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6 はじまりのとき(3)

 東雨は、それが自分への合図だと気づいた。ぼんやりしている場合ではない。東雨は必死に息を吸って、 「た、魂を喰われたぞ!」  大声で、嘘を叫んだ。  本当は、紅に仕込んだ毒で、眠らせただけだろう。蓮章自身が毒に耐性があるからこそ、できることだった。  東雨は、用意周到な蓮章に舌を巻く。  噂に惑わされている人々には、隊士が本当に魂を抜かれたように見えていた。人々から一際大きな悲鳴が上がる。  三番隊のもう一人の隊士は、全身を震わせて、蓮章を見つめている。蓮章は、彼を標的に定めた。 「次は、あなたにいたしましょう」  蓮章は言いながら隊士ににじり寄る。  隊士は悲鳴を上げ、這いつくばるように人の群れを掻き分けて、転びながら大通りを逃げ出した。 「あらあら、三番隊は腰抜けだこと」  蓮章の妖艶な高笑いが、再び響き渡った。恐怖に駆られた隊士の耳には、それがどれほど恐ろしく響いただろう。  俺……寿命が十年持っていかれた……  東雨は、その場にぺたっと座り込んだ。じわりと暖かい涙が目に浮かんでいた。  皇帝と話すより、怖かった。  東雨の背後から、苛立ったような足音が近づいてくる。それは東雨の脇でぴたりと止まった。視線を感じて東雨は顔を上げた。  紅色の着流しに、厚手の紅蓮の外袍をゆるやかに着付けた涼景が、じっと自分を見つめて無表情で立っていた。  情けなさ全開の顔で、東雨は涼景と目があってしまった。  ……一番見られたくないところを、一番見られたくない奴に見られた……  自尊心が崩壊する。涼景はふっと笑った。哀れみを込めた目だった。それから、切り替えたように蓮章に向く。 「何をやっている?」 「おや」  蓮章はどこか嬉しそうに、体を捻って振り返る。 「素敵。暁隊の隊長さんじゃありませんか」  静かに歩み寄り、そっと涼景の胸に指先を添える。その仕草はまるで、間夫に甘える女郎のようだ。そのまま涼景に顔を寄せ、よもや口づけるかというところで、ぴたりと止まる。二人の、あまりに近い顔と顔。  その光景は、多感な少年である東雨には残酷なまでに突き刺さった。今度こそ、死んだと思った。 「遅かったな」  蓮章がそのままの距離で、囁くように言った。いつもの、男の声だ。 「もう済んだぞ」  言って、色っぽく笑う。涼景は一才動じず、ただ、やれやれと首を振っただけだった。 「暁様っ……!」  人々の中から、助けを求める声が涼景を呼ぶ。  涼景は蓮章の肩を乱暴に掴んで、動揺している人々の前に突き出した。 「よく見ろ、蓮章だ」  涼景は、蓮章の前髪を掻き上げた。黒と灰の異色の目があらわになる。  その瞬間、その場は更なる混乱に陥った。突然の種明かしに、誰もが何が起きたのか理解できず、あれやこれやとわけのわからないことを喚いている。涼景は対応に追われ、蓮章は知らない顔をして、空を眺めた。  騒ぎがおさまっていくのを感じて、玲陽はそっと目を開けた。  彼は、ずっと音を聞いていた。どこか蓮章に似た女性の声、東雨の叫び、兵士らしい者の怒鳴り声、民衆たちの騒ぎ立てる声、ときどき響く悲鳴。  それでも玲陽は動かなかった。ただじっとその場に立ち、目を閉じたまま、状況が落ち着くのを待っていた。  怖くない、怖くない、怖くない……  そう、自分に繰り返し言い聞かせていた。  そして目を開けたとき、そこに広がる光景は、玲陽が思っていたものとは少し違っていた。人々は自分ではなく、涼景とその前に立つ蓮章を見ていた。  てっきり、一斉に人々の目に晒されるものと覚悟していた玲陽は、目を瞬いた。幸いなことに、玲陽は何も見なくて済んだ。  え?……乗り越えた?  隣では、犀星がどこか呆れ果てたような顔を、涼景たちに向けている。  不思議と、犀星が自分を見ていないことに、玲陽は安心した。いつも心配そうに、自分の影ばかりを追っていた犀星が、今は視線を外している。  それはつまり、玲陽は大丈夫だと、犀星が思ってくれた証拠だと感じた。  星、と呼びそうになって、玲陽はそれを飲み込んだ。そして改めて、静かに呼びかける。 「兄様」  反応して、犀星がこちらを向く。その表情には驚きが残されていたが、それもすぐに柔らかくほどけ、目元が緩む。 「……陽、よく頑張ったな」  犀星は、はっきりと言った。玲陽はにっこりと笑った。  その様子を見て、民衆の中から声がかかった。 「歌仙様!」  人々が、揃ってこちらを振り返る。  犀星は、そっと玲陽を自分の後ろにかばい、それから周りを見回した。堂々と、おちついた佇まいは、玲陽が初めて見る『歌仙親王』の姿だった。 「皆、騒がせてしまい、申し訳なかった」  言って、犀星は一歩進み出た。  玲陽ははっとした。奇妙な感覚を覚える。  犀星の横顔が、なぜか見知らぬものに思われた。  目の前にいるのは、幼なじみでも、兄弟として育った犀星でもない。この国の親王だ。  玲陽はわずかに目を伏せた。邪魔をしないように、静かに見守る。  犀星は、人々の顔を一人ひとり見るようにゆっくりと見回した。その眼差しは、慈しむ暖かさが含まれていた。 「少々訳があって、騒ぎ起こしてしまった。もう、終わった」  犀星の声はまるで、美しく響く鐘のようだ。騒然とした市場のなかでも、誰の心にまっすぐに届く響きをもっている。 「皆には、不安な思いをさせて申し訳ない。許してほしい」  そう言って、しっかりと犀星は頭を下げた。  先ほどまでの騒動が嘘のように、人々の顔に安堵が広がる。  親王とは民に頭を下げるものなのだろうか、と玲陽はちらりと思った。  だが、それがいかにも犀星らしい気がした。そして、そんな犀星の様子を皆が受け入れていることが嬉しかった。誰もが、歌仙様が言うのだから心配は無い、という顔をしている。皆、先ほどの騒ぎを思い出し、互いに相手の動揺をからかいあって笑っていた。  東雨は、まだ震える足で、犀星のそばに寄ってきた。少し離れた場所で、涼景と蓮章は見守っていた。  人々の中にあって、犀星の立ち姿は美しかった。圧倒的な存在感がそこにはあった。  決して華やかではない服装で、高い位置に立つわけでもない。声を荒げることも、大仰に振る舞うこともない。  それなのに、自然と人々は、犀星の不思議な雰囲気に飲み込まれてゆく。自ら進んで、その色に染まってゆく。  まるでそこだけがぼんやりと輝いて、光であたりを照らしているかのようだ。  あなたは今、親王なのですね。  そんなことを玲陽は思った。胸が、きゅうと締まった。 「歌仙様がお戻りくださって、安心しました」  そばにいた男性が言った。  犀星は静かにうなずいた。 「心配をかけた。これからは皆のためにまた、力を尽くさせて欲しい。助けてもらえるだろうか?」  人々は顔を見合わせ、にっこりと笑った。それはごく自然に浮かんだ、犀星に対する信頼と感謝の証だった。  犀星は静かに微笑んだまま、そっと玲陽を見た。  人々は、犀星の視線に誘われるように玲陽に顔を向けた。先ほど玲陽とぶつかった女性が、頬をこわばらせた。  そのとき、 「歌仙様」  と呼び声がして、一人の少女が大通りの向こうから、全力で駆けてきた。犀星はそちらを振り返った。  箱を背負って、行商に行く途中の明だった。 「久しいな」  と犀星は声をかけた。 「お元気そうで、安心しました」  と、明は呼吸を弾ませて微笑んだ。それからふと、玲陽の方を見て、問いたげに首を傾げた。玲陽のまぶたが微かに動いた。玲陽は一呼吸を置き、そっと微笑む。  その目の色に気づいた何人かが、身構えるように身を引く。だが、玲陽は動じなかった。しっかりと顔を上げ、明と向き合った。 「犀光理と申します」  玲陽はっきりと名乗った。  東雨の顔がぱっと輝く。犀星もまた、眩しいものを見るように目を細めていた。  玲陽は何を思ったのか、そっと髪を覆う布に手をかけた。そして意を決して、ゆっくりとそれを引き下ろす。  美しく波打つような金色の髪が、市場の白い風にたなびいた。その場にどよめきが起こる。  透き通るような、輝く髪だった。 「私が怖くないですか?」  玲陽は琥珀の瞳で明を見つめたまま、はっきりと尋ねた。 「全然」  笑顔のまま、明は首を振った。その返答に玲陽は少し驚きを見せる。明は重ねて、 「全然怖くないです。だって、歌仙様が笑っていらっしゃるから」  犀星が微笑む相手なのだから、怖いはずがない。  それが、すべての答えだった。  玲陽は思わず手を胸に当てた。犀星はそっと、玲陽の袖を引いた。 「紹介させて欲しい。私の弟だ。都は初めてゆえ、わからぬことも多い。皆、どうか、よろしく頼む」  明が思わず、手を打った。そこから、自然と人々の間に拍手が沸き起こる。その音は低い空を押し上げるように高くなり、玲陽は息を飲んで人々を見回した。  フッと、涼景と蓮章が顔を見合わせて笑う。東雨は目を潤ませて、鼻をすすった。 「陽」  犀星が玲陽の背中に手を当てた。それは励ますようでもあり、同時に促すようでもあった。  玲陽は大きく頷くと、一歩、前にでた。それから、柔らかな笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。  一層高まる拍手を聞きながら、玲陽は確かに心が熱く、強くなるのを感じていた。  その日、玲陽は幸せだった。  時間はかかったが、自分の速さで市場を歩き、油屋で、小壺に一杯の油を買った。店の主人と、短い話もした。少し驚いたような目で玲陽を見ていた主人は、しかし、決して彼を傷つける事はなかった。  帰り際、明は少し照れたように、小さな飴の包みを差し出した。それは、玲陽が初めて見る透き通った優しい赤や黄色で、花の形をしていた。彼女が作った花飴だと、犀星が懐かしむように言った。  屋敷に戻って、東雨と一緒に、念願の白菜の花の揚げ物を作った。そして、大根の葉の塩漬けと一緒に、粥に添えた。  いつもと変わらない慎ましい夕食。そこに込められた思いの大きさは玲陽の腹と胸をいっぱいにした。  幸せな時間だった。寝支度を整えて、床に入ろうとするまでは。  鏡台の前で、玲陽は髪を解いていた。東雨が丁寧に整えてくれた髪。このような複雑な結い方に慣れていない玲陽は、紐が絡んで途方にくれた。犀星がそれに気づいて、笑いながらそっと手を貸した。  自分の髪に犀星の指が触れる。それが嬉しくて、玲陽は鏡を見る。鏡越しに犀星の腕が見える。その時だった。犀星の着物の袖が自然と肘まで滑り落ち、腕があらわになった。  玲陽はドキリとした。犀星の腕の内側の柔らかい場所に、赤い傷があった。

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