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6 はじまりのとき(2)

 改めて、市場を見回す。  玲陽は、生まれてから一度も、歌仙を出たことがなかった。  玲家の屋敷の周りには、似たような市場があったが、田畑の中の穏やかな市と、紅蘭とは違う。  歌仙の街並みが、春の柔らかな光の中の花畑なら、紅蘭の市場は、夏の盛りの日差しに照らされる街道の喧騒だ。  活気が満ちている。  今の時期はまだ静かな方だ、と聞いていた。それでも玲陽には、充分すぎるほどの賑わいである。  玲陽は、左腕にかけていた市籠を見た。  その中には、油の代金と、買った油を収めるための小さな壺が入っている。子供の頃に、犀星と一緒に市場まで買い物に行ったときのことが思い出された。小さな自分にもできたのだ。きっとうまくいく。  玲陽は顔を上げた。硬く踏み固められた土の道をゆっくりと歩き始める。埃もたたないほど、その歩みは静かだった。犀星は自分に歩調を合わせている。数歩先を行く蓮章が、わざとらしく周囲に愛想を振り撒いている。 「蓮章様、少し派手ですね」  と玲陽が小さく言った。隣の犀星はうなずいた。 「おかげで、お前が楽になるのなら、かまわない」  犀星の基準は、いつも玲陽が中心である。それが玲陽には、愛おしかった。どんな言葉よりも、犀星が隣にいることが心強い。そして、蓮章や東雨がその外側からやんわりと自分を包んでくれる。たくさんの人に大切にされている。その思いは自分を強くしてくれる。一人ではないのだ。  玲陽は、見るものすべてに興味が湧いた。店先の鶏は、竹籠の中で一生懸命に鳴いている。並べられた魚は、見たことのない形をしていた。軒下に吊るされているあの乾物は、なんだろうか。  甘い匂い、香ばしい匂い。店先で煮ている量り売りの惣菜が、冷えた空気に真っ白な湯気を上げている。ちらりと鮮やかな人参の色が見えた。来年は人参も育てよう、と庭の畑を思い出す。  髪を覆う薄い布が、歩くにつれて優しく風に揺れる。一見しただけでは、髪の色に気づかれることはないだろう。だが、髪は隠せても目は隠せない。店でやりとりをするときには、どうしても見られてしまう。自分の心と体が、どう反応するのか、それはその時にならなければわからない。  行き交う人々の姿が、玲陽には生き生きと鮮やかに見える。  そこには、たくさんの人生があった。  赤ん坊から老人までが同じ場所に集っている。一人ずつの生き方があり、悩みも苦しみも喜びもそれぞれだ。自分もまたその中の一人に過ぎない。  自分を取り巻く世界があまりにも重く、それがすべてのような気がしていたが、彼らから見ると、玲陽の人生もまた、多くの中の一つに過ぎない。  そんなたくさんの生き様が交差する場所を、犀星と並んで歩く。それは玲陽に、共に人生を歩んでいるという実感を与えた。 「私は、今、あなたとここに居られて、この場所を、この時間を一緒に過ごすことができて、それがどれだけ恵まれたことなのか、幸せなことなのか、やっと考えるに至りました」  玲陽は囁くように、そんなことを言った。じっと犀星は聞いている。唇がかすかに震えて何か言おうとしたが、黙ってそっと空に向いた。  涙をこらえている?  玲陽は、とっさにそう思った。 「こんなところで、泣かないでください」  少し意地悪く、玲陽が言った。 「泣いてなどない」  犀星が声を震わせる。玲陽はその顔にうっとりとした。  その瞬間は、ふたりには珍しい、完全な『隙』であった。  女性が一人、小走りに二人に近づいてきた。彼女は抱えていた荷物が崩れることがないよう、注意をそちらに向けていた。すれ違いざまに、玲陽の肩に女性の荷物が軽くぶつかる。 「あ!」  女性も玲陽も、同時に声をあげた。  犀星がハッとして振り返る。 「ごめんなさい」  女性はどうにか転ばずには済み、荷物の陰から玲陽を見た。  咄嗟のことに固まっていた玲陽は、声も出せず、女性を見つめ返した。 「……っ!」  女性の顔が、みるみるうちに引き攣った。  まずい!  犀星がそう思った時には、遅かった。 「……怪物!」  女性が甲高い声を上げた。蓮章は素早く振り返った。若い女性が、目を見開き、明らかな恐怖を浮かべて、玲陽を凝視していた。  玲陽は自分を守るように、固く目を閉じて顔を背けた。  ざわざわと人の声が重なってゆく。皆が女性の視線を追って、他の人々の注目も玲陽に集まり始める。こそこそと耳打ちしたり、値踏みするような目で遠巻きに玲陽をのぞいている。  玲陽はじっと動かない。傍には犀星が立っているが、ふたりの間には人一人分の空間がある。犀星の手は、今にも玲陽に触れたくてたまらないというように震えていた。しかし、玲陽はじっと体を縮め、それでも助けは求めていない。  まだ、耐えるつもりか。  蓮章はしっかりと玲陽に体を向け、様子を見守る。玲陽は目を閉じ、下を向いたままだ。  いいぞ、と蓮章は思った。  目を閉じてしまえば、色はわからない。それは意図したことではなく体の防御反応だったのかもしれないが、とりあえず好都合だ。髪も薄い布で覆い隠している。わずかに耳元に髪が揺れるが、離れていれば、はっきりとは断定できないだろう。  玲陽はじっと、唇を結んでいる。  親王を呼ばないつもりか。  蓮章は黙って周りを見回した。いくら玲陽が沈黙を保ったところで、状況は悪化していく。周囲の人だかりは大きくなり、自分たちを中心に、距離をとって円をつくる。  蓮章はちらっと犀星を見た。犀星は玲陽を見つめ、その表情はこわばっていた。彼自身も決して余裕があるわけではない。  任せろ。  蓮章は何事かを決意すると、東雨を見下ろした。 「東雨」  と、低く呼ぶ。  このままでは大変なことになる、と焦っていた東雨は、びくりとして蓮章を見上げた。そして、蓮章の、その意味ありげな視線に戸惑った。明らかに、何か指示を出している目だ。 「蓮章様……何を?」  かすれた声で、東雨は呼びかけた。蓮章の唇が、不敵に歪んだ。 「俺に合わせろ」  そこにはっきりと、好戦的な光が燃えていた。東雨はおののいた。  ……これ、絶対、ダメなやつだ!  東雨は悟った。彼の周りの大胆不敵な大人たちがこういう顔をする時は、決まってろくなことが起こらないのだ。そしていつも自分は無理やりに巻き込まれる。それは経験上、思い知っている。  彼の中で、すぐに逃げろ、と本能が叫んだ。だが、逃げたが最後、後からどんな目に遭わされるかわからない。  万事休すだった。  青ざめる東雨を意に介さず、蓮章は女性のふりをしたまま、人々の視線と玲陽との間に立つ。そしてゆっくりと腕を振り上げ、大きく広げて注意を引いた。 「ばれてしまっては、仕方がないわね」  声そのものが空中で光るような、色めいた女の声音がそう言った。  東雨は全身が、ゾワっと寒気に襲われた。恐怖ではなく、腹から湧き起こる興奮。その声はまるで、東雨の神経を直接撫で上げたようだ。  蓮章は髪を覆う布に指をかけた。布がひらりと舞い落ち……  その下に、金色の髪が現れた。右目は垂らした髪で隠し、左目だけで人々を睨む。  人々が一斉に震え上がる。あちらこちらから、小さな悲鳴が聞こえた。  東雨は目を疑った。  ……蓮章様、その髪っ……  玲陽のものとは明らかに色味が違うが、このような状況では金色と思われるに十分な明るい色だ。  いつの間に染めた? いや、どうして? 訳がわからない!  東雨はひたすら混乱する。  だが、東雨の悲劇はそれだけで終わらなかった。  蓮章は芝居がかった仕草で周囲を見渡した。その目はまるで相手を食い殺そうかという妖の目だ。  灰色の左の目がきらりと光る。それはまるで、銀色の瞳のように。  東雨は、蓮章の意図に気づいてしまった。そして、後悔した。  まさか! まさか! 嘘だろ! 俺にやれってのかよっ……!  蓮章が浮かべた意味ありげな笑み、そして、自分に合わせろと言った意味が繋がった。  もう、めちゃくちゃだ!  東雨は、心臓がばくばくと鳴るのを感じた。  どうなっても、俺のせいじゃないからなぁっ!  心で絶叫しながら、東雨は蓮章から逃げるように飛び退く。人々の間に入ると、蓮章を指差して叫ぶ。 「こいつが化け物だ! 金の髪と銀の瞳だ!」  東雨の大声に、民衆たちが一気にどよめいた。 「化け物っ……!」 「……喰われるっ……!  皆が尻込みする。逃げようとして、何人かが足がもつれてひっくり返る。  蓮章は、満足そうにゆっくりと見渡しながら、 「うるさい連中だこと」  と余裕を見せた。 「さぁて、誰からにしようかしら?」  まるで楽しむように言う。その言葉に皆が腰を抜かし、何人かが泣き声を上げた。子供たちが親にすがり、老人たちが拝むように手を合わせる。 「何事だ!」  騒ぎを聞きつけて、三番隊の隊士が二人、人の輪の中に飛び込んできた。蓮章の姿を見て、彼らもまた驚き、動けなくなる。 「おまえっ……!」  若い方の隊士が、蓮章を見て何かを言おうとしたが、言葉に詰まった。噂を知っているのだろう。もう一人も表情を引きつらせ、恐怖で棒立ちになっている。  哀れなほど怯えている隊士たちを、愉快でたまらないという顔で見据え、蓮章は高笑いを上げた。  これはもう演技ではないな、と、東雨は思った。間違いなく、蓮章は楽しんでいる。  蓮章は、完全にすくみ上がっている若い隊士に近づいていった。 「お兄さん、良い男じゃないの」  その声はあまりにも艶めかしく、その場にいた男性たちが、一瞬、腰を引く。女性までが、びくりと体をのけぞらせた。  蓮章は迷うことなく隊士の頬に手を添え、指でそっとなぞる。裳の中でわずかにかがんでいるのか、蓮章の背は少し小さく見える。明らかに女性のふりをすることに慣れている。  ……ここまで来ると、もう、何も言えないや……  東雨は感服してしまった。  蓮章はちらりと東雨を見て、見せつけるように唇を舐めた。  まだ何かするつもり……っ?  東雨がそんな不安を覚えた途端、蓮章は隊士の顔を引き寄せ、躊躇いもなく口づけた。された隊士は目を見開き、指一本動かせない。蓮章の仕草には容赦がなかった。深く、吸い付くように深めていく。  何が起きているんだ……  東雨には刺激が強すぎた。頭が真っ白になる。  口づけられた隊士は逃げることもできず、そのまま固まっている。ねっとりとした動きで、蓮章がゆっくりと口を離す。  ぐらりと傾いて、隊士は土の上に転がった。  ちらっと蓮章が東雨を見る。

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