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6 はじまりのとき(1)

 市場の朝は早い。  まだ薄暗いうちから人々は動き出し、明け方の夢の中にまでその物音が聞こえてくる気がした。  東市の北西の一角に、|明《みん》の店がある。  家族で経営する小さな餅屋で、彼女は小さな頃から宮中や花街などに、箱を背負って売りに出た。この一帯は、彼女の庭も同じだった。  誰が何をした、どこで何が起きた、といった情報も、全て周囲から入ってくる。働き者で気立ても良い明は、市場の商人だけではなく、どこに行っても可愛がられた。特に花街では人気で、女郎たちにせがまれて、花の形をした美しい飴を考案し、こっそりと売っている。贅沢品ではないが、手間をかけて丁寧に仕上げた菓子だ。一度に多くは作れないため、おおやけに店先に並ぶことは無い。なじみの客がそっと耳打ちしたときにだけ、明は嬉しそうにそれを差し出す。  今朝は、ぐっと気温が下がって寒かった。綿の入った着古した着物に外袍を羽織って、明は表に出た。大きく体を伸ばし、冷えた空気をいっぱいに吸い込む。すっきりと目が覚めたが、反して空はどんよりと曇っている。  今日は雪が降るのかな。  明は、ぶるっと身震いした。  早朝から手早く売り物の準備をする。この秋は実りが少なく品物はどれも値が張る。明の店は暖かな饅頭や菓子を扱っているが、それも材料が不足して冬を乗り切るのは厳しそうだ。それは明のところだけではなく、市場全体に言えた。  それでも、東市は南市や西市と比べると活気がある。都の城壁のすぐ外に広大な農地があり、そこに土地を持っている商人が多いためだ。収穫された作物は、南や西に行く前に、この東市に流れてくる。  東市は、東西に長く、南北に少し短い。大通りの両側には、五十軒ほどの常設の店と、その隙間を埋めるように半数ほどの露店が並ぶ。露店は屋台や地面に敷物を広げた形で、その季節ごとの商品が並んでいる。  ほかの市からここに行商に来る者もいる。この季節は、特に干し柿や塩漬けの魚、漬物などが並ぶ。また、古着市が時々立ち、綿入れの上着や毛織物など、掘り出し物もある。薬を扱う店先には、風邪の予防薬や香料が並んでいる。  冬に備えた買い出しも、いよいよ大詰めの時期だ。  今朝は、早くから多くの人が市場を訪れている。走り回る子供や、それを怒鳴りつける男、店先で買い物よりもおしゃべりに興じる女たち。不作だという不安も薄らぐ、そんな朝だった。  明は手際よく、湯気の上がる饅頭を店先に並べていく。その匂いに惹かれるようにして、何人かがすぐに寄ってくる。彼女は笑顔で迎えた。  客が途切れると、明は店先で頬杖をついて、ぼんやりと空を眺めた。こうしていると思い出されるのは、五亨庵の美しい主人のことだ。  どうしているのかな。  小さな頃から宮中に行商に行っていた明は、五亨庵にもよく立ち寄っていた。犀星は買い食いを好まず、売り上げにはつながらなかったが、急な雨に降られた時や、人々の騒ぎに巻き込まれそうになった時など、逃げ込むには格好の場所だった。どんな時も、犀星が彼女を追い出すことはなかった。  明がいる間、犀星はずっと下を向いて、書き物をしたり文を読んだりしていた。その少し伏せた顔が、明にはとても美しく思えた。  それは恋だったのか、それとも美しいものに対する憧れだったのか。けれど、今でも明はこうして、よく犀星のことを思い出す。  大丈夫かな。  犀星は半年ほど前から体調を崩し、最近は故郷へ帰っていたと聞く。しかも、戻ってからも、一切姿を見せない。以前は、市場を歩く姿が日常のように見られた。今は、侍童の東雨が一人で、必要なものを買っていくだけだ。  犀星は特に買い物がなくても、頻繁に市場に顔を出した。店先や並木の下、井戸端、あらゆるところで人々に親しまれ、最近の生活の様子や困り事などの相談を受けていた。  犀星はいつも、穏やかな顔をして静かに話を聞き、うなずき、そして最後に、わかった、と小さく言うのだ。  明は偶然、その姿を見かけると、こっそりと物陰から様子を見ていた。隠れる必要は無いのだが、毎回のように覗いていては怪しまれるかもしれない。彼女は小さな羞恥心を抱きながら、それでも密かに姿を探していた。  このたび、犀星は故郷から、一人の人物を連れてきたという。  人々の話によれば、その人物は、金色の髪に、銀色の瞳を持ち、犀星の側にぴたりとついて、まるで影のようだったという。  金色の髪の人なんて、この世界にいるの?  と、明は、噂を疑った。  歌仙様が、その金色の怪物に取り憑かれたのではないか、そのために屋敷に閉じ込められているのではないか、いや、既に食われたのだ、そんな話が流れてくる。  いくら噂といえども、それはないだろうと明は思った。  店の奥から、母親の呼ぶ声がした。焼餅が仕上がったのだろう。  明は銭箱を閉じ、抱えると、返事をして店の奥へ入っていった。  曇り空の下、ゆっくりと人の波が市場の通りを流れていく。  店先で売られている鶏の鳴き声、犬の遠吠え、子供が何かをねだって泣く声、客を呼ぶ物売りの声、荷車が行き来する車輪の音。何もかもが平和な景色だった。  低い空に、鳥の影がいくつか過ぎてゆく。  明の店から、大通りを東に行ったその先、ちょうど市場の入り口あたりに、美しい装束をまとった一行の姿があった。  半月ぶりに屋敷を出た、犀星たちである。  人々にとっては見慣れた風景。だが、玲陽の目には、すべてが新鮮で、輝いていた。  市場の東の端で、玲陽は周りを見回した。  玲陽の好奇心に満ちた横顔を、犀星は微笑ましく見つめていた。  玲陽が目立たずに市場を歩けるように、と、蓮章は自身の持ち物から使えそうなものを選び出した。金色の髪を自然に隠すため、薄墨色の絹の布が、髪と顔のまわりをふんわりと包んでいる。遠目には、高位の者が外出する時のいでたちに見える。それに合わせて、刺繍入りの袍と、裾の広い袴が選ばれた。どちらも淡い灰青色で、初冬のうすい昼の光には馴染んだ色合いである。足元は暖かく歩きやすい革靴で、足首は袴の裾で覆った。  玲陽の服装に薄めの色を選んだのには、蓮章の的確な意図があった。玲陽の髪の色は薄く、日の光の下では特に目立つ。濃い色の服には一層映えて印象が強くなる。蓮章は、万が一に備えて、色調にも配慮していた。  さすがは花街を唸らせる蓮章である。こういうことにかけては、抜かりがなかった。  玲陽だけが装いを整えると思っていた犀星は、自分に向けて差し出された着物に、思わず眉を寄せた。  公式の場に出る時以外は、一切の装飾を嫌う犀星である。  しかし、蓮章はかたくなだった。  玲陽だけが目立ったのでは元も子もない。犀星が少しでも派手な格好をすれば、それだけ人々の目が犀星に向く。その分、玲陽が助かる。  そんな理屈で犀星に着物を押し付けた。玲陽のため、と言われてしまっては、犀星が断ることはできない。  仕方なく、着慣れない緩やかな着物に腕を通した。白色の、細い彩りのある袍と、裾の広がりを抑えた袴、黒色の帯に、薄手の肩掛け、足元も草履ではなく、灰色の革靴を履く。そして、緩やかに流した髪の髷には、いつもの銀色に揺れるかんざしを一つ。ここのもまた、蓮章の意向がある。犀星の髪色は玲陽ほど強烈な印象にはつながらないものの、深く艶のある蒼色をしている。そこに白色の装束を合わせれば、自然と目に鮮やかにうつる。つまり、玲陽はごく地味に、犀星は目立たせて、という対比だった。  色も落ち着いているし、形も華美ではないが、犀星にとっては、実用性に欠ける装束である。緩んだ袖口が特に気に入らないらしい。動きやすい深い黒染めの服があてがわれた東雨のことが、犀星は少し羨ましかった。  だが、犀星の困惑はこれでは終わらなかった。  支度を整えた三人の前に、着飾った蓮章があらわれた。いや、『蓮章であった人』というべきか。  東雨などはポカンとしたまま、手にしていた湯呑みを落とした。 「そこまでする必要、あったんですか?」  市場の人目を気にしながら、東雨はもじもじし、恨めしげにそばに立つ蓮章を見上げた。 「どうせやるなら徹底的に、だろ」  蓮章の瞼の上に乗せた粉化粧の、うっすらとした赤みがやけに気になった。 「そういう問題じゃないです」  不満を言いながらも、東雨の声はどこか上ずっている。  蓮章はその切れ長の灰色の瞳を、わずかに細めた。東雨は肩をすくめながら、 「みんな見てますよ」  と、言い訳のように言う。 「見せておけば良い」  と、蓮章が笑う。 「おかげで、誰も光理を気にしない」  蓮章は、わずかに得意げだ。  それもそのはず、周囲の人々の目は、突然、市場の端に現れた『美女』に釘付けなのだ。  犀星は苦笑した。噂には聞いたことがあったが、まさかこれほどとは。  色鮮やかな裾の長い女の装束をまとい、美しく化粧を施した蓮章は、まさに別人である。これが暁隊を束ねる副将であるなど、誰も思うまい。今の彼は、まさに妖艶な雰囲気を身にまとった絶世の美女そのものだった。  犀星も玲陽も美しさでは劣らないが、華やかさには欠ける。  蓮章は先頭に立った。 「さあ、行こうか」  見た目が女性でも、その口ぶりは男性そのものである。 「頭がどうにかなりそう」  東雨は天をあおいだ。  玲陽はそんな東雨と蓮章のやり取りに、緊張が解けていくのを感じた。すぐ隣には、そっと犀星が寄り添ってくれている。体は触れないが、手を伸ばせば届く距離だ。  玲陽は、昨夜、犀星と交わした会話を思い出した。  できる限りひとりで頑張りたい、と言ったとき、犀星はわずかに不安そうな顔をした。だが、すぐに納得したように頷いて、励ましてくれた。  ただし、絶対に無理はしないこと、見える場所にいること。それは約束した。  何かあって、玲陽が一時的に固まってしまったとしても、自分で解決したいと思ったなら、犀星を呼ばないことにしている。どうしようもない時は、『兄様』ではなく『名前』を呼ぶ、と決めた。  固まって声も出なかったらどうするんだ、と犀星は心配したが、玲陽は笑った。 『どんな時でも、あなたの名前ならば呼べる』  それが玲陽の想いだった。犀星はそれ以上何も言わず、しっかりと抱きしめてくれた。 「どうした?」  犀星は、ぼんやりと自分を見つめている玲陽を見て、優しく尋ねる。 「いえ、ちょっと安心しました」  玲陽は、少し先で不毛な言い争いをしている蓮章と東雨を見た。 「私、やってみます」  犀星が微笑む。玲陽には、ここにいるから、という、言葉ではない声が、聞こえた気がした。

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