分はどうだよ」 近付いてくる男の足元が、視界の端に映る。 「醜いお前に、もう誰も振り返らないよ」 屈み込んで、幹の後ろ髪を掴んで顔を上げさせる。 「お前も知っているよな。あいつ (・・・)は汚くて醜いモノが嫌いなんだよ」 優越感にクッククと喉を鳴らし、片岡秀は中まで曝け出した、深い傷を堪能する。 醜い顔だ 「もう、前みたいに消すことは出来ないよ」 どんなに腕のいい医者を雇っても、秀の笑い声が静かに響き渡る。ゆっくりと幹は秀を見上げた。無機質的な瞳には、恐怖など存在しない。 憐れみを滲ませる幹の瞳に、秀が逆上した。 「───その目は、なんだよ」 乱暴に幹の頭を地面に叩き突けると、ナイフを再び大きく振り上げた。 「死ねよっ」 狂ってしまった秀には、もう善悪が区別出来ない。 幹は潔く死を覚悟して、ゆっくりと瞼を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは─── 「幹──────!!」 微かに、雪隆の声が聞えた。 駆けつけた今加雪隆と嶋村潤に、秀は舌打ちをして、逃げるように逆方向に走り出した。潤が追いかけようとするのを、雪隆が鋭い声で制すると、二人は幹に駆け寄った。血だらけの悲惨な幹の姿に、二人は言葉を失う。 「しっかりして下さい」 絶えることなく、雪隆が幹の名を呼び続ける傍で、潤は自分のシャツを脱いで、素早く応急処置する。しかし、滝のように溢れ出ている血は止まる気配を見せない。 「今、救急車が着きます。頑張って下さい」 綺麗な顔を歪ませた雪隆が、そっと幹の右頬に手を添えた。その冷たく……優しい感触に、幹は何かを言おうとしたが、もう限界だった。幹の体からすっと力が抜けていった。 意識を手離した幹の体温が、段々と奪われていく。 目を見開いた雪隆は、悲鳴のように必死に名を呼び続けた。 +++ 救急車がくるまで待てなかった二人は、幹を抱き上げて、幹が勤務する大学付属病院に運んだ。 病院に残っていた理事長が駆けつけ、現在、救命救急医が他の緊急患者の対応中であること、今は内科の医者しか残っていないことを説明した。 手術できる医者がいない。 しかし、一刻も争う状態で、今更、他の病院に転送など出来るはずもない。 「今、外科医に援助を要請していますが、間に合うか───」 説明した理事長が言い終えない内に、雪隆は突然、壁を拳で叩きつけた。その凄まじい激音に、看護師など全員が沈み返る。 雪隆は激しい怒りを全身から放ちながら、背筋が凍るほど低い声で宣言する。 「幹が……幹が死んだら、私が貴方を殺しますよ」 はったりではないその凄気に打たれ、理事長が真っ青になる。 「1分以内に、対応できる医者が現れなかったら、貴方達を全員殺します」 半端じゃない威圧。 「雪隆さん、医者が来るまで、私が応急措置します」 緊迫した空気の中、見かねた潤が上着を脱いで言い放つ。これ以上待つと、幹が危ない。 「今すぐ、準備をして下さい」 突然医者でない潤に言われ、看護師達は戸惑う。「何を言っているんだ、君は」理事長が止めようとした時、潤は静かに顔をあげた。 少しでも触れば、爆破しそうな激情を滲ませた眼差しに、理事長は身を竦む。 「私も、そんなに気が長い方ではありません」 邪魔をしたら……押し殺した声で、凄味をきかせる。 今加グループを敵にまわしたら、それこそ、大学も含め、この病院は終わる。違法だとしても従うしか、方法はない。それに付け加え、今加に従った結果、幹が助からないならば、責任を取る必要がない。 下手に、病院が対応して死ぬことになったら、それこそ、この病院は跡形もなく潰される。 唇を噛んだ理事長は、部下達に指示を始めた。 手術用ベットで横たわる幹を辛そうに見つめると、雪隆は潤の腕を掴んだ。 「必ず、幹を助けてください」 「はい」 力強く頷くと、潤はそっと雪隆の頬に触れた。 「心配しないで下さい。必ず幹を救って見せます」 こんな終り方にはしない。必ず……必ず救ってみせる。 手術室から出ると、雪隆は衝撃的に拳を再び壁に叩きつけた。壁が振動するほどの激音が、静かな廊下に響く。 ───僕は、今の幸せを失いたくない もう一度、壁に拳を叩き突けると、拳から血が滲み出た。 (…あの男…) 脳裏に浮かんだ、逃げる男の背中。 雪隆は獣のような眼差しで、壁を睨み付けた。

ともだちにシェアしよう!