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5 動き出す時間(3)
東雨は言って、照れ笑いを浮かべた。玲陽は素直に頷いた。
玲陽にはまだまだ、できないことがある。
しかし、東雨はそれを責めるのではなく、支えて励ましてくれる。
東雨どの、最近、兄様に似てきたな。
花の大根をきれいに盛り付け、最後に生姜を乗せながら、玲陽は穏やかに微笑んでいた。
しかし、それを見守る東雨の顔は、なぜか少し、青ざめていた。
大根づくしの朝食が終わった頃、数日ぶりに安珠が訪ねてきた。東雨からの知らせを受け、彼はすぐに都合をつけてくれた。安珠を迎え入れた玲陽は、少し落ち着いているように見えた。
前回の訪問の際には一度も声を出せなかったが、今日は小さく、ありがとうございます、と顔を見て頭を下げた。その様子に安珠はほっとして、静かな笑顔になった。玲陽の心もやわらいだ。
部屋には、安珠と玲陽のほか、玲陽に寄り添う犀星と、部屋の隅に置物のように、蓮章と東雨が並んで座っている。玲陽はともかく、他の三人の表情には言葉にしない緊張感が漂っていた。
もちろん、彼らは、玲陽が再び心を乱したり、不安に襲われたりしないかと心配している。
だが、一番の問題は別にあった。それは、朝食の際に玲陽が言い出した提案についてだった。
玲陽はそれを、安珠にも伝えた。
「市場に、行こうと思うんです」
玲陽は、よく通る声でそう言った。
安珠は驚いて、茶にむせた。
「え? 何ですって?」
「市場に、油を買いに行きたいんです」
玲陽はゆっくりと、
「私……」
と言いかけ、言葉に詰まる。何も言えなくなるか、と犀星がその手を取った。だが、玲陽はさらに続けた。
「私やっぱり、このままじゃダメだと思うんです」
その声にはしっかりと芯があった。
安珠は、むぅ、と唸り、何かに納得したような顔で玲陽を見守った。
他の三人は内心でハラハラしながら、それでもそれを顔には出さず、息をひそめる。東雨などは、逆ににっこりと笑みを浮かべて誤魔化している。
玲陽は、覚悟を決めたように安珠を見つめていた。
「ここに来てから、自分が少し変だって思ってました。このままでは、私はダメになりそうです」
その言葉に犀星の方が不安を覚えて、しっかりと手を握る。それを察して玲陽はそっと指を絡めた。だが、それは犀星に頼るためではなく、逆に犀星を支えるような握り方だった。
「光理どのは、お強いですなぁ」
と、安珠は感嘆のため息をついた。
「気持ちが不安定になることは、誰にでもあることです。光理どのはそれが人よりも大きく現れただけのこと。今、前に進もうという気持ちが生まれたのは、非常によいことです。光理どのの強さと、そして光理どのを支える歌仙様たちのお気持ちがそうさせたのでしょう。……お止めはしません」
安珠の最後の一言に、玲陽以外の三人がピクっと肩を揺らす。
本気か……?
犀星が、安珠に目で問いかける。
まだ早くないか、と、蓮章も眉をひそめる。
油は俺が一人で買ってきます!
笑顔のまま、東雨は心の中で叫んだ。
玲陽一人が、パッと顔を輝かせた。
「ありがとうございます。大丈夫です。買い物に行くだけです。五百三十文あります。油を買いに行くだけです」
まるで何度も確認しなければ気が済まない、というように、玲陽は繰り返した。
どう見ても、大丈夫そうには見えない。
犀星などは得意の仮面が外れて、目が泳いでいる。
安珠は、そんな犀星の心まで見透かしたように、
「歌仙様、ご安心ください」
と、玲陽ではなく、犀星の方を心配する。
それからふっと思いを巡らせ、
「そうですなぁ。少し策を練りましょう」
と、まるで楽しいことを計画するかのように微笑んだ。
「はい」
と、玲陽は返事をした。
蓮章と東雨は思わず顔を見合わせた。
安心してよい、とは言ったものの、安珠には一つ気がかりなことがある。それは都での噂話だ。
犀星たちが歌仙から帰還したその日の夕方、偶然にもこの屋敷に入っていく一行を見た者がいた。その者たちの関心は、犀星の帰還より、同行していた玲陽の姿に集まっていた。
夕暮れ時、玲陽の金色の髪は、はっきりと人々の印象に残った。そこから派生して、今や大変な噂が飛び交っていた。
金色の髪と銀色の瞳、人の魂を食らう妖。近づくと、魅了され、その目に睨まれると、魂を吸い取られる。歌仙様も、妖に食われたらしい。
そんな突拍子もない噂は、玲陽に対する人々の関心の高さを物語っていた。
もし、このまま玲陽が街中に現れれば、あっという間に大勢の好奇の目にさらされる。
安珠はちらりと蓮章を見た。彼が髪の半分を隠すために黒く染めていることを、安珠は知っている。以前、体質を変えるための薬はないかと相談されたためだ。
蓮章の場合は、染めるだけで話が済んだ。だが、玲陽の場合はそれでは済まない。
髪を黒く染め、容姿を控えめにするのは、確かに混乱を避けるためには効果的な方法だが、それはありのままの自分を否定されるということになる。玲陽の心の状態には良いことではない。
あくまでも玲陽は玲陽のまま、人々に受け入れられる必要がある。
安珠は思案して、玲陽に問いかけた。
「光理どの、私からいくつか、質問してもよろしいですかな?」
安珠は穏やかに話しかけた。玲陽は少し迷ってからゆっくりとうなずいた。
戸惑いはあるようだが、おびえてはいない、と犀星は思った。ただ、その手だけは離さない。
「今回、市場に行くのは何のためですか?」
何を聞かれるのか、と心配そうだった玲陽が、少し安心を見せた。
「油を買いに行きたいです」
「油?」
「はい。白菜に芽が出てしまって……」
「芽?」
「花も……」
安珠の困惑が伝わってくる。ちらりと、玲陽が東雨を振り返った。つられて安珠も見る。東雨は自分の出番、と背筋を伸ばした。
「畑の白菜が育ちすぎて、花が咲いちゃったんです。でももったいないから食べようと思って。美味しく食べるために、菜種油が欲しいんです。あと胡麻と、香り漬けに山椒も」
調子に乗って増やしてないか、と蓮章が苦笑した。
安珠はうなずいた。
「なるほど、そういうことですか」
玲陽は、言葉につまりながら、
「少しでもできることを増やしたいんです。買い物ができたら、今よりも役に立てる。私は、東雨どのと一緒に買い物をして、食事の献立を考えてみたい。そんな普通のことがしてみたいだけなんです」
玲陽の言葉は、静かに安珠の心を打った。
「わかりましたよ」
安珠はうなずき、それからまた声を改めた。
「では次に……」
と、続ける。玲陽は姿勢をただした。まるで学問の問答だな、と蓮章は思った。
「もし途中で怖くなったらどうしますか?」
玲陽は驚かなかった。その質問は、安珠にされるまでもなく、自分でも考えていた。
「怖くなったら」
と、犀星を見る。安心させてくれるまなざしに、玲陽は勇気がわいた。
「その時は、兄様にそばにいてもらいます」
自分の言葉で、玲陽ははっきりと答えた。
「人前ですから、少し恥ずかしいですけど……」
犀星に再び視線を送る。犀星の方から、重ねていた手に力を込めて握った。
「俺は構わない。むしろ、その方が安心だ。俺のために手をつないで欲しい」
玲陽は幸せそうに目を細め、蓮章と東雨は思わず天井を見上げた。二人とも、ほのかに頬が赤い。
安珠は笑みを浮かべ、
「良いでしょう」
と、続ける。
「もう一つ」
まだあるのか、と東雨が身構える。蓮章が何かを察したように眉を寄せた。
「光理どの。都の人はおそらくあなたを見たとき……」
「わかります」
全てを言う前に、玲陽は一言、遮った。
「私の、この髪や目のことをおっしゃりたいんですよね」
安珠は、小さく息を吐いた。
「はい。周囲の人々があなたを見たとき、どう感じると思いますか?」
玲陽は長く沈黙した。けれど、それは固まったわけではなかった。もともとの玲陽の癖で、深く考えるときには、そうやって、わずかに目を伏せる。その時、彼の頭の中では、あらゆる可能性が検証されている。そして一度口を開けば、犀星をも驚かせるような意見が展開されるのだ。
犀星はじっと、玲陽の横顔を見つめ、答えを待った。
ふっとまぶたが上がる。玲陽の目は、もう迷ってはいなかった。
「私が思うには……」
と玲陽は話し始めた。
「いくつか、考えられると思います」
「考えられることを、全て話してもらえますか?」
と安珠が促した。玲陽はうなずくと、
「まずは、驚きです。見たことがないからびっくりする。次に、恐怖。慣れないものに対して人は警戒しますから、私を恐れたり、逃げたりする人もいるでしょう。それから、嫌悪。気味が悪いと思う人もいると思います。この髪と目を『腐っている』とそしられたこともあります」
その話し方はまさに学者のそれに近かった。思慮深く、落ち着いて、一言一言をしっかりと吟味して言葉にしている。
玲陽の聡明な人柄は、安珠にもよく伝わった。
「また、別の人は、興味を持つかもしれません」
「興味、ですか」
「はい。珍しさに対する興味です。もっと見たい、触らせて欲しいと近づいてくることも考えられます。それは、その人たちにとっては好意的なことなのでしょう。でも、多分私にとっては怖くなることです」
蓮章はじっと、玲陽の姿を見つめている。容姿が人と異なるということが、どれほど自分の自信を傷つけていくのか、それは蓮章自らも経験してきたことだ。
髪を黒く染めるのも、色が薄くて血の筋が浮かぶ左のまぶたに粉化粧を乗せるのも、人から特別な目を向けられたくないからだ。見た目で侮られれば、仕事にまでそれが響く。涼景の参謀として、譲れない地位を蓮章は必死に守っている。
そんな蓮章だからこそ、玲陽の容貌が彼の人生を狂わせるのではないかという懸念を抱き続けていた。
安珠は、まさにそこをついてきた。
「……どちらにせよ」
玲陽は続けた。
「私にとって、この姿は大きな壁になると思います。もしできるなら、少しだけ、隠しておきたい」
そこで玲陽は蓮章を見た。目が合う。蓮章は今度は俺の番か、と微笑んだ。
「いいだろう」
蓮章は強い声で、
「光理、心配するな。お前の髪を自然に隠すくらいのことは俺にもできる。少し着飾ってもらうが、それでもいいか?」
玲陽は頷き、頼りにしています、というように微笑む。蓮章は少しだけ照れた。
「では、装いについては梨花様にお任せするとしましょう」
安珠が結論する。
「最後の質問です」
安珠は膝を正した。
「市場はあなたにとって決して優しい場所ではない。もしかしたら、嫌な思いをすることも考えられます。それでも、あなたは行きたいですか?」
「はい」
これまでで、一番はっきりと玲陽の声が響いた。犀星たちの胸が、ふっと軽くなる。
玲陽は照れた笑みを浮かべて、
「一人では、私はきっと、一生ここを出て行くことはできないと思います。でも……一緒にならできます」
玲陽は頬を染め、控えめに東雨を見た。
目が合って、東雨は思わず、ぐっと胸を詰まらせて涙を拭いた。
一緒にならできる。一緒になら……
玲陽が口にしたのは、今朝、自分が言った言葉だ。ちゃんと届いていた。そのことが嬉しくて、東雨は本当の笑顔を浮かべ、そして泣いた。
蓮章も犀星も、それを優しく見守る。自分たちの代わりに、東雨が泣いてくれた気がした。
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