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4 縦糸横糸(1)

 東雨は乱れた襟を整えて、何事もなかった体を装う。  今はまず、目の前のことをせねばならない。  厨房に向かう途中、中庭を所在なさげにうろついていた蓮章を見かけ、東雨はいつもの『顔』をつくった。 「蓮章様」  まるで、姿を見つけて嬉しそうに声をかけた、という雰囲気を演出し、東雨は手を振った。  東雨は蓮章を、屋敷の東棟に並ぶ部屋のひとつへと案内した。涼景が泊まりがけで来る場合に使っている客間だ。 「ここ、使ってください」  普段は締め切っている引き戸を開けると、中庭の景色が広がり、その向こうに見える西棟の屋根の上から、傾きかけた陽の光が柔らかく差し込んできた。  壁際に一人用の牀、油灯を乗せた文机と毛氈、木製の|几架《きか》と衣箱が置かれている。  一人で使うには十分な、ゆったりと過ごせる広さがある。  最低限の寝具を揃え、灯火の皿に油を足しながら、東雨はいかにも機嫌がいい。 「うちでは、まだ、火鉢は贅沢品なので、暖かく着込んでいてください」 「お構いなく」  最初からあてにはしていない、と蓮章はさらっと応じた。  持ち込んでいた少しの荷物を手早く整理すると、蓮章は回廊ごしに庭を見た。屋敷は、庭を取り囲む造りをしている。ここからは、全ての部屋を確認できる。 「親王の寝顔も覗けるな」 
「どこで何をしていても丸見えです」  と、東雨はなぜか自慢げだった。 「若様、これくらいの寒さなら、まだ、戸を開け放してお休みになりますので」  蓮章が呆れたように、 「そういう野生味、涼景と同じだな」  涼景の名前を聞いて、東雨は一瞬、緊張した。  だが、表情には出さない。こういう時は、とにかく『無駄に笑顔』になるのがよい。それが自分の心を隠す秘策なのだ。 「俺、夕飯の支度してきますから。のんびりしててください」 「のんびりって、おまえ、俺は警護に……」  と言いかけて、蓮章は言うのをやめた。 「……そうだな。表には暁もいるし、いざ何かあったら親王も剣を使えるし。どうにかなるか」  と、蓮章は牀の上にごろっと横になり、深い呼吸をひとつして、眠りに落ちる。よほど疲れていたと見えて、あっという間だ。  この人、本当に休暇できたのかな。  東雨は思わず苦笑した。  てっきり、涼景が自分を見張るために蓮章を送り込んだのかと思ったけれど……いや、待てよ。これは俺を油断させるための作戦かもしれない。  じっと様子を伺うが、蓮章は本気で寝ているようだ。  東雨は、閉じられた色薄いまぶたをじっと見た。 「寝ているふり……じゃないよな」  静かな寝息は、どう見ても本物だった。  それにしても……  東雨は少し口をとがらせた。  若様といい、光理様といい、蓮章様といい……なんでこんなに綺麗なんだよ。  美的感覚は個人それぞれに違うものだが、ある程度大多数に受け入れられる美しさが存在するのも事実である。  東雨は昔から、美しいものに弱い。素直に、綺麗なものは綺麗だと思う。  そのあまりにもまっすぐな感想は、時に相手を困惑させるが、東雨としては、良いものは良いのだ、と疑問を挟まない。  この屋敷は、今、美人ばかりだ。 「さて、今夜は何を作ろうか」  と、少し浮かれた気分で厨房に向かう。  中庭の向こうを見れば、ちょうど犀星の姿が寝室に見えた。玲陽と二人で並んでいるようだ。  東雨は行き先を変え、足音を忍ばせて回廊を回り、柱の陰から犀星の私室を覗いた。そこからは、部屋続きに寝室の様子が見える。  息をひそめながら、そっと聞き耳を立てる。 「よく、がんばったな」  と犀星の声が聞こえる。 「私、おかしくありませんでしたか?」  玲陽が、心細そうな声で言った。  先ほどの、涼景たちとのやりとりのことだろう。  おかしくなかったかと言われれば、おかしかったけれど……  と、東雨は思った。 「大丈夫だ。心配しなくていい。陽はよくがんばっていた」  と犀星が繰り返す。  姿は見えないが、おそらく手でも握っているのだろう。東雨は、彼らが体を離しているところを、ここ最近見た記憶がない。  大根を干している時も、犀星は部屋の中から常に玲陽が見える位置に座っていたくらいだ。  もし、こんな状態が続くとしたら、若様、仕事できるんだろうか。  東雨は一瞬不安になった。  犀星が仕事をしないからといって、都の政治が止まるわけではないが、大勢ががっかりするのは間違いない。  少なくとも、東雨は困る。面白くない。  犀星がやることは色々と難しく、東雨には詳しいことはわからない。だが、それがこの都を変えていることは明白だった。  花街の治水も、北の農地の改良の件もそうだ。都の中でも、犀星に水網の区画整備を頼む声が高まっている。宮中での発言力も、急速に高まっていた。  これから、どんなすごいことをやるのだろう。  と、東雨は楽しみなのだ。犀星のような主君は、侍童として自慢でもある。  だが、このまま犀星が玲陽のことだけを考えて、閉じこもるようになってしまったら……  そう思うと、悔しくてならない。  光理様が若様を駄目にする。  胸の中に、冷たく乾いた風が、ヒュッと吹いた。  ささやくような二人の声が聞こえてくる。いたわり、励ます言葉。  東雨は、腹立たしさを感じた。  若様ともあろう者が、情けない。  蒼氷《あお》の親王と呼ばれ、都中の羨望と尊敬を集めた。期待以上の成果を上げ、驚愕をもってみなを魅了してきた主人はどこへ行ったのだ?  東雨が憧れ、その背中を追いかけてきた犀星は、こんな男ではなかったはずなのに。  ……玲陽が犀星を変えてしまった。  先ほど蓮章が犀星を見て、呆然としていた時には、東雨も一緒になって笑えたが、今はとてもそんな気持ちにはなれなかった。  笑い事じゃない!  悔しさがこみ上げてくる。  初めて玲陽に会った時、その美しさや柔らかな雰囲気、穏やかさに憧れ、仲良くなりたいと素直に思った。  なのに、今は……  何なんだろう、この気持ちは。  東雨は自分の中の得体の知れないものと向き合っていた。その正体を知ってしまうのが恐ろしかったが、わからないままにしておくのも気持ちが悪い。  どうしたらいいのか、誰に話したらいいのか、いや、人に話すことではないのだろうか。  東雨の考えはあちらこちらを行ったり来たりしながら、結局出口が見つからない。  ……どうしよう、頭が混乱する!  ふっと部屋の中に風が吹いた。  中庭からの風かと思ったが、そうではなかった。  東雨が目を開けると、視界の中に犀星が立っていた。  少し眉を寄せるようにして、じっとこちらを見ている。  東雨は見惚れ、そして、狼狽えた。 「若様……」  視線を泳がせて、それからぎこちなく笑う。無邪気な仮面がかぶれない。頭の後ろがしびれて、言葉が続かなかった。 「大丈夫か?」  と犀星がつぶやく。東雨は何も返せなかった。  犀星は心配そうな目のまま、なおもこちらを見つめている。  東雨はとうとう、顔をそらした。 「顔色が悪い」 「……俺は大丈夫です」  東雨は表面だけでも元気を出そうとしたが、なぜか声は沈み、わずかに震えていた。 「大丈夫には見えないが……」 「夕食を作らないと!」  東雨はまるで、聞きたくない、というように声を上げた。  その様子に、犀星は心配を色濃くする。犀星の後ろから、そっと玲陽が覗いた。 「あの、私が作ります……」  当然、犀星が止めるものと、東雨は思っていた。  どうせ、陽は無理をするな、などと言って庇うに決まっている…… 「そうか。ありがとう。頼む」  え?  東雨は顔を上げた。玲陽がにっこりと笑って東雨を見ていた。 「東雨どのは、休んでいてください」 「お……俺もやります!」  気がつくと、東雨は叫んでいた。自分でも、どうしてそんなことを口走ったのか、わからなかった。 「では、ふたりに任せる」  犀星が、ふわりと微笑んだ。  思わず、東雨は犀星の笑顔に目を見張った。それは、自分だけではなく、玲陽に向けられたものでもあったが、それでも、東雨は嬉しかった。  直前まで、気持ちを支配していたもやもやしたものが、心の底に沈んでいった。  夕食の片付けを終えて、東雨は厨房の隅に座っていた。回廊の端にあるため、厨房からは中庭が見えない。それが、東雨には居心地がよかった。見えてしまうと、どうしても庭の向こう側の部屋が気になってならない。今はあまり近づきたくなかった。  犀星と玲陽の親しい関係は、とっくにわかっていたはずなのに、なぜか、やたらと孤独を感じてしまう。  厨房は人目にもつきにくく、入り口も狭い。誰かが来ればすぐにわかる。  明日の朝食のために仕込みをしておこうと思ったが、どうしても腰が重かった。急ぐことはない。犀星たちが部屋に戻った後は、東雨の自由になる時間である。急ぐことはなかった。  煙抜きから、柔らかい月の光が滑り込んできた。東雨は右手を見た。そこには、うっすらと紫色に変わった圧迫の痕が残されていた。  手首を握った涼景の力と、最後の横顔が蘇ってきて、東雨は胸が苦しかった。忘れたいのに、どうしても消えてくれない記憶だった。  先ほど夕食の支度をしながら、玲陽はめざとく、東雨のアザを見つけ、どうしたのか、と問いかけてきた。優しい彼の顔がちらちらと目に浮かぶ。東雨は、ぶつけたかもしれない、と笑ったが、きっと見抜かれているだろう。玲陽は長い間、似たような傷を数えきれないほど受けてきた。一目で嘘とわかったはずだ。  だが、玲陽は問い詰めることはしなかった。気遣わしげに目を細めて、無理をしないで、と一言だけで、そっとしておいてくれた。  どうして俺に構うんだよ。  東雨は持て余したように、どこか遠くに目を向けた。  自分のこともまともにできないのに、俺になんか構っている場合かよ……  一緒に火をおこし、粟飯を炊き、菜葉を刻んで鶏肉を煮た。その間は、何も考えずに済んだ。不思議なくらいに、楽しかった。だというのに、一人になると急に頭が冴えてしまう。  ……俺、一体何やってんだ?  周りに翻弄されるのは嫌いだ。  自分は自分でいたい。  玲陽のことを考えると、犀星のことがつながってくる。  犀星のことを思えば、皇帝の声が自分を縛る。  結局、自分は自分ですらいられない現実に突き当たってしまう。  今まで、疑問を持っても忘れる余裕があった。それが今は、逃げ場を見失っていた。  しん、と静まった屋敷の中は、まるで誰もいないかのようだ。  東雨は懐を探った。硬いものが指先に触れる。そっと取り出し、東雨は顔の前で眺めた。  握りこぶし二つ半ほどの、小ぶりだが重厚感のある懐刀である。ずっと忍ばせていたため、東雨の体温を吸って、柔らかく暖かかった。しっとりと手に馴染む。美しい藍の鞘に、銀色の雲の文様がうっすらと入り、月明かりの下に幻想的な美しさで浮かび上がっている。  鞘の先に近いあたりに、優雅に毛並みがなびく獅子の絵がある。獅子の目は穏やかだが、どこか、寂しそうだった。  柄の端に埋め込まれた青い石が、まるで氷のように冷たく輝いていた。  東雨は両手でそっと刀を抜いた。鞘を引くと、小口がカチャリと鳴り、美しい刃紋がすらすらと姿を表す。月の光がその刃に跳ねて舞う。鍔に近いあたりに一文字、『涼』の銘があった。  東雨は不思議でならない。なぜ自分は、今もなお、この刀を手放せずにいるのだろう。

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