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5 動き出す時間(1)

 昨日、軒下の大根は塩漬けにされた。  今朝まで残っていたなら、朝の寒さで凍りついてしまっただろう。  間に合ってよかった。  犀星は庭の初霜を眺めて、そう思った。  冷え込みが厳しくなってきた朝の空気の中、庭に面した引き戸を全開にして、彼はぼんやりと回廊に座っていた。今年は、寒暖差が激しい。きっと、五亨庵の楓は、例年より鮮やかに紅葉するにちがいない。そんな予感がした。  見慣れた庭の景色が、特別に美しく見えるのは、きっと、自分の心が穏やかなせいだ。  本当に、人とは勝手なものだ。気分次第で景色も変える。  犀星は静かな朝の風を心地よく感じながら、そんなことを思っていた。  少し前に、涼景が自分たちの様子を見にきた。その時、薪の手配が間に合わない、と嘆いていたことを思い出した。何か政策を講じる必要がある。天輝殿で皇帝と官僚の合議に提出するため、早めに計画案の作成に着手せねばならない。  我が家でも、薪を節約しよう。  これ以上は無理です、と、東雨が真っ青になるようなことを、犀星は平然と考えていた。  毎日が平和に過ぎていく。  ただひとつ、気がかりなのは、ひたすらに玲陽のことであった。  彼の身体の傷は随分と癒え、体力も日々の暮らしを送るには問題がなくなった。  案じているのは、その内面である。  犀星は、そっと自分の袖をたくし上げた。左の肘の内側に、赤く腫れたような傷が残っている。  昨夜、玲陽によってつけられ噛み傷だった。  肌は痛まなくても、心が痛む。  玲陽は最近、夜中に突然目を覚まし、得体の知れない恐怖に駆られ、我を忘れることがある。  そういう時は決まって、そばにいる犀星が標的になる。玲陽は怯え切った目を向けて、爪を立て、歯を立てる。自分を守るために、見えない何かと戦っているかのような痛々しい声を上げて。どんなに名前を呼んでも、届かなかった。  犀星は黙ってされるに任せている。無理に押さえつければ、怪我をさせてしまいそうだった。自分の体が傷つくのは構わない。けれど、玲陽には一筋の傷もつけたくはない。  犀星はただ、玲陽の名を呼び続けながら、そっと髪を撫で、体をさすった。  発作のように起きるその症状は、少しすれば自然とおさまった。浅く乱れていた呼吸が少しずつ鎮まり、呼び声にも反応して、噛み付くようだった仕草も、優しく甘える口付けに変わる。そうやって、玲陽はすっかりおとなしくなり、そのまま犀星にすがりつくように眠ってしまう。  そして、翌朝、目覚めたときには、夜中のことはすっかり記憶から抜け落ちているのだ。  犀星は、目立つ場所に傷が残らないように配慮する必要があった。記憶がないからこそ、玲陽には隠したかった。  もし、犀星の傷を見つければ、心配して問いただすに違いない。それが自分がつけたものだと知れば、自己嫌悪に陥るのが玲陽の性分だ。  病がさせていることだ、と、犀星は玲陽の行動を受け入れている。  先日、発作の最中に玲陽が大きな声を上げ、それに気づいた蓮章と東雨が駆けつけてきた。  犀星は二人がそれ以上、近づかないように止めた。発作中の玲陽は周囲の気配に過敏だった。犀星以外の人間がそばに寄れば、どのような行動にでるのか、予想がつかなかった。犀星はふたりに、このことは口外しないよう、釘をさした。  玲陽の攻撃は、犀星の命に関わるようなものではない。ただ、体のあちらこちらに、引っかき傷や噛み傷が残るだけだ。それとて二、三日で消える。そんなことよりも、玲陽が真実を知って傷つくことの方が、犀星には恐ろしい。  一度、安珠に相談をするべきだな、と、東雨を遣いに出したのは昨日のことだ。  忙しい医者だから、いつになるかわからないが、できるだけ早く来ると約束をしてくれた。  玲陽の左手の指も背中の火傷も、寒さが厳しくなるにつれて痛むことが増えた。安珠の助言で、適度に薬や香を用い、和らげているが、これからの時期はことさら辛いだろう  安珠が、滋養薬だと言って出した薬が、心の病のものだであることを、犀星は匂いから察した。  いたずらに玲陽を不安にさせないために、安珠はあえて効能を濁したのだろう。  犀星は手に入れた薬をすべて、玲陽のために使った。  その甲斐あってか、夜間の突発的な発作のほかには、玲陽は普段通りの暮らしを送っている。  しかし、この生活はいつまでも続けられるものではなかった。  犀星の本来の政治的な役割は、手付かずのまま残されている。  都に戻れば、すぐにでも出仕しなければならなかったが、この状態の玲陽を一人残していくわけにもいかず、また、宮中の人通りの多いところへ連れて行くこともできなかった。  このままでは二人で、屋敷にずっと閉じこもるしかない。  それが本当に、玲陽のためになるとは思えない。  犀星にできる事は、目の前の一瞬一瞬を、玲陽に寄り添うことだけだ。  苦しいのは自分だけではない。  一番辛いのは、玲陽本人である。  もともと、負けず嫌いで何事にも真面目に向き合う玲陽は、今の自分の状況が悔しくてたまらないようだった。  だが、こればかりは努力でどうにかなるものではない。  心が拒絶する。それはどんなに勇気を出しても、抑え切れない。  長く一緒にいるおかげで、もう蓮章を怖がることはないが、代わりに久しぶりに訪ねてきた涼景を見て、一瞬硬直を示した。  一つがうまくいけば、別の何かがうまくいかなくなる。進んだり戻ったり、そんなことの繰り返しだった。  それでも玲陽は前向きだ。  今も東雨と一緒に、厨房で朝餉の支度をしているところだった。  少しでもできることはないかと探して、小さな事でも精一杯に力を尽くそうとする姿は、犀星を何よりも勇気づける。  玲陽も頑張っているのだから、自分が気持ちを強く持たなくてどうするのだ、と犀星は自分を叱咤した。  ともに生きたい。ただその一念だけだ。  だが、そう思いながら玲陽に寄り添えば寄り添うほど、犀星の心も少しずつ疲弊していく。  恨み事を言うつもりはないが、心が突然に崩れ、倒れそうになることが何度かあった。  そういう時に犀星を支えてくれたのは東雨だった。  ただ笑顔を見せ、他愛のない話をする。  時には今のように、玲陽を誘って連れ出してくれる。その間、犀星は一人でほっと息をつく時間が持てた。  東雨が意識してやっているのかどうかはわからなかったが、結果として犀星は救われていると感じる。  玲陽を支えることにばかり気持ちが向くが、支えられることがどれほどありがたいかを、東雨から教わった気がした。  一人では、できないことがある。  犀星は、厨房の方からかすかに聞こえてくる笑い声に、頬を緩めた。同時に、ちくり、と針で刺すような痛みもあった。  東雨は、本当に、東雨なのか。  あの少年と、宝順帝とのつながりに対する、目を背けたい真実に、犀星は心を痛めた。  過去、さまざまな場面で、宝順が自分に突きつけてきた要求の背景には、個人的な情報をもとに探り当てたような計画があった。それは、何者かが、犀星の身辺情報を宝順へ流している可能性を示唆している。それができるのは、東雨しかいなかった。  しかし、それでも、犀星は東雨を責める気持ちにはなれなかった。むしろ、叶うなら、このままそばで見守りたいと願ってしまう。 「今朝は冷えるなぁ。霜が降りたか」  振り返ると、薄紫の袍に濃紺の外袍を羽織った、寝起きの蓮章が立っていた。  勝手に部屋に入ってきても、犀星は嫌な顔ひとつしない。むしろ、そのような気安い付き合い方のほうが好ましい、という様子だ。 「ああ。雪も近いな」  片膝を立て、その上に顎を乗せ、体を丸めるようにして、犀星はじっと霜の降りた庭を見ていた。  蓮章は無遠慮に隣に座った。護衛の名目で滞在しながら、しっかりとくつろいでいる。  だがやはり、犀星は気にしていない。警戒心がなさすぎる、と涼景にはよく叱られるが、犀星とて誰彼構わず気を許しているわけではなかった。むしろ、自分では人を信用しない性質だと思っている。  蓮章は無造作に髪を掻き上げた。彼の場合、整った容貌も味方して、所作のひとつひとつが艶かしい。玲陽以外に興味のない犀星でなければ、目を奪われていただろう。現に東雨は、蓮章の前では挙動不審だった。 「光理は?」 「東雨と一緒に朝食を」  犀星はぼんやりと答えた。蓮章はゆるゆると脚を崩した。 「あいつ、東雨とは普通に話ができるんだなぁ」 「歌仙にいたころからだから、慣れたのだろう」  犀星の横顔を蓮章はじっと見つめた。どこか疲れた顔をしている。  あれだけ玲陽に気を遣っているのだ。犀星とて楽ではないだろう。  蓮章はあえて口にはしないが、心密かに思った。  犀星は一見すると穏やかだが、実のところ、激しい一面を合わせ持っている。同情すれば、その分意地を張る。そんな子供っぽさは、どこか涼景と似ていた。  このような相手は、自分から泣き言は言わない。限界まで抱えて、自己崩壊することになるのだ。それを防ぐには、こちらから本音を引き出して、適度に息抜きをさせてやる必要があった。  涼景といい、親王といい、手間のかかる。  と、蓮章は苦笑した。 「光理、どうなんだ。」  蓮章が小さな声で問いかけた。 「どうって?」  犀星は前を見たまま答える。 「昼間は気を張っているようだが、夜の様子では、相当参ってるんじゃないか?」  蓮章は、昨夜も玲陽が犀星を襲っていたのを見た。玲陽は泣き叫ぶのではなく、うめくように低くうなり、犀星に馬乗りになって、体を叩き、爪を立てた。犀星は呼びかけながら、玲陽が怪我をしないように、と、不安定な体を支えていた。 「親王、怪我は?」 「……平気だ」 「そうか」 「……言うなよ」 「誰に?」 「誰にも」 「言わない」 「…………」 「お前はよくやってるよ」  蓮章は繰り返した。 「本当によくやってる」  それは、懐かしい話でも語るような口調だった。犀星はちらりと横目で蓮章を見た。  色の薄い灰色の左目が、冷えた朝陽に包まれた庭を静かに見つめている。寒空のようなその瞳は、どこか悲しげだった。 「おまえたちを見ていると、昔の自分たちを思い出す」  蓮章はゆっくりと話した。 「おまえと会う少し前だ。俺はあの頃、少々荒れていてな。師匠にも、涼にも、随分と心配をかけたものだ」  犀星はわずかに目を開いた。ほんのわずかな表情の変化だったが、明らかに興味を示していた。普段から、犀星はこの程度の反応しか見せないのが普通だった。  蓮章は構わずに続けた。 「涼のやつ、ものすごく必死でさ。俺をどうにかしようって頑張ってくれたよ。でもなぁ、俺にはそれが、邪魔だった」  蓮章の告白に、犀星はただ黙って言葉の続きを待っている。 「迷惑だった。余計なお世話だと、思ってた」  蓮章は言葉を重ねた。 「俺を薄情だと……恩知らずだと思うか?」 「……どうだろうな」  犀星が小さく低く言う。こういう言い方をする時、本当に犀星は答えが出せないのだということを、蓮章は経験から知っていた。犀星は、なぐさめに無責任なことは言わない。わからないことには、わからない、と言える男だ。  それが、蓮章には小気味よかった。 「涼はとにかく、がむしゃらでさ。あれは駄目だ、これは駄目だ、こうしろ、ああしろ。何でもかんでも決めてきた。俺のためを思って言ってくれたんだろうが、それが俺にとっては重かった。俺も素直じゃなかったのかもな」  そこでひとつ、小さなため息をついた。

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