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4 縦糸横糸(2)
手首は、まだかすかに痛い。自分の体を掴み上げた力。あの時の手首と肩の痛み、圧倒的な存在感で自分を支配した眼差し。自分に起きた全てが夢のようだ。
恐ろしかったはずなのに、東雨は繰り返し、あの瞬間を思い出していた。自分を見つめた涼景の深い瞳、それは間違いなく自分だけに向けられたものだった。
あんなことがあって、もう関わりたくないはずなのに……
あの時、涼景は何かを言おうとしていた。
『おまえは……』
犀星のことでも、玲陽や宝順のことでもなく、俺のことを知りたかった?
「何が、言いたかったんだよ……?」
せめてそれだけでも知りたかった。
鞘から半分抜いた刀身を見つめながら、東雨の声はどこか泣きそうに震えていた。
と、そのとき、屋敷の奥から柔らかな気配が近づいてきた。
東雨は顔を上げた。蓮章だ。
蓮章の薄紫の衣に焚き染められた香りが、寒い空気によく溶けて、スッと鼻の奥に入ってくる。
「こんなところで、まだ仕事か?」
蓮章は静かに尋ねた。
「今、片付けを終えたところなんです」
東雨は当たり前のように答えた。
「明日の朝の仕込みをしようと思ったんですが、少し疲れたので怠けていました」
と照れたように笑う。それは半分は本当だ。
蓮章は勝手に厨房の中を探ると、酒瓶と盃を手に東雨の隣に座った。
「この酒、前に涼が持ってきたやつだろ」
と、酒瓶をかかげた。東雨は頷いた。
「はい、全部飲んじゃっていいですよ。うちでは誰も飲みませんから」
「おまえも?」
「俺はまだ…… でも、多分、苦手だと思います。匂いがあまり好きじゃないので」
と東雨は素直に答える。
「親王も弱いしな」
「はい。若様、いつもよりさらに無口になって、すぐ寝ちゃいますから」
犀星の話をするとき、東雨は自然と笑顔になる。仮面はいらなかった。
「そうだな、涼景もなんだかんだで付き合い悪いし」
言いながら、蓮章は自分で手酌して飲み始める。
「いや、蓮章様が強すぎるのだと思います」
と、東雨は呆れ顔だ。
酒に関して蓮章は底なしで、どんなに飲んでも酔うということがない。酒も薬も効かない体質だ、と冗談混じりに聞いたことがあった。酔って暴れるよりはマシだと思うが、酔えないのに飲んで楽しいのだろうか、と、東雨は気になっている。
蓮章は、ちらりと東雨の膝の上を見た。そして、なんでもないというような口調で言った。
「その刀、涼景のだろう」
涼景と親しい蓮章が知っていても、おかしくはない。
東雨は少し言いにくそうに、
「……別に盗んだ、とかじゃないですから」
と弁解をした。蓮章は小さく笑って、
「そんなことは思ってないさ」
と、盃を空ける。
「ただ、どんないきさつでお前の手に渡ったのか、と思ってな」
絶対に答えろ、という気迫が、そこには滲んでいた。それはまるで、思いを寄せる相手が、別の相手に贈り物をしたのを目撃した、という言い方だ。
涼景と蓮章は幼馴染みだ。東雨が見たところによると、ただの友情という感じでもない。少なくとも、蓮章は涼景に強い執着を持っているように思える。
嫉妬すんなよ、大人気ない。
東雨は、心ひそかにため息をついた。
「情けない話なんです」
東雨は、そう切り出して、思い出話を始めた。
「歌仙にいたとき、俺、女の子に剣術で負かされてしまって」
蓮章は二杯目の酒を注ぎながら黙って聞いている。
「光理様の妹で……」
「もしかして、凛か?」
蓮章が口をはさんだ。
「はい、蓮章様、ご存知なんですか?」
「直接会ったことはないが、涼景からよく話を聞いている。とんでもなく強いやつがいるってな」
「はい。あれはもう人じゃありません」
負けても仕方がない、という自己弁護が込められていた。
わかったわかった、と蓮章は軽く受け流し、
「それで?」
と話の続きを促した。東雨はゆっくりと続けた。
「それで、俺があまりにも情けないから……」
一度声を落としてから、
「仕方なく、涼景様が護身用にと、これをくれたんです」
蓮章はすでに三杯目に口をつけている。
「短刀を護身用に? 普通の刀も、まともに扱えないのに?」
蓮章の発言は正論だが、わずかに残されていた東雨の剣士としての矜持は無視された。
相変わらず、言葉に棘があるな、と思いながら、
「その通りです……だからこの刀には、毒が塗ってあった。俺の腕でも、相手に傷を負わせるだけで殺せるように」
蓮章はもう一度、ちらっと刀身を確かめる。
「毒、ね。だが、今見る限りそんな痕跡はなさそうだな」
東雨は感情を読まれまいと、そのままの顔を作り続ける。心に動揺が生まれたときには、あえて何かせずに、直前のまま固まるのが東雨のやり方だった。それからどんな顔をしようかと考えて、しっかり決めてから顔を作る。いまは『臆病な東雨』を演じることに決まった。
「すごく強い毒だったんで、俺、持ってるのが怖くて洗っちゃいました」
俺ってダメなやつなんです、と、誤魔化しの笑みを満面にたたえる。蓮章は少し黙ってから、声を低めた。
「そうか、血と一緒に洗い流したか?」
ぞくっと東雨は全身の産毛が逆だった。それでも笑顔は崩さない。
「血って、なんですか? 俺に人が殺せるわけないじゃないですか」
自分は無力だから何もできない、というような卑屈な顔だ。
蓮章は、東雨の言葉を信じたように笑顔になった。
「そりゃ、そうか!」
そう言ってから、不意に蓮章は東雨から視線をそらした。
「血液は洗っても簡単には落ちない。小口のあたりに色が残ってる」
ハッとして、東雨は思わずパチンと刀を鞘に収めた。その後、しまった、と、青ざめる。
蓮章は冷たい表情を浮かべた。
東雨は自分の未熟さを呪った。
こんな簡単な誘導に引っかかるなんて……
どんなに表情が出ないようにしたつもりでも、体は正直だった。
「誰を、斬った?」
東雨は頭をじっと下げたまま、足元を見た。それから、ゆっくりと答えた。
「蓮章様の知らない人ですよ」
東雨が初めて殺めたのは、玲陽を傷つけ、犀星を苦しめた男だった。
「蓮章様」
東雨は笑うのをやめていた。
「俺、罪に問われるんでしょうか?」
後悔はしていない。けれど、罪の意識はあった。苦しくないわけではないが、受け入れていた。
蓮章は、もう何杯目かもわからない盃をあおった。
「たとえお前が人を斬っていても、罪には問われない」
蓮章の声に、東雨を非難する色はない。
「どうして?」
東雨は目線を落としたまま、つぶやいた。蓮章はどこか寂しげな表情を浮かべた。
「お前がその刀を持っているからだ」
「え?」
「そいつはただの懐刀じゃない。燕涼景そのものだ。それがおまえの手の中にあるということは、おまえが行うすべてのことに、涼景が責任を持つという覚悟だ。おまえが罪を負うことはない」
東雨は視線をさまよわせた。蓮章を見ることも、刀を見ることもできなかった。
何を見ていいのか、何を考えていいのかもわからなかった。そんな東雨の様子を、蓮章はじっと横目で見た。
「そういうことだよ」
「そういうこと……?」
東雨の刀を握る手が震えていた。
自分のことを皇帝の間者だと見抜き、犀星への裏切りを懸念し、決して油断せずに警戒を解かない涼景が、どうして俺の罪を背負うような真似をする?
これではまるで、自分は涼景に守られているのも同じではないか。
どうして……
東雨は目眩がして、しばらく声が出なかった。
……わからない。涼景が、わからない。
「蓮章様」
東雨は追い詰められ、蓮章を呼んだ。
「教えてください。涼景ってどんな人なんですか?」
と、どこか大人びた声で言った。蓮章は一度目を開き、そして細めた。
『涼景』と呼び捨てにした一言が、東雨の全てを表していることを、蓮章は悟っていた。
低く、鋭く、蓮章は答えた。
「あいつは、お前が手を出していい相手ではない」
その言葉が東雨の全身を駆け抜けた。決定的な何かを突きつけられ、そして突き放された感覚。自分の居場所を見失うような、いたたまれない恐怖。
「そして」
と、蓮章は弱々しく付け加えた。
「俺にも手が届かない人だ」
何故かその声が泣いているように、東雨には思えた。
この人は、やはりあの人を想っている。でも、あの人は……
頭の中が熱くなる。自分の体が意識と離れて遠のいていくように感じる。何かに流されそうになる。流されてしまいたいと思い、それはいけない、と踏みとどまる。
「……そういうこと、だよ」
蓮章は言うと、酒瓶と杯を持ったまま、東雨のそばをそっと離れた。
水瓶の端に、月の光が静かに差している。
東雨はいつしか、刀を胸に抱きしめていた。そうしていると、心が強くなるようだ。もうしばらく、こうして抱いていようと思った。
すでにそれが答えである気さえしたが、それ以上は考えたくなかった。
静かに、闇が揺れてきて、夜が深まっていく。
俺は、どうしたらいい?
問いかけ、刀を強く握る。その瞳はまるで、犀星の手を握る玲陽のようであった。
何か色もわからない泥のようなものがぐるぐると頭の中で回り、その何重にも重なった渦の中心に飲み込まれていくような錯覚があった。
耳のまわりで大きな音が鳴り続き、どうしてもそれを振り払うことができない。神経を掴まれて容赦なく締め上げられ、どこにも逃げ場がない中で、もがいてもがいて息が止まりそうになり、気が遠くなって何かを覚悟した途端、全身がびくんと跳ね、玲陽は目を覚ました。
体は、本当に動いたらしかった。筋肉がこわばってかすかに痙攣しいる。手足の先が痺れ、吐き気がする。自分はどうにかなってしまったのではないか、このまま死んでしまうのでは、という恐れが、熱い血と共に身体中を巡っていた。
しばらくは、自分がどこにいるのかわからず、ただ闇の中に目を向けていた。薄く、ぼんやりと光る月の輝きだけが、そっと彼を包んでいた。
やがて目が慣れ、部屋の壁がうっすらと見えてくる。玲陽は目線を直線的に動かして、あたりを確かめた。
わずかに見覚えがある。
そうだ。ここは都・紅蘭だ。そして犀星が暮らす家だ。自分は、自分のために用意された寝室の、牀の上にいる。
どくん、と心臓が鳴る。今、何かが動いた。ぞっとして玲陽は体を縮めた。
……部屋の角、あの暗がりで何かがじっと……今、何か……
……何か、などいない。何かとはなんだ?
天井の隅で、あのついたての陰で、柱の向こうで……
あの欄間の隙間、そこから差し込むのは青白い月の光……
玲陽はゆっくりと息を吐く。ここには、誰も、いない。
誰もいないことは、玲陽にとって幸せなのか、それとも孤独なのか。
褥に包まれていた体は暖かかったが、顔は冷たい。
都の夜の空気は、こんなにも凍えるのだろうか。
まだ冬も始めだというのに、今からこれでは厳しい時期は、どれほど辛いだろう。
玲陽は自分の胸に手を当てた。心臓の響きが指先に伝わる。いつだったか、この音を止めたくないと、生きていたいと願った。
あの時の気持ちは、決して嘘ではなかった。
しかし、今は、どうして生き残れると思ったのか、何か根本的なものが不確かだった。漠然とした恐怖。
自分が、何に怯えているのかもわからない。
一人になると蘇る思い出したくもない日々。思い出したくないのに、忘れることもできない日々。
ただの記憶だったはずの映像が、いつのまにか肥大して、得体の知れない巨大なものに変わり、自分を閉じ込めている。
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