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3 知らぬ思いのその色は(3)

 今の玲陽に、花街の女性が、体に傷を負わされて苦しんだという事件を聞かせるのは、さすがに気が引ける。  涼景は歌仙で治療した時に見た、玲陽の身体を思い出した。彼の肌にも、痛々しい火傷があった。事件を知れば、過去の出来事を思い出し、さらに心を乱す可能性が高い。  涼景は、どうにか犀星と二人で話ができないかと思ったが、玲陽がそばを離れるようには見えなかった。無理に引き離すことも難しそうだ。  その時、ふと懐の中の木簡を思い出した。  先ほど蓮章が部下に命じてまとめさせた報告書だ。  情報確認のために持ってきたが、これは使えるぞ、と涼景はニヤリとした。  報告書を読めば、犀星なら、自分がどう動くべきかわかってくれるはずだ。 
 蓮、でかしたぞ。  涼景は、蓮章に視線を投げた。 「ん?」  問うように蓮章は顔を向けた。涼景が懐を指でとんとん、と叩くのを見て、真意に気付いたらしい。涼景を写す鏡のように、蓮章も笑みを浮かべた。 「なぁ、光理」  と、自然を装って蓮章は玲陽に話しかけた。自分が玲陽の気を引くつもりだ。  玲陽は先ほどよりも随分気持ちが落ち着いてきたらしく、好奇心も宿った顔で、自然と蓮章に目を向ける。 「いきなり、驚かせてすまなかったな。ここにやっかいになるが、よろしく頼む」  普段の彼からは想像もできない猫撫で声で、蓮章は話しかけた。玲陽も疑う気はないようで、やんわりと受ける。両者共に、その外見の美的水準は恐ろしく高い。東雨はそれを眺めて、ぽーっとしている。その隙に、涼景はそっと、犀星に視線を向けた。 「私も、ここに居候の身ですので……」  玲陽はかすかに首を傾げた。見惚れた東雨の意識が遠のく中、犀星は涼景の目に気づく。  よし、と、涼景は素早く懐から木札を抜き、犀星が敷いていた毛氈の端に滑り込ませる。犀星はそれを手早く袖の中に隠した。体を接している玲陽も気づかない、一瞬のやり取りだった。  犀星が目元だけで頷く。それを見届け、涼景は立ち上がった。 「じゃあ、蓮を置いていくから好きに使え」
 「好きに使えって、おまえ……」  蓮章がしらばっくれた顔で涼景を見上げた。涼景は満足そうに、 
「俺の留守中、死ぬ思いをしてきたんだろ? ここにいれば少しはのんびりできるさ」  と、笑ってみせる。蓮章は、やれやれ、と肩をすくめた。 「せっかくだから、休暇だと思って楽しませてもらおうか」  親王の警護じゃなかったのか?  東雨は蓮章の雰囲気に、呆れ顔だ。  彼らなりのじゃれ合いだとわかっていても、涼景と蓮章のやりとりは、周囲から見ると不真面目極まりないのだ。 「涼、お前が過労死する前に呼び戻してくれ」  蓮章は、少し甘えるように言った。 「へぇ。俺を心配してくれるのか」  意外だな、と涼景が苦笑を返す。蓮章はうっすらと微笑んだ。 「馬鹿言え。お前の葬式を出すほど、暇じゃない」  それを聞いて、思わず犀星が目を細めた。声を立てるわけではないが、表情が柔らかくなる。  蓮章がそれに気付いた。 「親王、あんた、そんな顔で笑えるんだな」  東雨が吹き出した。  その場の空気がふわりと和らぐ。  ふと見ると玲陽の頬にも、わずかな微笑みが浮かんでいる。  小さな変化ではあったが、それは確かに、みなを幸せにする笑顔だった。  見送りを断って、涼景は一人、玄関に出た。  蓮章を残しておけば心配は無いだろう。彼を少し休ませてやりたいという思いはあったが、実際にはそうもいかない。  玲陽のあの様子では、かえって別の苦労をかけそうだな、と少し申し訳なかった。それと同時に、蓮章ならばきっと犀星の役に立つという確信もある。  蓮、頼むぞ。  それはどこか、親友を自慢に思う気持ちと似ていた。  そして、涼景にはもう一つ、蓮章を自分から遠ざけておきたい事情があった。それは、蓮章にも、打ち明けることはできなかった。思い出して、涼景の顔から感情が失せる。  午前中に宝順を訪ねた際、今夜、天輝殿にくるように、との指示を受けたのだ。それがどういう意味か、涼景は思い知っている。  三ヶ月ぶりだ。どうせ壊される。  そんな自分を、蓮章には見せたくなかった。それは自分の自尊心か、それとも親友に対する思いやりか。  屋敷の玄関を出て、涼景は背後をちらりと見た。 「東雨」  いつもそうするように、東雨は最後まで見送りに出てくる。  それが犀星の方針なのだから、不自然なことではないが、どうにも背中がうすら寒くなる。  涼景は門のあたりで立ち止まった。玄関先で東雨がこちらをじっと見ている。  その表情には、特に敵意もなく、同時に親しみもない。まるで、そこに置かれた陶器の人形のように、じっとして動かない。  最近の東雨は、本当に怖いと、涼景は感じ取っていた。  犀星に対する純粋な愛情を匂わせるかと思えば、玲陽に向けて刺すような眼差しを向けることもあった。そして、自分への、感情を消し去った表情。  東雨という肉体に宿った、幾つもの人格が次々と表出し、どれが本物であるのかわからなくなる。  昔のおまえは、あれほどに生き生きと輝いていたのに……  幼い頃の東雨の面影は、今の彼とは別人だった。  宝順に壊されたのは、俺だけじゃない。  その想いは、涼景の魂を鷲掴みにし、爪を突き立てた。血と情が滲む。  涼景はしばらく東雨を見つめ続けた。普通であれば、その沈黙は気まずく、何か声をかけるであろうが、お互いに何も言わない。まるで涼景の意図がわかっているかのように、ただじっと東雨は見返すだけだ。  不自然な沈黙、不自然な時間。声をかけるか、背を向けるか、涼景は眉一つ動かさずに考えた。  東雨も同じだった。じっと涼景の出方を伺う。  涼景は、蓮章を屋敷に置くと言った。それは誰に対する備えだ?  いくら皇帝が玲陽に興味を持ったところで、いきなり兵を差し向けることは無い。  そこはちゃんと順を踏むことくらい、東雨にでもわかる。  だとしたら、蓮章の配置は、皇帝ではなく、むしろ内部にいる自分を牽制するためだと考えるのが自然だ。  どうせ疑われるのはわかっている。信用などされない。どんなに長い間ここにいても、ここに俺の居場所は無い。  俺が嘘つきだから、涼景も俺に嘘をつくんだ。  東雨はじっと心を殺した。子供の頃によく、周囲にからかわれたことを思い出した。おまえはすぐに気持ちが顔に出る、と。  それは他意のない評価だったのだろうが、東雨にとっては致命的だった。  自分の真意を、他者に悟られてはならない。  東雨は、少しずつ心を隠すことを覚えた。  犀星のように全てを封じ込めることは、東雨には難しかった。だから逆の手段で弱点を克服した。ひたすらに仮面をかぶり続けることだ。  無表情ではなく、笑顔の、無邪気で明るい少年を演じること。その方が全てを無にするよりも楽だ。  東雨は自分の欠点を乗り越えたつもりだ。だから、こうして沈黙に耐えている時も、涼景には、自分の腹の内は見えないだろう。  涼景の、心の奥底を暴こうとするかのような強い眼差し。  気を抜くと、心をえぐられそうな底知れない力が、涼景の瞳にはある。  夕食時を狙った物売りの声がする。東雨は首をかしげた。それはどこか、玲陽の仕草を真似たようでもある。  東雨は感情のない声で言った。 「そろそろ食事の支度をしなければなりません。ここで失礼します」  背中を向ける。 「待て」  涼景の鋭い声が止めた。  立ち止まったまま、東雨は振り返らない。絶対に振り返らないぞ、と決めて、背を向けたまま背筋を伸ばした。  また沈黙。この沈黙こそが、涼景の武器だと東雨は知っている。  こちらが、耐えきれなくなるのを待っている。  そっちがその気なら俺だって、と腹をくくる。  何か言いたいことがあるなら、言えばいい。  肩の後ろあたりがざわざわとして、じっと立っているのさえ辛くなる。涼景の気迫が、自分を押しつぶすような感覚が襲う。それは東雨にはない、涼景が戦いの中で、死地から持ち帰った迫力だった。  いつまでこうしていればいい?  振り返れば負けだ。だが、振り返らねば動けない。  ザッと土が音を立てた。  背を向けたまま、その足音を聞くと、自然と恐怖が湧いた。近づいてくる。  音が大きくなるにつれ、心臓が速くなる。限界まで耐えて、ついに、東雨は振り返ってしまった。  負けた!  悔しさが込み上げた。  目の前に立つ涼景が見え、途端に手首を掴まれ、吊られるように高く持ち上げられた。振り払う間もなかった。足が少し浮く。 「痛っ……!」  涼景の見開かれた目が、目の前にあった。射すくめられるとはこのことだ。  もがくこともできず、されるがままだった。東雨は必死に虚勢を張ろうとしたが、声すら出ない。  最後の意地とばかりに涼景を睨む。目だけは閉じない。はずさない。逃げたくない。  何から逃げているのかもわからなかったが、東雨はひたすら自分に言い聞かせた。  先ほどまで一緒に茶を飲んで、平然と言葉を交わし、笑っていた男とは思えない。涼景の目は、明らかに人を殺す目だ。  何を言われるのだろう、と東雨は思った。犀星のことか、玲陽のことか、それとも皇帝のことか。  逆らうこともできない東雨に、涼景は静かに口を開いた。 「お前は……」  涼景は信じられないほどに、苦しそうな声を出した。だが、それ以上続かない。  東雨の手を荒っぽく掴んだ涼景の指が、ぎりっと食い込む。  骨が砕けるほど痛んだが、東雨は奥歯を食いしばった。  やがて、涼景はゆっくりと、どこかいたわるような、そんな動きで東雨を地に下ろした。  そして、掴んでいた手首をわずかになでるようにして、身を翻す。そのまま何も言わずに、彼は表通りへと消えていった。最後に見えたその横顔は、真っ青に血の気が引いていた。 「なんだよ……」  東雨はひたすら、困惑した。こんなことをされるくらいなら、怒鳴られ、殴られた方がまだマシだ。皇帝に従うな、犀星を裏切るな、と脅された方がよほどいい。  殺すつもりで首にかけた手。それが、ただじっと触れるだけで動かないような息苦しさ。  いつ締め上げられるかもわからない。そんな恐怖だけが体に残る。  忘れられない。  東雨は、赤く痕の残った手首を無意識に撫でながら、思った。  自分を見つめた涼景の目の色は、将軍でも、近衛でも、犀星の友人でもなかった。  ただの一人の男、燕涼景の目であった。

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