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6 はじまりのとき(4)

 それは、玲陽の中の不安を一気にかき立てた。  どこで怪我をした?  犀星がそのような場所を無防備にさらすことなど、そう多くはない。  例えば……  玲陽は怖い想像をした。  例えば、それは、自分と一緒に体を寄せて眠っている時……  玲陽は今まで、多くの傷を受けてきた。そのため、それが何によってつけられた傷か、自然とわかってしまう。  ……あれは、かじられた痕だ。  そのような傷を犀星に付けることができる人間は、自分だけだ。  玲陽は最近、夜中の一時、記憶が抜け落ちるのを自覚していた。それは夢を見ているようでもあったが、なんとなく違う気がしていた。  柔らかな場所についた犀星の傷、自分の夜中の抜け落ちた時間。そして誰より、自分を深く想ってくれる犀星の心。それがつながる。戦慄が走る。  玲陽は想像し、真実を探り当ててしまった。  直接尋ねるべきか。いや、彼は答えないだろう。  犀星は、真実を隠しておくつもりだろう、と思った。だが、疑ってしまった以上、それを黙って見過ごす事は玲陽にはできなかった。  せめて、確かめたい。  玲陽は平生を装って、犀星の隣で横になった。目を閉じ、眠っているような素振りを見せる。 「今日は、本当に頑張った。疲れただろう」  と犀星が優しく話しかけてきた。自分だけに見せる、あまりに無防備な仕草だった。 「はい。でも幸せでした」  玲陽は正直に言った。それは本心だった。だが彼は今、別のことが気になってならない。  言葉は少なく、ただ確かめるように、犀星の胸に顔を寄せ、肌に暖かさを感じる。鼓動も聞こえる。背中を支える犀星の腕。自分に対する献身的な想いを感じずにはいられない。  玲陽はずっと目を閉じたまま、時が過ぎるのを待った。犀星の体の熱を自分の体が受け入れ、そのまま自分の熱として馴染んでしまうまで。  ……こんなにも体が溶け合っていくような優しい人に、私は何をしているのだろうか。  玲陽はやましく思う心を隠すように、ぎゅっと犀星の衣を握った。唇を静かに寄せる。  それからまたしばらくじっとする。  犀星の呼吸に合わせると、楽に息ができる気がした。  ……星、ごめんなさい。  玲陽は行動を起こした。  犀星の体に沿わせて手を伸ばし、その肩をつかむ。抵抗しないことを確かめながら、ゆっくりとその上半身に体を重ねる。  玲陽は何も言わない。ただ自然を装って呼吸は乱す。その息が犀星の喉元に触れる。喉から肩の曲線に流れ込むように、玲陽は顔を埋めた。  泣きたくなるほど、柔らかい。  犀星は玲陽の頭を後ろから手で包んだ。撫でられているようでもあり、抱かれているようでもある。  少しだけ、犀星の手に力が入る。その動きに任せてみると、犀星は玲陽をそっと胸元へ導いているようだった。  喉ではなく、こちらだ。  そんな仕草だった。  玲陽は逆らわず、体を下ろした。そして、犀星の夜着の襟の合わせに、ぐっと顔を寄せ、鼻を擦り付けるようにそのあわいを広げる。  こんなにも大胆に肌を求めることは、今までになかった。全部忘れて、このまま、ただひたすらに甘えてしまいたかった。けれど、真実を求め始めた玲陽の心は、自由にはなりきれなかった。緊張のために胸が高鳴って、長く息を吐いた。その時わずかに喉が締まり、小さく震えるような声が出た。 「大丈夫」  低く、犀星が優しい声をかけてきた。  すぐに意味がわからなかったが、玲陽はもう一度わざと声を上げた。 「大丈夫だから」  そう言って、犀星は頭から背中にかけて、優しく撫でた。玲陽の背中の傷に触れて痛めないよう、気遣いながら。  ああ、もう、泣きたい。  玲陽は、弱くなりそうな心を振り払う。  思い切って、体をよじり、犀星の腕にすがった。先ほど傷があったあたりだ。  犀星はひたすら、傷つけないように、そっと玲陽を包み込もうとする。だが、玲陽は手首を抑えつけ、そのまま肘の裏に歯を当てた。  しっとりとした犀星の皮膚が、玲陽の舌先に触れる。  嫌だ、傷つけたくなんてない!  とっさに玲陽は強く唇で吸う。  犀星は怒らない。抵抗もしない。  しかしそれは、愛撫として受け入れているのではない、ということが、玲陽には直感でわかる。ただただ、玲陽の行動を見守っているだけだ。 「大丈夫、怖がらなくていい」  犀星は、そうつぶやいている。そして丁寧に髪を撫でる。  ……怖がらなくていい? それは、どういう意味?  玲陽はきつく目を閉じ、今度こそ、震えながらその肌を噛んだ。じっと犀星は動かない。  明らかに、皮膚を噛み締めた感触がある。かすかに血の味。痛むはずだ。それなのに犀星は全く反応を示さない。  こんな反応は、おかしい。犀星はあまりに冷静すぎる!  玲陽は焦り、何かに取り憑かれたように、いくつもいくつも犀星の腕と胸に傷を残した。噛みつき、爪を立てる。少しずつ自分の痕を刻んでいく。  それなのに、犀星は自分を押し返さない。逆に、あやすように呼びかけながら、腰の後ろをとんとんと叩き、撫でてくれる。 「誰もおまえを傷つけたりしない。おびえなくていい。俺はここにいる。大丈夫」  そんなことを、繰り返し語りかけてくる。それは明らかに、玲陽をなだめるための言葉だ。まるで、何度も繰り返してきたことであるかのように、静かに。  玲陽は確信し、動きをとめると、すっと体を起こした。  薄暗い月の光が、犀星の顔を照らしていた。  玲陽は、その顔をじっと見つめた。 「やっぱり」  玲陽が言った。その一言に、犀星は明らかな動揺を示した。久しぶりに見る大きな反応だった。 「陽、おまえ……」 「はい」  玲陽はうなずいた。 「……ごめんなさい。あなたを試した」 「…………」 「あなたの腕に傷があるのを見てしまった。あんなところに傷をつけられるのは私だけだと思った。だけど、私には記憶がない。だから」  犀星は、少し悔しそうな顔で目をそらす。肩で大きく息をしているのは、自分の心を整えているからだとわかる。  それからそっと玲陽の肩に手をかけて、自分の上にゆっくりと引き寄せた。玲陽は身をゆだね、包み込むように、上から抱きしめる。 「黙っていて、済まなかった」  犀星は言った。玲陽は、一層顔を寄せて、 「謝らないで。こんなこと、あなたが私に言えるはずがない」  犀星があえて隠していた意味が痛いほどわかる。責める気持ちはなかった。 「ごめんなさい。私が弱いから……あなたに酷いことをしてしまった」  犀星は、黙って玲陽の髪を撫でている。  玲陽は自分の中にある不安を、正直に言葉にした。 「私の中には、私ではない、誰かがいるんです。それは時々、私を不安に駆り立てて、過去に引き戻そうとする。私はそれが、この病の元凶なのだと思っています。この敵と、戦わなきゃいけない。なんとしても……。そして、必ず勝ってみせる。負けたくない。こんなものに、負けたくないんです」  それは、玲陽が自分の心のありようを、しっかりと認識した瞬間でもあった。 「陽……」  犀星は、背中の傷に触れないよう、さらに強く抱きしめた。 「違うよ」  優しく耳元でささやく。 「それは違う」  と、首を振る。  じっとしたまま、玲陽はその声を聞いていた。まるですべてに答えをくれるかのような、優しい声だった。 「おまえの中に、敵なんていない」  犀星は言った。 「それは、お前が辛い時に必死に戦ってくれた、『もう一人のおまえ』なんだよ。おまえの心が全て壊れてしまわないように、耐え続けてくれた『もう一人の陽』だ。傷ついて助けを求めている、おまえ自身なんだよ」  玲陽は、静かに自分の中に深く入り込んでくる犀星の言葉を、ひとつひとつ受け止めていた。 「だから、な。戦う必要なんてないんだ。倒すのではなくて、癒してあげよう。俺も一緒に手を尽くすから」  玲陽は泣きそうな顔で、犀星に擦り寄った。 「私は……昔の自分に戻りたい。心から笑って、怖くてもちゃんと前に進めた。昔の自分に戻りたい。私は……」 「昔の陽は、消えたりなんてしない。ちゃんと、今につながっている」  犀星は言った。 「けれど、俺が見ていたいのは過去じゃない。今の陽なんだよ。痛みも傷も弱さも、全部まるごと受け入れる。俺は、昔のおまえに会いたいなんて思わない。今のおまえと一緒に生きていきたいだけなんだよ」  玲陽は思わず声をあげた。それは喜びだったのか、安堵だったのか。  犀星を抱き返すその手は震えていたが、恐怖ではない。  ……いいんだ。私は、このままでいいんだ。  玲陽は全身の力が抜けていくのを感じた。そのかわりに、犀星の腕の強さが自分を支えてくれた。  昼間、毅然として民の前に立った歌仙親王が甦ってきた。  あれは、玲陽が知らなかった『今の』犀星の姿。  自分はずっと過去の犀星にすがってきたように思う。けれど、目の前にいるのは、昔のままの犀星ではない。あの頃より、もっと強く優しくなった犀星を、玲陽は見ていたいと思った。 「私も」  玲陽はそれを声にする。 「あなたを誇らしく思います。昔のままの大切なあなたがちゃんとここにいる。けれど、たくさんの人たちに愛されて、その思いに正面から向き合って、昔より強くなったあなたを見ていたい」 「陽……」 「過去ではなく、今とその先の時間を、一緒に生きていきたい」  そう言って、玲陽は少し体を起こし、犀星と額を合わせた。目を閉じる。 「だから、私は言います。傷ついて、それでも私を生かしてくれた『もう一人の私』に。心から、ありがとうって」  犀星の目に、熱い涙が溢れ、静かに流れ落ちた。  つながった。  それは、二人の間にあった十年の空白が、意味のある時間に変わった瞬間だった。  犀星も玲陽も同じ眼をして、見つめ合った。  口付けられないことが、これほど悔しいと思ったことはなかった。  犀星は自分の唇に触れた。そして玲陽もその指に口づける。小さな戒めを挟んで、二人の唇が重なる。  それ以上、言葉はなかった。共に生きていく時間が、きっと答えを出してくれる。  静かに夜が二人を包む。  中庭の回廊の隅に、ちらりと白い雪が落ちて、小さな雫にかわった。  その冬、初めての雪は、羽のように空を舞い続けた。

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