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7 五亨庵(1)
玲陽が紅蘭での暮らしに溶け込み始めた頃、雪はすっかりと町の景色を変えていた。
初めて味わう雪国の冬は、玲陽には厳しい。彼は持ち前の熱心な性格を駆使し、常に効率的に環境改善にあたった。
一番先に玲陽が手をつけたのは、暖をとることだった。適した着物の選び方、火鉢を置く位置と高さ、効果的に火を焚く時刻と長さ、部屋の換気の道筋に薪と炭の割合。また、同時に湯を沸かしたり、干物を炙ったり、体が温まる茶を研究したりなど、あらゆる方面に関心と努力が注がれた。
温まる。
たったそれだけのことに、ここまでの労力を傾ける玲陽。東雨が尊敬の眼差しを送ったことは、言うまでもない。
次に玲陽が着目したのは、毎日の食事だった。一年中温暖な歌仙とは違い、紅蘭は四季の変化が豊かである。季節ごとの特徴的な食材や、厳しい冬にそなえた加工方法、凍結を防ぐための保存の仕方、体を温める料理、薬膳、燃料を節約して調理する工夫など、こちらもあらゆることが対象となる。
食べることに関しては、東雨は非常に協力的だった。
玲陽と東雨は、よく二人で市場に出かけた。
初めはあれほどの警戒体制で挑んだ市場行軍が、いまは気軽で楽しいひとときだった。
市場の人々は玲陽のことを、親しみを込めて『悌君《ていくん》』と呼んだ。これは、玲陽が犀星の弟であること、礼儀正しい人柄であることから、自然と広がった呼び名だった。玲陽も最初は恥ずかしがりながら、それでも呼ばれると、はい、と小さく返事をした。
そんな玲陽の変化はもちろんのこと、東雨は『光理様予算』として犀星から生活費の増額があったことが、さらに嬉しかった。犀星は玲陽のためとなれば、ありえないほどに甘いのだ。
家のことを玲陽と東雨が引き受けてくれたため、犀星はその分、本来の仕事に打ち込むことができた。
涼景が警備の合間に、五亨庵の留守役から文書を預かって、屋敷に持ち込んだ。馬の鞍に括り付けた箱いっぱいの木簡の山は、間違いなく犀星に対する当てつけだろう。運び役となった涼景でさえ、慰めの言葉をかけることもできずに、玄関先で、では、と箱を置き去りにしたくらいだ。
これ、焚きつけにしていいですか。
箱の中を覗いて、東雨は大真面目に呟いた。犀星も、遠くを見ただけで何も言わなかった。
留守役の慈圓は、なかなか顔を出さない犀星に、ずいぶん焦れていると見える。
涼景を通じて、こちらの状況は五亨庵に伝わっている。そのため、玲陽の病状を案じて直接訪ねてくることはないのだが、犀星に対しては容赦がない。
犀星は私室にこもると、大量の書面に目を通し、一つ一つ的確に返答をつけた。
中書侍郎を勤めていただけのことはあって、慈圓が作る書類はわかりやすく、無駄がない。おかげで、決裁だけであれば即座に済ませることができた。
慈圓が抱える宮中の情報は、まさに生き字引という膨大さだった。官僚の経歴や実力、人間関係にとどまらず、彼らの弱点ともいうべき過去の疑惑や性癖に至るまで、その全てを知り尽くしていた。
それらを駆使し、理詰めと容赦のない語り口で、交渉においては負け知らずの強者である。犀星のやや奇抜な政策を実行するためには、彼の巧みな政治手腕が欠かせなかった。
その慈圓が、策略家として天塩にかけて仕込んだのが、犀星である。犀星はすんなりと慈圓を受け入れ、宮中での手管を学んできた。
基本的に、大胆に物事を進めることが多い犀星だが、慎重になる場面もある。たとえば、周囲からの依頼、要望、苦情の項目などだ。このような案件の心情的な配慮は、慈圓ではなく、犀星に一任されていた。
表情が乏しく、感情を持たないのでは、という噂まで立てられる犀星だが、それは真実ではない。実のところ誰より繊細に対応する力があることは、あまり知られていなかった。
手元に届いた案件のほとんどは、民衆から寄せられたものだ。正式にまとめられた訴えに、犀星自らが市中で相談を受けた事柄、最近の人々の関心ごとなどを加えて対策を練る。今までの経緯と今後の展望を多角的に考え、結論を導く。すぐに解決できない問題については、必ず代替え案や一時的な対応を示し、継続して問題解決にあたるための道を示した。
犀星のそのような政治手腕の根幹は、犀遠が領地をおさめる姿を見て、自然と身についたものであった。
慈圓からは理論武装を、犀遠からは人心に寄り添う精神を、犀星は自分のものとして身につけていた。
慈圓は、犀星にしかできない英断を求めるからこそ、憎まれることを覚悟の上で仕事を届けさせるのである。
緊急性を要するものとしては、燃料の問題が浮上していた。作物が不作だった影響で、冬にかけて、あらゆる商品の物価高騰が懸念されている。特に冬は薪の使用が欠かせない。これが不足したり、高値で手がでないとなると、直接、命の危険につながる。
犀星は、宮中の地図を頭の中に描いた。持ち主の没落などの理由で放置されている空き家が、数多くある。そのままでは倒壊の恐れもある危険な『木の塊』を、燃やすことはできないだろうか。犀星は、対象となる建物の洗い出し、建材の丁寧な分別や解体の方法、薪として配布するための流通網などにも触れ、慈圓に返事を書いた。あとは、慈圓と、もう一人の官吏である緑権が動いてくれるだろう。
内容の多くは、さほど機密性のあるものではない。
しかし、中には官吏たちの裏の事情や、時には宝順帝に対する謀反の疑いなど、穏やかではないものも混じる。犀星はどれに対しても真摯に向き合い、熟考を重ねて草案を作った。そして、何故かというか、やはりと言うべきか、すべてを玲陽にも見せた。
東雨はたまらず、苦く笑った。
自分にだって見せてくれないのに……
そこまで思って、東雨は、まぁいいかとやめた。見たところで、どうせ自分にはわからないだろう。それに、と東雨は考える。
光理様は、これから五亨庵で働くはずだ。
犀星が玲陽を屋敷に残して、一人で出かけるなど想像もつかない。どう考えても一心同体である。
それは、東雨にとって、あまり愉快な話ではない。
そうなるだろうと予想はしていたが、いざその時が来ると、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
自分がどのように振る舞えばいいのか、少しずつわからなくなっている。原因は間違いなく、犀星と玲陽の関係性にある。それが気に入らないのだと言うことを、東雨は最近ようやく自覚していた。
だが、もしかしたら面白くなるかもしれないと、東雨は意識して楽観的に考えた。
賢い玲陽が加われば、新しいことが始まる気がした。
玲陽は、飲み込みが早い。専門的な都でのあれこれ、人間関係、時事的なことがらについて、一度聞けば覚えるし、一度読めば忘れない。
さらに、それらを自分の言葉で理解し、説明することもできる。難しいことも玲陽の説明であれば東雨は理解できた。この点が東雨にとって一番の大きな利点である。何しろ犀星はとにかく話をしない。自分だけが理解して、東雨には何も言わない。尋ねたところで、大した答えは期待できない。
長い間、言葉の足りない主君に仕えてきた東雨にとって、丁寧にわかりやすく話をしてくれる玲陽は本当にありがたい存在だ。
五亨庵には……いや、俺には光理様が必要だ。
必要、と考え、利用するのだ、と思い直す。
東雨の気持ちは、いつまでも、大きく揺れる振り子のようだった。
……今はまず、元気になってもらわなければ。
まだ時々不安な顔を見せる玲陽のそばに寄り添って、あれこれと安心させながら、東雨は関係を深めていた。
時々ふと、宝順帝のことがよみがえる。
……これで、いいんだ。俺は、間違ってない。
東雨は心の中で強く自分に言い聞かせた。
時は過ぎ、玲陽が都に来てから一ヶ月がたった。体のときと同じように、玲陽の心の回復は、安珠の想像を超えて早かった。まだ無理はできないが、本人がやりたいというのであれば、色々と挑戦させてもよいと安珠は言った。
ただし、必ず夜は眠らせるように、と、特に犀星に向かって、ゆっくりと含みのある言い方をした。犀星は、白檀を焚いて香らせること、気持ちの休まる茶を寝る前に飲ませること、などを答えていた。
いや、そこじゃないでしょう?
と、東雨は乾いた笑みを浮かべた。
東雨は毎朝、ある種の期待を込めて、そっと犀星たちの寝所を覗くのだが、そこには行儀よく並んで寝ている二人しかいない。こっそりと夜中に忍び込んだときも、ただ、静かに時間だけが過ぎてゆき、自分はすっかり凍えてしまった。
掃除をしますね! と、部屋に入っても、それらしき痕跡は無い。
洗濯をするので! と、寝具を取り替えても、やはり何も見つからない。
何やってんだよ、若様っ……!
と、ついには妙な気分になる。
親王という立場上、犀星の後胤に関することがらは、皇帝に委ねられている。そのため、遊女であろうと、女性との交わりは許されない。そのため、東雨のような存在が、公式にあてられている。
だが実際、その配慮は必要なかった。もともと犀星は、色恋に対する情熱が薄いのだ。おかげで、夜伽役の東雨にも、一度も手出しをしたことがない。
一方、東雨は、犀星を悦ばせるため、指南役からあらゆる性技を叩き込まれた。自分から手を出さない犀星の性癖を憶測し、最近は男を抱くことも教えられた。抱き心地を損なわぬよう、手足を太く鍛えることを禁じられ、髪を切ることも許されなかった。傷が残るほどの怪我にも、気をつけている。
犀星のため、東雨なりに準備はしているが、全てが徒労におわっていた。
別に、若様と、そうなりたいわけじゃない。
寂しさを感じるのは、苦労が報われないからだ、と東雨は思うようにしている。何のために、気味の悪い男たちに体を開いてきたのだ、と、恨めしかった。
そんな中、玲陽ならばと見守っていたが、どうやらそれもないようである。
犀星のそのような潔癖ぶりに、東雨は諦めを感じ始めていた。
蓮章のようになれ、とは言わないものの、毎晩肌を寄せて抱き合って眠っているのだから、何かあってもいいではないか。いや、それが健全というものだろう。
でも、あの若様だしな。
期待するだけ無駄か、と東雨はどこか切なくなると同時に、ほっと安堵もする。
東雨にとって犀星は、どこまでも清らかな存在だ。穢れることを知らない犀星の生き方は、東雨には遠く感じられる。親王の夜伽のためと称して弄ばれてきた自分と比べ、綺麗なままの犀星は、憧れと嫉妬の対象でもある。
そんなあまりに刺激のない平和な毎日の果てに、ついに、犀星が五亨庵に戻る日が来た。
蓮章は『今あの人と顔を合わせたくないんで』と、逃げるようにして朝早くに宮中へ戻った。
玄草様に叱られるのが怖いのだろう。
と、東雨は納得した。
五亨庵筆頭官吏の慈圓は、蓮章と涼景の師匠である。慈圓は、ふたりがまだ幼かった頃に、縁あって引き取り、門弟として屋敷に住まわせながら学問を教えた。そのつながりもあって、蓮章たちはいまだに、慈圓には頭が上がらない。
犀星が偶然に慈圓を五亨庵に招き、自分の側近として仕事を任せるに至ったとき、涼景が思わずがっくりと肩を落としたことを、東雨は覚えている。そんなに怖い人なのか、と東雨は心配したが、実際の慈圓は、厳しいものの決して物わかりの悪い人間ではなかった
考え方は的確であるし、何よりも常識人だ。
……若様に比べれば、だけど。
東雨は、裏に起毛を織り込んだ袍を重ね着しながら思った。
慈圓は文官としては剛気な気性で、犀星の大胆な政策にも臆せず乗ってくる。口は悪いが、さっぱりとしていて後腐れがない。その場でどんなに叱られても、少しするとけろっとしている。
東雨は最初の頃はそんな慈圓にビクビクしていたが、今ではすっかり慣れてしまった。
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