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4 縦糸横糸(3)
逃げ道がわからない。内側から切り裂かれるようであり、外側から押しつぶされるようでもある。
どんなわずかな兆候も、見逃してはならない。それはすべて自分に向けられた敵意なのだ。
怖い。
玲陽は体を縮め、目は閉じたり開いたりをせわしなく繰り返した。
目を閉じれば、わからないものに飲み込まれてしまいそうで。
だが、目を開ければ、恐ろしいものを見てしまいそうで。
どうしていいかわからない。
どうしていいか、誰に助けを求めれば良いのだろう。
……誰に? ああ、それなら……それだけならわかる!
玲陽は、うまく動かせない身体をどうにか引きずって、牀を降りた。
素足に触れる床が冷たい。ひやりと冷気が足先から這い上がってきたが、むしろそれは確かに自分が生きているという感覚でさえある。
そうだ。生きていたい。なぜそう思えるのか。それはただ一つ、あのぬくもりがあるからだ。
玲陽は、そっと部屋を出た。すぐ目の前に犀星の休む寝室がある。ついたての影を通り、そっと近づく。下ろした薄い帳の奥で、犀星は静かに眠っている。
玲陽は今までも何度か、こうして夜中に犀星の姿を確かめに来た。いつもじっとその寝顔を見つめ、心が落ち着くのを待ってから、自分の部屋に戻る。それが玲陽の、真夜中の静かな習慣になっていた。
しかし、今夜はとても、一人の部屋に戻れそうもない。
玲陽は一歩、牀に近づいた。そして、帳をそっと手で払い、中に入る。
直接見下ろす犀星の寝顔はとても静かで、透き通っている。額に浮かんだ自分と同じ炎の刻印が、夜の青白い空気の中でしっとりと濡れたように肌を彩っていた。
玲陽はそっと、牀の縁に腰掛けた。美しい寝顔を見下ろす。
歌仙で、犀星がよくこうやって自分を見守ってくれていたと思い出した。あの時、犀星の目に自分はどう映っていたのだろう。
玲陽は息を殺し、手を伸ばした。触れたいけれど、起こしてしまうのは可哀想だ。
自分のために、犀星が毎日どれだけ心を尽くしてくれていることか。せめて眠る時くらいは、安らかでいてほしい。
玲陽は、伸ばした手を途中で握りしめ、触れたい思いをこらえた。
まるでそんな玲陽の気持ちを感じ取ったかのように、犀星は静かに、前ぶれなく目を開けた。
「……陽?」
あ、と、小さな声が玲陽の唇からこぼれる。
月の光を映し、犀星の青い瞳が、小さな泉のようにきらめいて揺れる。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるのだろうか、本当に星《ほし》の光が宿ったように輝いていた。
ゆっくりと開かれた目は、暗がりでも迷いなく玲陽を見つける。少し驚いたようだったが、すぐに犀星は笑みをたたえた。
その顔は、玲陽の心を落ち着けてくれる。玲陽の意識を脅かしていたわけのわからない恐怖が去り、代わりに世界が静まって暖かさを増してゆく。
夜の空気で冷えた頬さえ、もう辛くはない。
玲陽はじっと犀星の顔を見つめた。薄く、ぼんやりとした光の中で、それでも決して見失いたくないその姿。
犀星は何も言わず、ただ体をわずかにずらした。
ここにおいで、と言われた気がして、玲陽はゆっくりと、犀星の隣に体を滑り込ませた。
触れ合った足の暖かさ。わずかな間、部屋の中を歩いていただけなのに、玲陽の足は既に冷えていた。
だが、それも犀星のぬくもりがすぐに包み込む。まるで明け方に張った薄氷を、朝日が解かしていくようだ。音もなく、吸い込まれるような熱に玲陽は心地よく目を閉じる。
犀星の腕が優しく伸びてきて、玲陽の肩に触れ、そっと引き寄せる。
顔を犀星の胸元に寄せて、玲陽はゆっくりと呼吸した。優しい香りに胸の中までが満たされた。
昔と変わらない。甘く、心を優しく撫でるような匂い。
この世で一番自分が安心できる場所が、ここにあった。
……帰ってきたんだ。
ため息をついて玲陽は身を寄せ、そして子供のようにその胸にすがる。
彼が望むままに、犀星は抱き返してくれた。その様子は、玲陽の心を読み取っているかのように自然だった。
たまらなくなって、玲陽は体を縮め、犀星にすり寄った。
全身が着物越しにぴったりと重なって、どこからも犀星の体温が感じられる。
肌の下の血の流れまで、直接伝わってくるのが心地良い。
さらに、その奥の心臓の拍動も、さらにさらに深くの犀星の魂の在り様までもが、惜しげもなく玲陽に差し出されている気がした。
今、私はこの人の命に触れている。
玲陽はそう思った。
「陽……」
声が玲陽の耳の奥の敏感なところで、何度か反響した。
その響きは甘く、自分の心に直接染みてくる。
こんなにも心の底に届く音が、他にあるだろうか。
先ほどまで夢の中で鳴り響いていた恐ろしい音も、もう聞こえない。
今、自分を呼ぶこの声に比べたら、この世界には他に聞くべきものなど何もない。
体温も、声も、匂いも、そして目を開いたときに、すぐそばで見つめることができる瞳も。
すべてが犀星なのだ。
ため息のような、嘆きのような声を玲陽は上げた。
そしてたまらないと言うように、伸び上がり、犀星の耳に頬ずりする。
冷たい自分の肌。
暖かな犀星の肌。
「……あなたの熱をください」
玲陽はささやいた。
「あなたの命にもっと、触れさせてください」
切なる願いが言葉となって、月の光が奏でる旋律のような声色に乗せ、つむがれる。それは玲陽から犀星へ、しっかりと伝わっていく。
長い金色の髪を指ですいて、犀星は丁寧に撫でた。
そしてそっと額に口づける。
柔らかなその感触に、玲陽はわずかに震えて、目を閉じた。
そのまぶたにも、犀星の口づけが降りる。
ゆっくりと玲陽を知るように、唇で触れる。まぶたから鼻筋、頬、顎、喉へと、たどっていく。
玲陽の肌の奥の命も、心も、すべてを、犀星は受け取ることができる。
それはすでに、犀星の前に捧げられているのだから。
玲陽の吐息に応えるように、犀星は熱く息を漏らした。
肌がしっかりと熱を感じ、玲陽の体の奥で熱い炎がひときわ強く燃える。
犀星は顔をすり寄せ、玲陽の耳にも甘く口づけを落とす。
一つ一つ、丁寧に、丁寧に、思いを込めて。
「……陽」
深く息を整え、犀星は身を寄せて、玲陽の腰に手をかけた。
玲陽は両手を胸の前に抱いて、そのまま体を預けるようにして目を閉じている。
「はい」
優しい声で玲陽は返事をした。
犀星は玲陽の髪をそっと嗅ぎながら、ささやくように言う。
「……今日から一緒に寝ないか。お前さえよければ」
玲陽は閉じていた目を開けた。
そばにある犀星の目。
どこか照れたような、迷っているような、不安そうで、そして期待を帯びた目。
玲陽はひとつ息を飲んだ。それから、最初に心に浮かんだことを言葉にした。
「これから、ずっとですか?」
玲陽がそう尋ねると、犀星は少し顎を引くようにして、静かに答えた。
「……俺は、そうしたい」
「……嬉しいです」
玲陽は気持ちの形をそのまま唇にのせて、素直にそう言った。
犀星の顔にも同じように、安心した微笑みが浮かぶ。
まるで鏡のように、二人は互いを映し合っていた。
犀星はそっと玲陽の頬に指を当て、そこから垂れていた髪をすくい上げ、後ろへと手懐けた。
そしてまた、額からかき上げて優しく撫でていく。
しっかりと開いた指で玲陽の肌をつかむように、力を込めて触れる。それは玲陽に、深い安堵をもたらした。
犀星が与えてくれる全てに、玲陽は素直に身を任せた。
「あなたと一緒にいたい」
あまりにも自然に、言葉が玲陽の口からこぼれた。それは玲陽自身をも驚かせた。
「……そうしよう」
犀星は吐息まじりに、優しくそう言った。
玲陽はまた目を開き、じっと犀星の顔を見つめる。
そのまなざしは、犀星のどんなわずかな変化も見逃すまいとするかのように真剣で、そして切実だった。
悲しいほどにまっすぐで、耐えきれないほど熱い。
玲陽はただ、大切な人を見つめ続けた。
犀星は、玲陽の唇に触れ、そっと微笑んだ。
玲陽は当てがわれた指に静かに口づける。それから、少しだけいたずらっぽく微笑むと、わずかに唇を開き、舌先で触れた。
その濡れた熱に、犀星の目がわずかに震える。
「……いや、ですか?」
玲陽が静かに尋ねる。
「嫌なら、逃げてる」
それが犀星の答えだった。
玲陽が柔らかく笑う。もう一度、舌で指をそっと撫でる。心地よさそうに、ひとつ、犀星は声を漏らした。
ちょうど同じ頃、天輝殿。
宮殿の中程に、石の間と呼ばれる部屋がある。
そこは、この世にあって、この世ではない。分厚い石壁で閉ざされ、世の規範が失われた場所だ。
立ち入ることを許されるのは、皇帝と、彼に招かれた者のみである。
喉を刺す冷たい夜気と、それを熱して混ざる香の匂い。
涼景は、最近、似た匂いをどこかで嗅いだように思う。
石壁に何度も反響して聞こえるのは、人の声とは思われない獣じみた鳴き声。彼は自分のそれを、遠くにぼんやりと聞いていた。
石の床は、いつまでも冷たく素肌を刺した。乱暴に引きずられ、全身に薄い傷がつく。緊張と弛緩を繰り返しながら、身体が幾度となく波を打つ。呻きとも唸りともつかない声が、高く低く、鋭く鈍く、断続的に部屋の空気を震わせた。その震えは、居合わせた者たちにも伝わってゆく。
壁に並んだいくつかの行灯の光、弱いその光の中、床の上でのけぞる体と汗ばんだ声は、宝順の支配欲をどこまでも駆り立てる。部屋の隅に潜む、何人かの男たちの息遣い。薄暗い中では判然としないが、どの顔にも鬼気迫るような色気があった。
受け入れながら、涼景は終始、濁った目を虚空に向けていた。
二つの手首は重ねて縛り上げられ、逃れる術はない。自由の効かない体で、ただ彼の主人にすべてを差し出す。いやおうなく。
柔らかい場所を、己の意思とは関係なく支配されていくこの行為は、彼にとって、もう日常の一部となっていた。されるがままに身を委ねるその姿には、暁将軍としての面影はなかった。
歪んだ視界の隅で、小さな蝶が舞う。
全身に粘りつく香りは、彼から素早い判断力と天性の直感を奪う。だが、それでも、ギリギリに理性を手放せない。狂ってしまえればもっと楽なのに、と、涼景はいつも、冷めた心とたぎる体との狭間で、苦悶と屈辱を強いられる。
一呼吸ごとに壊れていく何かを、ただじっと見つめ続ける。
脳裏には、いくつもの顔が浮かんでは消える。
どの顔も、まるで今の自分とは別の世界にいるようだ。汚れなく澄んで、命を謳歌するかのように輝いている。
頭の上で押さえつけられた手首を、涼景はわずかによじった。その戒めは、どれほど高められても、自ら解き放つことを許さない。ただ、宝順の意のままに、翻弄されるのみである。
楽になりたい。
そう望むなら、導くしかない。
喉から吹き出す声が、とめどなく響く。意味すら持たないその声が、宝順をさらに自分の奥深くへと誘う。
魂が焼かれるような屈辱と渇望で、涼景は悲鳴をあげ続けた。
声で、視線で、表情で、吐く息で、皇帝を誘い、昂らせて。
さもなくば、生殺しだ。
……楽にしてくれ!
涼景の目元が歪む。その頬に、涙とも汗ともつかぬ雫が流れた。
何かを求め、力を込めて伸ばされた指が掴んだのは、虚ろな闇だけだった。
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