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5 動き出す時間(2)

「もしあの時、黙って涼の言葉に従っていれば、今はまた違った関係だったのかもしれない。でも、そうはならなくてよかったと、今は思う」  蓮章はそう言ったが、その言葉にはどこか寂しさがあった。 「俺たちは、何かが違ってた」  蓮章は言葉に詰まった。そして珍しく、本当に困った顔をした。それからわずかに照れたような笑みを浮かべ、 「俺はな……ただ見て欲しかった」 「見る?」 「ああ。あいつが見てたのは『あいつの中の理想の蓮』。自分が望む姿しか見てなかった。俺はただ、目の前の俺を見て欲しかった」  どこかに影のある、色めいた蓮章の声が揺らいだ。 「だから、俺たちは……」  蓮章はさらに言葉を探したが、それ以上は見つけられず、首を振った。 「馬鹿だと思うか?」  少し声を高めて、判断をあずけるように蓮章は言った。 「……思わない」  犀星は小さいが確かな声で、 「人は間違える。それに気づくのは、ずいぶん後になってからのこともある」 「…………」 「それでも、その時は正しいと信じて選ぶ。だから、それでいい」  蓮章は、美しい目を犀星に向けた。  犀星もまた青い目で、それを見返した。  二人の視線が、しっとりと絡み合う。  蓮章はささやいた。 「ずいぶん優しくなったな。今のおまえ、いいと思うぞ」  犀星は黙って、少し息を長く吐いただけで、それ以上は言わなかった。  蓮章は立ち上がると、体を大きく伸ばした。そして、やわらかく微笑んで犀星を見た。 「ちゃんと、あいつを見ろよ」  犀星の目がピクリと動く。  蓮章は、今、自分が取り戻すことのできない大切なものを、俺に託した……  目の前に道が開けたように感じた。犀星は微笑み返し、頷いた。  厨房では東雨と玲陽が、手際よく働いていた。  犀星の家では、白米が使われることはまずない。新年の祝いに年に一度だけ、粥を作るのみである。それも、東雨の執念が犀星を説き伏せ、ようやく叶った習慣だった。  粟を煮込む鍋が、いい香りの湯気をあげて蓋を揺らしている。玲陽の前には、大根が一本、どん、と置かれ、砧《きぬた》の上で切られる時を待っていた。その脇のざるには、水で戻した椎茸と、そのだし汁も用意されている。  献立はその日の気分で決まるのだが、最近はもっぱら大根づくしである。多くは漬物用に干したが、まだ使いきれないほど残っていた。  一緒に育てていた白菜と葱は、すっかり収穫時期を逃した。 「やっぱり、畑の手入れって大事なんですね」  東雨が、とうが立って花まで咲いている白菜を抱えて、泣きそうな顔で言った。 「ちょっと留守にしている間に、自然に任せて育ち放題ですよ。まるで、雑草と競争してるみたい」 「ああ……」  と、玲陽は苦笑した。東雨が白菜の黄色い花を見つめた。 「これ、食べられます?」  玲陽は少し考えて、 「外葉や硬い葉は、刻んで漬物や煮物にできます。煮る時間はかかりますけれど、大丈夫です」  玲陽の提案に、東雨は顔を上げた。 「それから、芯や花芽はお浸し……油で炒めたり、揚げてもいいですね。花は少し苦いですが、菜の花と同じ感覚で、やはり揚げて塩でいただくと風味があります」  東雨は期待した目で玲陽を見上げた。 「光理様、それ、作ってください! 俺、市場で油、買ってきます!」 「私は構いませんが……」  と、玲陽は困った顔をした。 「兄様からいただいている生活費が……」  玲陽は、それが、ありえないほど微々たる金額だと聞いていた。東雨がニコッと笑った。 「それがね、光理様! 若様、予算増やしてくれたんです!」 「え?」  玲陽の顔も輝く。一月三十文では、男三人、とても生活はできない。 「い、いくらですか? 兄様のことだから、三十二文とか……」 「それが……」  東雨はどさくさに紛れて、玲陽に顔を近づける。 「五百文!」 「……ええっ!」  思わず玲陽はのけぞった。東雨は、へへっと笑って、 「三十文は据え置きで、合計、五三十文!」 「でも、どうしていきなり?」 「若様が、これから光理様のものを揃えたりしたいから、いろいろ金がかかるはずだって」 「……いいんでしょうか」  玲陽は戸惑った。だがそれは、ごく自然な困り感であった。 「そんなに出していただくなんて申し訳ないです。私の荷物は、買わなくても、もうすぐ歌仙から届くはずですし……」 「しー!」  東雨が自分の口に指をあてた。 「せっかく、くれるっていうんだから、もらいましょ! 荷物の話は内緒にしといてください」 「内緒って、まず、間違いなく、ばれますけど……」 「ばれる前に使っちゃいますから!」  東雨があまりに嬉しそうで、玲陽はこくり、と頷いた。共犯成立である。  玲陽は、かまどの前にしゃがんで火加減を見る東雨を眺めた。歌仙に残してきた妹の玲凛を思い出す。一緒に暮らしたとしたら、こんな感じなのだろうか、と想像して、玲陽は目を細め、そのままの顔で大根を見つめる。  よし。  包丁を握る手に気合が入る。少しでも、東雨の役に立ちたかった。  大根を切る。ただそれだけのことのようで、しかし、玲陽には大勝負の気迫があった。  輪切りにし、そこに器用に切り込みを入れていく。  何やら黙々と包丁を動かしている玲陽が気になって、東雨が見にきた。 「わぁ!」  と、東雨が歓声を上げた。玲陽は大根を、花の形に細工切りしていた。 「すごい! 宮中のご馳走みたい!」  玲陽は照れたように笑った。 「光理様、なんでこんなこと知ってるんですか?」 「十年前、犀家の料理番の方に教えていただいたんです」  東雨は目を丸くした。 「十年前って、ずっと覚えてたんですか? 俺なんて十年前の記憶ないですよ」  と言って、東雨はおどけて見せた。 「あの、俺にもできますか?」  興味津々の東雨に、玲陽は包丁を渡した。  梅の花の形に細工された完成品を見ながら、東雨が四苦八苦する。その困った横顔さえ、玲陽には嬉しく愛おしかった。 「あれ? 切りすぎた……」 「大丈夫です。そういうときは刻んで粥に入れてしまいましょう」 「はい!」  東雨はほっとして、また挑戦する。大根に包丁で切り込みを入れながら、難しそうに顔をしかめた。 「そこは斜めに……」  玲陽は優しく説明しながら、東雨の手に自分の手を添えて、包丁を動かす。  玲陽の細くて柔らかい指が東雨の手の甲を包む。  思わず、東雨はほっと息を吐いた。  この手、いつも若様が握ってるんだよな……光理様って、本当に優しい。あ、なんか涙が出てきそう……  と、余計なことばかり考える。 「覚えました?」  玲陽がそっと尋ねた。覚える以前に、東雨は聞いていなかった。 「……もう一回お願いします」  頬を赤らめたその笑顔が、玲陽には可愛くてならなかった。 「では、もう一度」  そう言ってまた、手を取って教える。  集中力を全力で傾け、今度こそ東雨は覚えた。  玲陽はその間に、大根を煮込むための鍋に椎茸の戻し汁を入れ、一緒に数本の鶏の骨を加えた。  かまどから炉に火を移し、鍋を温める。  東雨は不恰好ながら、どうにかひとりで梅の花を作り続けている。 「よし、できた」  最後のひとつを作り終えて、東雨は満足そうに砧の上の花畑を眺めた。その隣には、粥に混ぜ込むみじん切りの山も、積み上がっていた。 「では、ここに」  と、玲陽がそっとひとつひとつ、花型の大根を煮汁に鎮める。東雨はそれを見て、首を傾げた。 「どうして鍋の底に粟を入れているんですか?」 「こうしておくと、大根が直接鍋に触れて焦げ付くのを防げるんです」  さらり、と玲陽は答えた。東雨の目に、尊敬のふた文字が浮かぶ。 「光理様、なんか、すごいです!」 「え?」 「若様なんか、ざくざく切って終わり、食べられればそれでいい、みたいな感じで」 「兄様は昔から効率重視でしたから。私からしたら、要領が良くて羨ましいです」 「じゃあ、俺、両方できるようになります」  東雨は、任せてください、と胸を張った。  その様子は年齢よりも幼く見える。玲陽は首を傾げるようにして微笑んだ。玲陽のこのしぐさが、東雨は大好きだった。 「あ、東雨どの、粟!」  玲陽が、かまどの上の粟飯を見て声を上げた。 「あ!」  東雨は慌てて鍋を火から下ろした。中身をそっと確認する。どうやら、焦げつかせずに済んだようだ。大根を加え、魚醤と塩で味を整える。 「ちょっと味を見ていただけませんか」  東雨は粥を小皿に少し取り、玲陽に差し出した。玲陽は受け取って、そっとすする。そして、ニコッと笑う。それだけで、東雨はもう、舞い上がっていた。 「では、こっちも……」  お返しに、と、玲陽が大根の煮付けの汁を小皿にすくって、東雨に渡した。  東雨は、ふーっと息を吹きかけてから、ゆっくりと舌の上に乗せた。 「……うまい!」  東雨の目がきらきらと輝く。 「ほんとにおいしいです。でも、これ、なんの味だろう?」 「少し鶏がらを加えたんです。ほら」  玲陽は、鍋の中から小さな骨を取り出してみせた。 「一緒に煮込むと、味が深まるので」  やっぱり、光理様はすごい!  東雨は素直に感動している。犀星の味付けは大雑把すぎて、比較にならなかった。 「仕上げに、生姜を針に切って添えましょう」  玲陽は、手早くひとかけらの生姜を千切りにした。  一通り準備を終え、東雨は厨房から中庭の方へ顔を出した。 「朝の準備ができました!」  屋敷中に響く、明るく元気な東雨の号令。  本来であれば、きちんと膳を揃え、そこから主人を呼びに行くというのが流れなのだが、この家では、そのような手順は省略されている。  一つ屋根の下で暮らすのだから、上下関係は考えない。身分も立場もない関係ない、というのが犀星の考えである。 「光理様」  と東雨が振り返る。 「光理様も呼んでみませんか?」 「呼ぶ?」 「大きな声で『ご飯ですよ』って。ふふ、若様きっと、驚いて飛んできますよ」  その時の犀星の顔を想像して、東雨はにやにやしている。いたずらな笑顔に乗せられて、玲陽は東雨と並んで中庭へと首を伸ばした。  思いっきり息を吸い、声を出そうとして……玲陽は固まった。  声を出したいとは思う。言うべき言葉も決めている。  だが、喉がきつくしまって、息ができなくなる。  玲陽の顔が、さっと白くなったのを東雨は見逃さなかった。 「無理しないでください。大丈夫、大きい声は俺が担当します」  東雨はそっと玲陽の前に進み出ると、目を見つめ、ゆっくりと言った。直前の大声とはまるでちがう、花がかすかに風に揺れるような優しさがあった。  玲陽の緊張が少しずつ解ける。そのかわりに、悔しさがじわじわと湧き上がってきた。  ただ、声を出すだけなのに。  玲陽は唇を噛んだ。  できると、思ったのに……  もう、大丈夫、と思って油断すると、唐突に心の傷は痛み出す。どのようなきっかけで調子を崩すか、玲陽本人にもわからなかった。 「光理様」  東雨は下から覗き込むように、玲陽を見て、 「盛り付け、お願いできますか?」  玲陽は少しの間、寂しそうな顔をしたが、東雨の顔を見て、ゆっくりとうなずいた。 「わかりました」  と、小さい声で言う。その声は掠れていたが、どうにか言葉になった。  東雨の気遣いが、玲陽にも染みる。すまない思いと同時に、嬉しかった。 「東雨どの、ありがとうございます」  玲陽はすとん、と頭を下げた。 「お礼なんて変ですよ」  東雨は慌てて手を振った。 「自分の得意なことをすればいいんです。一緒にやれば、一人じゃできないことも、きっとできます」

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